今日さまざまな方向から議論されている 情報をめぐる問題は、 マルクス経済学の理論の観点から捉え返してみると、 次のような二つの問題群に分かれてくる。 その一つは、生産技術との関連である。 従来マルクス経済学は、技術の問題を 経済過程に対して所与のものとして 理論的な考察の枠外におくのではなく、 むしろ人間労働の特質の解明を基礎として、 生産方法の発展が経済社会に及ぼす作用を 一つの重要な考察対象としてきた。 『資本論』に即していえば、 「労働過程」の分析を基礎とした 協業・分業・機械制大工業の展開において、 マルクスは彼の時代における先端技術の趨勢が 資本家と労働者の間の社会的な関係に及ぼす 影響力の分析にいち早く着手したのである。 そして、今日の情報通信技術の新たな進展は、 彼の時代とは異なる労働の知的な領域においてではあるが、 しかしある意味では同じような類型の社会的な作用を 加えつつあるように思われる \<\footnote{ 小幡道昭「コンピュータと労働」,『経済学論集』( 東京大学), 58-3, 1992年をみられたい。 }%ENDNOTE 。 だが、情報が問題となるのはこのような 直接的な労働過程においてだけではない。
もう一つの問題群は、 マルクス経済学固有の市場理解に 関わるものである。 それは「完全情報」というような想定を 基本とした理論とは、 本質的に異なる市場像を提示してきた。 本稿では、こちらの問題群に焦点をあて、 市場との関連において、 情報の問題の内部構造を整理してみることにしたい。 ただ、その前提となる市場像に関しては、 マルクス経済学者の間においても、 必ずしも共通な了解があるとは思われないので、 この点に関して簡単に私見を示しておくことにする。
このような特徴をもつ『資本論』を基礎として発展してきた マルクス経済学は、 市場そのものに対する次のような独自の認識を 内包する結果となっている。 すなわち、そこでは多かれ少なかれ、 商品の販売には一定の時間がかかるものとされ、 資本の運動の内部には生産期間と 区別される固有の流通期間が存在し、 そこに特殊な性格をもった資本の投下と 費用の支出が避けられないものとする 理解が示されている。 このような状態は、 市場が不完全であるために生じる特殊問題の対象ではなく、 まさに商品価値の本質を論じる 一般理論の課題とされてきたわけである。 そして、 このように市場を通過するのにある期間を 要するというマルクス経済学の基本認識は、 必ずしも労働価値説でなくてもいいわけであるが、 ともかく商品の価値が市場において はじめて与えられるのではなく、 生産過程を通じてあらかじめ 決定されているとする理解と深く結びついていた。 これに対して、 商品の価値は需要供給の反映でしかないと考えるのであれば、 商品がすぐに売れず多少とも市場に対流する現象は、 その商品の売値が高すぎるからであり、 商品在庫が存在するのは けっきょく市場の情報伝達機能が不完全で、 価格が弾力的に変化しないためだ ということにならざるをえないからである。
このようにみてくると、 マルクス経済学が価値形態論の展開を通じて、 貨幣でならなんでも買えるという市場構造を 強調してきたことの背後には、 いつでも市場が売れ残りの商品在庫で充填されており、 逆に売り手は自由な貨幣所有者のなかから、 自己の商品の特殊な使用価値に関心をもつ相手を発見すべく、 たえず一種の情報活動を強いられる状況にあるのだといった 認識が控えている。 こうして、マルクス経済学が提示してきた 市場の基礎構造には、 個別主体が無秩序な世界を どのように把捉し行動するのかという点をめぐって、 いわば重い媒体としての市場に特有な情報の問題が 内包されていることがわかるのである。
ここでは、市場における情報の意味を考える という目的に沿って、それを データ、ソフトウェア、知識という三つの契機に 分けて捉えてゆくことにしたい。 それはなによりも、情報なるものが、 たえずなにがしかの処理過程のうちにあり、 けっしてある過程の結果として与えられた、 静態的・固定的な物量ではないことを 強調したいからである。 すなわち、 日々刻々移り変わる対象世界は、 その状態に関する種種雑多な記録(「データ」)を 生みだすことになるのであるが、 それらは一定の手続き(広い意味における「ソフトウエア」)に したがって処理され、 主体による判断と行動の基礎となる認識(「知識」)に 繰り返し加工されてゆくというように考えるわけである。
