そうしたなかで経済体制をめぐる議論も 当時とはかなり異なった趣を呈している。 一つの立場は、 このような地殻変動をやはり収斂説的に捉えながら、 ただその収斂するところは混合経済や 産業社会ではなく 実は資本主義経済そのもので あったのだとするものであろう。 たしかに、社会主義が瓦解してゆくなかで NIES諸国にみられるような新たな型の資本主義社会が台頭してくる 状況は、まさしく歴史的な発展の主導権を 握る主体が資本主義そのものであることを 如実に示しているかのように映じてくる。
しかしひとたび資本主義そのものの内部に目を転じてみると、 そこでは合衆国がもはや単一の機軸であることを止め、 それに雁行するかたちで 日本を中心とした東アジア地域や EC統合を押し進めるヨーロッパ地域に 新たな機軸が形成され、 しかもこれら3者の間の性格の違いは、 社会主義の瓦解と 第3世界における資本主義的発展の動きによって、 むしろますます顕著なものになってきている。 この点からみると、 21世紀に向かって全世界が望ましい、 なにかある単一の経済社会に向かって収斂しはじめたと 単純にいいきるわけにはゆかない。 この問題は、もう少し一般的な枠組みのもとで 捉えかえしてみる必要があるように思われるのである。
しかし、資本主義経済の歴史性は 単にこのような資本主義経済一般と その外部との関連にとどまるものではない \footnote{ 小幡\cite{obata0} % 199-203ページを参照。 } 。 たしかに マルクスが考えていたように、 資本主義経済がある一つの型に収斂するとすれば、 \footnote{ マルクスの収斂説の典型的な箇所として しばしば引き合いにだされるのは、 「産業の発展のより高い国は、その発展のより低い国、 ただこの国自身の未来の姿を示しているだけである」 (Marx\cite{DKI} S.12)という議論である。 } その特殊性はこの収斂する型と 他の諸社会との対比のうちに明らかにされるべきものとなろう。 ところが、資本主義経済自体、その発展の過程で 多様な型を生みだし変容をとげてきた面がある \footnote{ たとえば宇野弘蔵の経済理論は、 このような側面を特に強く意識して形成されたものである。 宇野\cite{houhouron}「II 経済学研究の分化」 33ページ以下 をみられたい。 } 。 そうしたなかでマルクス経済学の課題も、 資本主義経済一般の特徴を 純粋理論的に捉えるというだけではなく、 むしろ資本主義経済の発展段階を解明する 基準を提示することへと、 その重心を移していった。 そして、このような現実の資本主義経済の多様性への関心は、 マルクス経済学の研究において、 意識的にせよ無意識的にせよ、ともかく 共有され強まってゆく傾向にあるといってよい。 こうして以上のような新たな次元で、 資本主義経済のさまざまな種差としての歴史性が 次第に重要な問題となっていったのである。
しかし、はじめに述べたような80年代における 同時多発的な地殻変動は、 二つの歴史性の間にはっきりとした 境界を設定することの意義を 著しく減衰させているように思われる。 1970年代以降の第3世界における状況は、 そのすべてが資本主義国への道を依然断たれたままだと いいきることを次第に無理なものとしている \footnote{ とりわけ シンガポールやホンコンなどの都市=国家型の発展には、 興味深い問題である。 軍事的な優位性に、広大な領土と大きな人口を抱える大国の論理が 強く効くことはたしかであるが、 資本主義経済の発展にとって、はたして巨大な国民国家の形成が どこまで必須な要件であるのか、 先進資本主義国内部における 大都市一極集中の動きと重ねあわせてみると、 小国のメリットが効く歴史的な環境が存在することも 一概には否定できないように思われる。 Laxer\cite{Laxer}参照。 } 。 もともと、資本主義経済の発展段階を、 生成・成熟・没落といったかたちに整理することは、 一定の価値判断を前提にしてはじめて可能なのであり、 純粋に理論的にそうした位置づけが導きだされるわけではない。 経済理論がなしうるのは、 資本主義経済がその発展のなかで多形化してゆく 契機となりうるものを探り、 なぜ変容を繰り返すのかという問題を解く 鍵を用意するところまでであろう。 だがこのような範囲に限定するならば、 経済原論ははじめにみた収斂か拡散かというような問題に対して、 単に現象を記述することをこえて、 現代における経済社会の動態に内側から照明をあててゆく という課題を担いうるように思われるのである。
