『資本論』第1巻を読む II 第4回

宇野弘蔵の資本概念

3回かけて『資本論』の「貨幣の資本への転化」を読んでみました。今回は、『資本論』の資本概念に対して、宇野弘蔵がどのような批判を展開したのか、紹介してみます。

これまで『資本論』第1巻の第1章から第3章まで読んできたのですが、それはある意味で「資本とはなにか?」に答えるための下準備。第4章「貨幣の資本への転化」がその答えのはず…なのですが、ちょっと屈折しています。第1節「資本の一般的定式」で一般的概念を与えながら、その矛盾を指摘し、売買の世界から発生する資本を否定し、生産の世界にはいってゆきます。

宇野弘蔵が問題にしたのはこの点です。今回は宇野弘蔵『経済原論』岩波全書 1964年を読みながら、もう一度、『資本論』の「貨幣の資本への転化」について考えてみたいと思います。ついでに、最近考えていることですが、資本主義像の二重化について、「貨幣の資本への転化」の視点から、「資本主義と外部」というかたちで、少し話してみます。『純粋資本主義批判』の余滴(オマケ)です。

要約

  • 全体は5パラグラフからなる。簡単にそれぞれのパラグラフの概要をまとめておく。
  • 第1パラグラフ:ここでは G — W — G’ というフォーミュラをつかって、資本の一般概念が提示されている。キーワードは、「変態」「運動体」「資本G」
  • 第2パラグラフ:商人資本的形式 G — W — G’ と金貸資本的形式 G … G’の説明。キーワードは「資本家的活動」(この有無が両形式の違い)。「間に割り込む」
  • 第3パラグラフ:産業資本的形式 G — W … P … W’ — G’ の説明。「小生産者」「資本の価値増殖」
  • 第4パラグラフ:労働力商品の形成に関する説明。「二重の意味で自由」「無産労働者の大量出現」「小生産者の分解」
  • 第5パラグラフ:資本家的商品経済の自立性について。「流通形態」「純経済的」

問題

  • 第1パラグラフにおける資本の一般概念と、第2,第3パラグラフで説明されている資本の三つの形式の関係はどうなるのか?
  • 小生産者はなぜ産業資本といえないのか?小生産者の分解と産業資本(的形式)の成立の関係はどうなっているのか?総じて、資本主義の「起源」をどう理解したらよいのか?
  • 最後の文で「資本家的商品経済は、他の諸形態の経済をも自らの商品経済のうちに解消し、同化する傾向を有する」というが、「資本家的商品経済」と「他の諸形態の経済」の関係はどう考えたらよいのか?資本主義経済は、他の経済を分解・解体するのか、残しながら利用するのか、それらに依存せずに自立できるのか?宇野の議論とはちょっとズレるが、歴史をふり返ってみて、そして、現在の資本主義をみて….

『資本論』との違い

  • 『資本論』の場合、対象化された労働時間による商品の価値規定が資本の価値増殖と矛盾しないことを示すこと、むしろ、労働力商品に一般商品と同じルールが適用されれば、必ず剰余価値が形成されることをしめすこと、が主眼。市場の一般的なルールにしたがって、資本の価値増殖が達成される、ということは、等価交換のルールをやぶって資本家はもうけているのだ、という19世紀の市場社会主義(プルードンなど)に対する批判。
  • 「貨幣の資本への転化」で問題は完結せず、このあとの第5章第2節の「価値増殖過程」で価値増殖がたしかにうまくいくことが示されるかたちになっている。これに対して、宇野の場合、第3章第3節「資本」で第1篇「流通論」は完結し、資本主義経済の自立性(第5パラグラフ)が説かれる。
  • 『資本論』の場合、商品・貨幣・資本と展開しながら、G — W — G’ を否定してしまったため、商品、貨幣の観点から資本を規定したことの効果は充分生かされていない。

資本主義と外部

  • 資本主義の基本像をどう捉えるのか、がキーポイント。私のさしあたりの結論は、
  1. 商品・貨幣・資本で市場システムは完結する。自立したシステム。
  2. 産業資本的形式で完結するのではなく、資本の一般的定式で完結する。この一般的定式は、安く買う(高く売るというかたちも考えるべきだと最近は考えているが)というかたちで、外部に滲透する力をもつ。
  3. 市場システム(商品流通とよばれることが多い)は、外部(広義の生産)から余剰を吸収する。
  4. その方式は、労働力の商品化に限るわけではない。プロレタリアート化だけでなく、小生産者からも、奴隷からも、領主からも、吸収する。
  5. G— W — G’型の資本が中軸をなす市場システムが、資本主義 Mk I である。
  6. このMk I は、労働力商品化(プロレタリアート)を前提とすることで、資本主義 Mk II に発展する。
    というように、原理的にも2段構えで、資本主義は規定すべきだ、と考えている。
  7. 「それじゃ、ウォラーシュタインと同じじゃない?」って。たしかに、似てるという意味ではそうかも。しかし、似ている人は探せばどこかにいるもの。私の結論は、原理的な推論によるもので、事実そうだった、といっているのではありません。
  8. 従来の資本主義像は、Mk II に片寄り、Mk I を「大洪水以前的」「共同体と共同体の間に発生する」交換の世界に押し込めてきたのではないかと反省。
  9. もちろん Mk II が資本主義ではない、というのではない。Mk II に進もうとする性格をもった Mk I 、つまり分解・浸透作用をつよくもった資本が中心をなす市場に、資本主義の原点をおくべきだというのが、最近の私の考えです。
  10. これは過去の話ではなく、現代の資本主義を捉えようとすると、どうしてもこうなるという話。
  11. Mk II に絞りこむのは、マルクスだけではなく、宇野の「純粋資本主義」にも強く作用しています。
  12. Mk II に限定すると、単純にいえば、労働力商品の廃絶が社会主義だ、という主張になる。Mk I に資本主義の第一規定を求めると、ただ賃労働がなくなればよい、ということにはならない。外部に圧力を加える市場をコントロールできるかがポイントになる。もちろん、市場そのものを廃棄すれば、Mk II も Mk I も消えてなくなる。しかし、現実に可能なことは、金儲けを唯一の動機として機能しそれをオーソライズする市場のイデオロギー作用に抗し、それが滲透するべきでない領域を確定し、滲透分解作用をコントロールすることです。
  13. 何が聖域(サンクチュアリ)なのか、これは論理的に導きだせることではない。育児、介護、医療、教育、研究、娯楽、スポーツ….イデオロギーの問題になる。すべてを商品の形態で取りこもうとする市場に対抗する運動が社会主義ということになる。

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