工学的な意味における情報の概念は、 一般にはこのうちデータの層に焦点をあて、 ある特定のデータが交信を通じてどのように 別の装置や人間の意識に再現されるのか という問題を中心に展開されたといってよい。 この意味でも情報という概念は、交信という それ自体社会的な契機に深く結びつく 性格を具えているのであるが、 社会科学の固有の領域では、 このようなデータ層での横の再生処理とともに、 社会的なデータ交信が主体の行動にどのように結実するのかという、 いわば人間主体に向かう縦の加工処理が あわせて重要な問題となる。 かりに市場に焦点をあてて考えるとすれば、 さまざまな場所でいろいろな時期に、 同種の商品も異なった価格で取り引きされる可能性があるが、 こような価格状況に関する分散したデータが、 市場という場を介して 個別主体のもとにどこまで正確かつ効率的に再現されるか、 という横の関係とともに、 こうして収集されたデータがいかに関連づけられ、 特定の行動の基礎となる知識に転換されてゆくのかという点が、 経済的な行動の分析においては本質的な問題となってくる。
いまかりに、ここ一週間の間に日本全国で ある規格のメモリ・チップがいつどこで、 どのような価格と数量で取り引きされたかを 調べてたとすれば、 おそらくその記録は膨大な量にのぼるであろうし、 それをただ眺めていたのでは混乱の種になるに過ぎない。 それは特定の目的に沿って、 たとえばどの地域で相対的に高く売れているのか、 またそこでの平均価格はなお上昇傾向にあるのか、 さらにはその上昇がある買い手が大量に 発注したといった特殊事情によるものか、 それとも一般的な品薄によるものなのか、 といったことをデータのうちに 読みとってゆかなくてはならない。 このためのデータの処理過程は、 さまざまな手続きの積み重ねを要するのであり、 そこには現存のコンピュータに 実行させる形態にあるかどうは別として、 広い意味におけるソフトウェアの 動員が不可欠となる。 しかもその処理過程においては、 同じようなデータからも、 主体の関心に応じたさまざまな知識が 引き出されてくる可能性がある。 いずれにせよ以上のような意味において、 知識は個々のデータに内在するものではなく、 むしろその隙間からたえず湧出してくるものなのであり \<\footnote{ 工学理論的な情報概念に社会科学的なそれが還元できないといる観点から、 石沢篤郎『コンピュータ科学と社会科学』,大月書店,1987年, 142頁では 同じような主張がなされている。 ここでは、本稿で使ったデータという用語はメッセージとなっており、 おそらくそのほうが正確な表現かもしれない。 }%ENDNOTE 、 情報とはデータが集積され整理され 知識に加工される過程的存在なのである。
しかし、 市場における活動にとって、 情報がますます決定的な意味をもつようになってきている ということと、 市場における取り引き対象として 情報の占める割合が大きくなってきている ということとは、 基本的に異なることである。 そして、これら二つの事態は両立する関係にあるというよりも、 むしろ背馳する可能性が強いのである。 すなわち、 必要な情報が市場で自由に取り引きされ、 他の商品と同様に貨幣を支払えば いくらでも入手可能だとすれば、 それは従来市場を介した社会的な分業編成の内部で、 新たな技術を体化した生産手段が調達されてきたのと 基本的には同じようなことになる。 このような意味で、情報が商品化してしまえば、 情報を収集加工する企業内部の活動は 収縮するはずであり、 市場における情報活動は、 分業の原理により大幅に節約されるはずである。 だが実際には、 「情報の商品化」には大きな制約があり、 むしろその結果、 生産過程における社会的な分業の深化のなかで、 商品化しにくい経済主体の 情報活動の比重が相対的に高まらざるをえないという点に 問題の本質が横たわっているように思われるのである \<\footnote{ 池上惇『情報化社会の政治経済学』,昭和堂, 1985年 43頁 で照会されている Hirshleifer, "Where are we in the Theory of Information\?", {\it American Economic Review}, 63-2, 1973の議論なども 参照されたい。 }%ENDNOTE 。