この点を労働力を例に、もう少し説明してみよう。 労働力商品がかかえる問題は、 マルクス経済学の純粋理論の展開においても、 一つの重要な柱とされ研究が重ねられてきた。 しかし、その商品化にはさまざまな次元において不純な 契機の介在する可能性が潜んでいることもたしかである。 そのような複雑な契機に対する一般的な処理方法は、 いわば《不純な契機の純化》とでもいうべきものであった。 すなわち、労働力商品をそれ自体として分析の対象とし、 その商品としての特性を積極的に掘りさげてゆくというのではなく、 それをできるだけ単純な要素に還元することで 理論展開の前提として挿入するといった接近法である。 たとえばそこには人間の主体性の関与とか、 家族のよる生活過程を通じた供給基盤の維持とか、 一般商品と比べて明らかに異なる契機が存在し、 その結果労働市場は市場とはいっても かなり特異な市場に変成せざるをえないのではあるが、 しかし原論の展開においては そうした諸々の契機の分析には立ち入らず、 労働力商品が資本によってその供給量を調整できない、 純粋な資本主義経済における《唯一の単純商品》である という一点に絞り込んだうえで、 理論展開の内部に導入するというような方法がとられてきた。
こうすることで、 たしかに恐慌現象の理論的な分析にとって 必要な、好況末期における賃金騰貴を説明するための 最低限の道具は調うことになる。 しかし、これは周期的な恐慌現象に対するある種の意味づけと 資本過剰による恐慌論の枠組とがあらかじめ前提されており、 そこから理論的に逆算することで労働力商品のある特性が 抽出されたのだといえなくもない。 そしてそのかぎりではまた、 たとえば綿花価格の上昇という対外的な契機を 労働力商品という一国的な要因に投影したにすぎないのだといった、 対象の内部構造をかえって遮蔽してしまう極端な《当てはめ=理論》を うむ素地にもなっているのである。
しかし、資本主義経済の多形化や変容に対する関心を 満たしうるような理論を組み立てるとすると、 《不純な契機》を抽象化し、あるいはその一面を取り出すというのではなく、 人間労働の基本的な特質の分析からはじめて、 流通形態論の展開に端的に示されるような 市場一般によって、 労働力を商品として処理をするには 労働の諸契機をどのように解体し再構成せざるをえないのか、 といった問題を明確に設定し、 その考察方法を意識的に追求してゆかなくてはならない。 こうして、 いわば不純と思われ掩蔽されてきたものの内部構造を 積極的に分析してゆくことが必要となるのである \footnote{ 詳しくは小幡\cite{obata1},\cite{obata2}をみられたい。 } 。
このような意味で、 市場の競争的な編成原理と相対立すると考えられてきた、 いわゆる《 不純な契機》はそのほかにも、 広い意味における人間労働のあり方と密接にむすびついた、 生産技術の形成と交替の問題、 \footnote{ 小幡\cite{obata3},\cite{obata4} } 社会的再生産にとって外的な、 自然環境に関わる広い意味での土地所有の問題、 \footnote{ 小幡\cite{obata-1} } 信用機構の形成などに顕著に現れる制度的要因の問題など、 いくつか理論展開の内部に見いだすことができる。 たしかに、 それらを市場の原理と別個に分析しようとしても その理論化はむずかしいであろう。 可能なのは、それ自身の内部構造が 比較的理論化しやすい市場の側の分析を基底としながら、 それが外部の異質な契機をどのように分解・結合し、 その過程でまた自らも変容することになるのか、 実際の理論展開のなかで探ってゆくことであろう。 この結果経済原論は、 市場そのものに対する一般理論を基層としながらも、 その内部に抽象の度合を異にする いくつかの理論層をかかえた構造にならざるをえないかもしれない。 今日の状況はこうした基本問題に立ち返って、 経済原論の課題と方法を再考する刺激に満ちおり、 経済社会の変化に知的関心をいだくものにとっては、 歴史的な存在としての資本主義経済のもつ 多形性と変容を解き明かす理論を構築する 好機であるように思われるのである。
参考文献