obata/論文コメント

  • Bravermanの構想と遂行との二分法にのっかたかたちで、構想に熟練を読み込む、というのはどうでしょうか。むしろ、この二分法自体に、熟練の解体、Bravermanのいう馴化の考え方の萌芽がすでに埋め込まれている、という方向で批判したほうがすっきりするでしょう。もし、熟練が構想の側面に引き寄せられて理解されるとすれば、遂行の側面は基本的に脱スキル化するわけです。これでは遂行のうちに形成される、口では説明できないが、腕でこなす、といった熟練創出の動態過程が消えてしまうのではないでしょうか。人間労働の本質には、構想と実行の分離があるのだ、という、これはこれで否定しがたい一般命題と、ここから熟練は絶えず解体されるのだ、という命題との間にいろいろ考えなくてはならない問題あります。一般命題から、熟練の解体原理だけではなく、生成原理のほうも同時に導出できるはずです。こちらはどうなっているのか、沖氏の立場からすれば、Bravermanの一面性を批判したほうがいいでしょう。

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Last-modified: 2021-02-20 (土) 17:32:13