とはいえ、あらゆる情報過程のすべての層において、 市場原理の浸透が一様に 困難で成り立ちえないというわけではない。 さきに分析したような情報をめぐる 横の再生と縦の加工という構造をふまえてみれば、 このうち広義のデータ転送に関わる横断的な基層は、 従来からさまざまなかたちで市場を介した 取り引き関係にさらされてきた。 出版とか新聞といった紙を媒介としたデータの 転送や放送・通信などの新たなマスメディアは、 それが物的な生産活動を押し退けて 経済活動の中心になるとは思えないが、 独自の産業的地位をかためつつあることはたしかである \<\footnote{ したがって、そのかぎりにおいてこの種の商品に関しても、 その価値がどのようにきまるのかという問題に答える必要はあろう。 このうち、転送媒体や転送サービスの部分に関しては、 従来の価値論を変更する必要はないが、 必ずしも投入と産出の確定的な関係の 存在しないそれと異質な部分に関してまで、 生産過程の技術的関係がその価格の運動を規制するという 考え方を適用しようとすることは論理的に無理があろう。 マルクスの価値論を外部から眺めると、 情報財の価値は労働価値説では 説明できないのではないかという疑問は 当然に生じてくるのであり (竹内啓「情報化とこれからの経済学」 『経済セミナー』,1987年12月 )、 それに対してマルクス経済学の立場からも、 この種のいわゆる情報商品の価値を労働価値説の 拡張によって説明しようとする試みもなくはないが、 それに与しえない。 労働価値説が基本的になんにでも 当てはまるというかたちで一般化をはかるのではなく、 むしろそれが妥当する対象の明確に画定し、 たとえば純粋の知識のような、 それが適応できない対象との関連を掘りさげることこそ、 マルクス価値論を積極的にいかす途である、 というのが本稿の基本的な立場である。 また、労働にかえて「情報・サービス財」の 基礎財としての性格に注目し、 「情報価値」説を展開する試みもあるが そこにはなおのこと疑問がある。 酒井凌三「『情報化社会』と労働価値説 --- 試論 --- 」, 『名古屋学院大学論集』, 28-2, 1991年。 }%ENDNOTE 。
しかし、この場合でも、 データそのものが 独立した商品として販売されるということは まれなのであり、 実際におこなわれている内容は、 電話事業のようにデータの販売ではなく 純粋に転送サービスを供給する活動であったり、 あるいは、 手元にあるデータのなかから相手の求める ものを抽出し、その複製を相手のもとに 迅速にかつ正確に再生するものであったり、 いずれにせよ 一種のサービス業務と一体となって 「情報の商品化」もおこなわれてきたにすぎない。 情報なるものは、 なにかしら独立した粒のように 個々ばらばらに量り売りされるような 性質のものではないのであり、 それはすでに強調したように 集積し関連づける活動に媒介された 過程的な性格を容易には脱しえない面をもつ。 その点を無視して、 近年における情報通信技術の発展が、 ただちに情報そのものの商品化を 等しなみに促進するものであるかのように 即断するわけにはゆかないのである。
ところでマルクス経済学の理論研究は、 すでにこの断面への商品化の浸透が、 いかなる障碍に直面せざるをえないかを さまざまな角度から分析したきた。 生産価格論を基礎とし 商業資本論や信用論の展開を通して構築されてきた その市場機構の理論は、 市場に関する知識がそう簡単には売買できないという 基本的な認識を土台としてきたといってよい。
たとえばさきの例にもどっていえば、 いま特定の規格のメモリ・チップの価格が、 ある地域の売り手たちから相対的にやすく 購入できそうだという知識をいちはやく 得たものがいたとしよう。 問題はこの知識がそれ自身として 商品化し、取り引きの対象となりうるかどうか、 という点にある。 しかし、利害関係に密着したこの種の知識は、 相手がその正しさを確信しないかぎり売れはしない。 しかし、データをソフトウェアで加工して獲得した結果のみを その過程から切り離して販売しようとするのでは、 一般に確信までは売れない。 そのためにはデータを開示しその加工の手続きまで相手に説明し、 その知識が形成される過程をもう一度相手のまえで 再現し説得しなくてはならない。 だがそれでも、 その確信がどこまで相手のもとに再生するかは 定かではないし、 それを完全にしようとすればするほど、 この知識を獲得する方法まで すべて相手に売り渡すことになり、 知識のみを売ることの利点は消滅する。 このような障碍が程度の差はあれ避けられないがゆえに、 一般的には知識を独立に取り引きするのではなく、 むしろ実際にその知識に基づいて、 自らの危険負担で相対的にやすく買い取り、 それを相場で売るという活動形態のほうが普及してきたのである。
