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労働概念の拡張のために



  • 東経大学術フォーラム研究会 報告
  • オンライン
  • 2021年5月25日 14:30

東経大学術フォーラムの事前研究会での報告内容です。研究者のかたも学部学生も参加するということで、どのような話をしたらよいのか、悩ましいのですが、「最先端の研究をだれにでもわかるように説明する」という基本方針でチャレンジしてみます。

なにをどう考えるべきか

なにはともあれ「労働価値説」?

マルクス経済学ではむかしから、ひと言「労働」と口にすると、たちまち「それは労働価値説とどう関係するの?」と問いかえす伝統がありました。おそらく今でも変わっていないでしょう。ただ「労働価値説」に関しては現在、あらかた「解かれえるべき問題は解かれた」

①条件を明確にすれば投下労働量は客観的にきまること。②この量は純生産物の分配をはかるのに有効であること。③同じ条件から、利潤率を均等にする生産価格は決まること(客観価値説)。④利潤率が均等化しない、等価労働量に比例した売買を考える必要はないこと。⑤客観勝ち説があれば、売るのにバラバラな期間を要するという、マルクス経済学の市場像にリゴラスな基礎を与えるのに必要にして十分であること。以上。
時間があれば、当日現場で、簡単に説明します。ただ今日はここにこだりたくはありません…

と私は考えています。

考えるべき問題は、その先にあります。「労働価値説」の陰に隠されてきた未知の「考えるべき問題群」の存在です。情報通信技術が急激に発達し、労働のあり方も大きく変化しています。こうした新しい変化を理論的に捉える準備をしてゆかなくてはならないのです。今日の話の眼目は、このために労働概念はどう組み立てなおすべきか、にあります。そのためにまず、従来の労働概念のどこが障害になっているのか、簡単にみておきます。

技能なき労働

『資本論』は「労働価値説」とそれに基づく「搾取論」のために強い前提をもうけてきました。その最たるものが「単純労働化仮説」です。労働が量として合算できるには、完全に互換的な労働を考える必要があります。たしかに不熟練労働が広範に存在するという想定は、この条件を満たします。しかし、資本主義のもとで労働の実情がどんどんこの想定に近づくというように、ある想定を歴史的事実で根拠づけるようとすると、人間労働の本来のすがたを捉えそこなうことになります。熟練今回の話のなかでは、「熟練」という用語は「技能」「スキル」と同義に用います。英語の skill, ドイツ語のGeschicklichkeitではなくFertigkeitのほうに当たります。なき労働こそ、本来の労働のすがただというかたちで、労働の互換性は、熟練の概念を理論的に分析すれば、一定水準の成果を一定時間で達成できる標準化された「型」にキャスティングされると考えればすむことです。

熟練をまったくもたない「裸の労働力」を最初に設定して、あとから熟練なるものが労働によって生産され付加されるというかたちで「労働価値説」に接合しようとすると、熟練労働の単純労働への還元という出口なき形式論でに迷い込んでしまいます。熟練なるものが、どのような内部構造をもっているのか、こうした基本問題が隠れてしまうからです。

結合なき労働

「労働価値説」は、個々バラバラな主体の労働を前提とします。N人なら一人のN倍の労働量と考える必要があるわけです。こうした個別化された労働主体の想定から出発して、後から労働の結合を問題にするのです。協業と分業は生産力の上昇によって労働力の価値を引き下げる手段として、「相対的剰余価値の生産」のところで、はじめて考察の場に引きだされます。目的をさきにきめる目的意識的活動は、人間の労働を動物の活動と区別する本質として強調されるのですが、個別労働主体内部で閉じられ、他の主体と結合する原理は分析されていません。

これは「労働価値説」には必要な仮定です。これを前提にして、協業や分業という結合労働による生産力の上昇効果は、あまねく資本のものになる、という「相対的剰余価値の生産」につながるわけです。説明の単純化のための「仮定」であるなら、バラバラな労働は「労働価値説」あるいは「客観価値説」や、それに基づく「剰余価値論」の基本を理解するうえで有効です。しかし、この「仮定」を原論全体で維持する必要はありません。維持しようとすると、ぎゃくに人間労働に特有な結合能力が理論の埒外に放逐されることになるのです。

機械に追われる労働

「相対的剰余価値の生産」という価値論の観点から労働を規定しようとした影響は、さらにつづきます。「機械」の発達によって労働力は排除されるという基本命題には、労働の原理的規定への一定の制約が不可欠です。人間はもちろん素手で外部の世界にはたらき変えるわけではありません。どんなときにも、何かしらの手段をつかいます。この側面は、人間労働の本質を分析するときに、一般的抽象的に突き詰めておくべきことです。

労働手段と切り離し、人間の合目的的な活動だけを「裸の労働力」と規定するから、「機械」が発達すると労働力は必然的に不要になる、という結論になります。しかし、出発点としての労働は、はじめから手段をつかう(操作操縦する)活動です。この手段のもつ二つの顔をハッキリ認識すれば、「機械」にもそれが継承されていることがわかります。機械はすべてが完全な自動機械ではありません。「機械」とよばれるものの多くは、オペレーターが操縦するタイプのもので、ミシンでも、自動車でも、コンピュータでもかわりません。自動車を一台導入すれば、自動運転の技術が完成するまでは、一人の運転手が必要になります。いずれにせよ、「手段」の原理的な分析を欠くことが、すべての機械は自動機械であるという極端な仮定につながっているのです。