同じようなことは、信用関係の形成をめぐる 理論構成に関してもいえる。 無秩序におこなわれる商品の売買関係のなかでは、 ときとして相対的に早く売れ資金に余裕をもつ主体や 逆に販売がたまたま遅延して資金の不足に悩む主体が生じてくる。 このような関係がある商品の売り手と買い手の間に生じた場合、 前者が後払いででも自己の商品を 高く売ろうとすることはありうることである。 しかし、このような信用取り引きの形成において たえず問題となるのは、それによって繰り延べられた 将来の支払いを、売り手がどこまで確信できるかという点であった。 このことは、基本的には、 買い手が次に自己の商品を販売し支払代金を回収しようとしている側の 市況を調査することで察知してゆくほかない。 しかし、この点に関するデータも処理手続きも知識も、 この両者の間で均質だという保証はない。 こうした場合、資金の事実上の融通を受ける買い手の、 将来の返済資金の取得の確実さを保証するにたる 知識を得た第三者がいたとして、 その場合この第三者がはたしてその知識だけを 切り離してこの場合の売り手に販売できるのかというのが、 銀行信用の一つの基本問題であった。 しかし、ここでも実際に生じてきたのは、 この種の知識を取り引きする独立の市場が形成され、 そこで競争的な売買がされるという関係ではなかった。 このような個別主体の利害に関わる知識は、 自らそれに基づき判断し行動することによるほか、 基本的には利用しにくいのであり、 この場合も第三者たる銀行は、 その形態はさまざまなであろうがともかく、 一方で債権をもつというと同時に、 他方で自ら債務を負う構造を展開することなしに、 その固有の知識を利得の手段に転じることはむずかしいのである。
こうして、 市場がけっして真空状態ではなく、 商品がそこを通過するには、 多少とも時間と費用とを要すると 考えてきたマルクス経済学の理論は、 市場という場が一方では、 データを収集しそれを独自の手続きで処理し、 特定の目的に沿った知識を得るといった、 動的な情報処理を個々の主体に強く求めながら、 しかし他方では、 この種の情報自体が独立した商品として 売買の対象とはなりにくい という結論につながってゆく。 \<\footnote{ Hayek,F., "The Use of Knowledge in Society" {\it American Economic Review}, XXXV, No.4, 1945 (田中正晴・田中秀夫編訳『市場・知識・自由』,ミネルヴァ書房, 1986年所収 ) は、近代経済学の流れのなかで、 いち早く市場のもつ情報伝達機能を中心に考察している。 この伝達機能が充分であれば情報自身の商品化が生じない ことになるのであり、事実ここには情報自身が独立に 売買されるという問題は強調されていない。 しかしその反面、情報活動にコストがかかるという点は ほとんど無視され、価格システムは変化を記録する一種の機械 にたとえられている。 これに対して、 マルクス経済学では、市場における個別主体は、 少しでもやすく買い高く売ろるべく、 無規律な市場で利得追及に奔走せざるをえないとする想定が なされており、そのことがかかる過程への資本と費用の投下を 不可決とすると考えられている。 こうして、 効率的に伝達されたかにみえる情報伝達も、 実は秘匿された情報を探りだすことで 個別的に利得をあげようとする 私的な活動の結果である点が強調されるのである。 }%ENDNOTE 。 その結果、市場に固有な知識の利用は、 商品売買やそれに付随する信用仲介を 自らの責任負担で遂行する 商業資本や銀行資本の発達を促すことになるのであり、 いわば重い媒体としての市場は、 知識の販売の困難という抵抗物に直面して、 独自の機構を形成してゆくわけである。
この関係は、一般の資本の内部に存在する いわゆる流通費用が独立し、 流通資本や余裕資金が外化したものであるとして、 理論的に捉えてゆくもできよう。 ただこのような外化・独立が、 一般の資本の側の情報活動の停止を 意味するものではない点は充分注意する必要がある。 もし一般の資本の側が 自己の商品をできるだけ迅速に 高く売るための情報活動を怠ったり、 あるいはできるだけ有利な条件で信用を与えてくれそうな 相手を自ら調査し判断してゆくこと回避するようになれば、 市場における知識を集中した商業資本や銀行資本との間で、 不利な取り引きを強いられることになる。 この意味で、市場が一方で知識そのものの販売の困難から 独自の機構化を遂げてゆくとすれば、 一般の資本の側にもむしろそれとの対抗上、 独自の情報処理活動をはかる内部組織が 発達する可能性は充分ある。 それは資本の内側にあったものが そのまま外部に押し出され、 単純に独立したというよりも、 両者のそれぞれで変形しつつ 分化したという性格をもつ点を見逃しては ならないのである。