新しい幕には新しい書き割りを

これは要するに、理論的に説明可能な貨幣は金貨幣だと主張する場合と同じです。19世紀にはその方向に進んでいた(はずだ、とひとまずアタマのなかに構築した)「純粋資本主義」では、単純労働以外の労働は存在しないという立場です。こうした紋切り型の「純粋資本主義論」と手を切り、貨幣にしても労働にしても、もっと抽象レベルをあげて、理論的に構造変化を考えられる「変容論」を開発する必要がある、というのが、私の基本アプローチです。

「労働価値説」あるいは「客観価値説」で社会的再生産の構造や純生産物の分配を説明するには、それに応じた書き割り backdrop が必要となります。そしてその幕で「解くべき問題」はシッカリ解くべきです。しかし、労働に関して考えることはそれだけではありません。「はたらく」とはそもそもどういうことか、それがどのようなすがたをしており、そして今どのようにすがたを変えようとしているのか、こうした問題を考えるには、新しい書き割りが必要なのです。もちろん、演じる役者は同じ労働ですが、舞台が変われば役割も変わり、演じ方も大きく変わってくるのです。

「労働過程」論をこえる

『資本論』の「労働過程」

『資本論』の労働概念の基本は、「労働価値説」にもとづく「搾取論」のためのものですが、第一巻第5章第1節は趣が大きく違います。そこでは価値を形成する労働、生産物に対象化された労働という一連の流れからはなれ、労働の本質が論じられています。宇野弘蔵がここを拡充し、「あらゆる社会に通じる経済原則」を読み取り「原則が法則を規定する」というかたちで、独自に労働価値説を論証しようとしたことはよく知られています。その成否はともかく、労働が価値論のサーバント的な役割とは違う役割を演じていることはたしかです。

「労働過程」の盲点

とはいえ、新たな書き割りがこの「労働過程」でよいかというと、そうはいきません。よく知られているだけに、このうえで労働概念を拡充してゆけばよさそうに思えるのですが、ここには落とし穴があります。この点は、研究者相手に議論をするには、『資本論』のテキストに即してなにが問題なのか、どこに盲点があるのか、キチンと説明する必要があります。しかし、今日はそういう場ではないので詳細は割愛します。およその結論は以下の通りです。

  1. 意志と身体の関係:『資本論』のテキストでは、意志が身体を規制し、身体がモノに作用するという二層の関係が、身体の作用が労働力とよぶかたちに還元されています。なにが言いたいのかわかりづらいと思いますので、誤解をおそれず簡単に言えば、要するに人間の仮定を制御する「能力」が、物理的な「力」の支出になっているということです。
  2. 手段の欠落:「労働そのもの」を考察するところで、目的を実現する「手段」を省き、あとから「労働対象」「労働手段」を追加する構成になっています。全部あわせれば、「労働過程」に「労働手段」が不可避なことが強調されているのだからよいではないか、という人がいると思いますが、こうした要素論があとあと尾を曳き、「労働手段」としての「機械」が発達すれば「労働そのもの」はいらなくなると考える結果になるのです。
  3. 他者の不在:労働とは人間に特有な目的意識的活動だという規定は、この目的がどこからどう生まれるか、という問題を含んでいます。一つの答え方は、それは外部から与えられるのだ、自分の欲求から離れてはたらけるところに動物の活動との決定的な違いがあるのだ、というわけです。正論です。しかし、その先があるのです。この説明は、労働を著しく受動的なすがたにしています。そして後になると、賃金労働者が資本家の与えた指令どおりにはたらくというすがたにピッタリ重なるわけです。しかし、労働には漠然とした欲求を明確な目的に設定するという、けっこう厄介な過程が含まれているのです。この側面を切り落としてしまうと、商業活動や対人サービスなどは、本来の労働ではない、という通念をいつまでたっても打破できなくなるわけです。

労働概念を組み立てる

労働の定義

はじめに「労働」という用語の定義を与えておきます。ここでは「欲求・必要を目的意識的に実現する活動」を労働とよぶことにします。これはあくまで用語の定義であり、考察対象に外側からラベルをはったに過ぎない点、あらかじめ注意しておきます。これから、この用語が指す対象に、明確な内部構造属性 propartyとそのはたらき・振るまい方 method で構成される構造をここではオブジェクトとよぶことにします。ポイントは要因の羅列、ただの列記ではない点です。を与えてゆくことで「概念」を構成してゆきます。

二つの世界

紛れのない書き割りをえがくために、ここではわれわれを取り巻く世界を「知覚」perception できるかできないか、で二分しておきます。ピッタリ一致するかどうかは検討が必要ですが、客観的に計量計測できる対象と、それを超える超越論的対象の区別です。英語ではcountable,uncountable で名詞を二分しますが、あれを思い浮かべてみればよいでしょう。

さらにここでは、だれがはかっても同じになる対象をカタカナで「モノ」と表記することにします。自然科学が対象とするのは、基本的にこれらのモノです。計量計測できればよいのであり、それがかたちをもった有体物かもたない無体物かは問題ではありません。経済学ではふるくから、前者を財とよび、後者をサービスとよんで議論してきましたが、ここではボツとします。

主体の両義性

このような二分法がなぜ必要なのか、有効なのか、それは「労働者という人間」、ここでは具体的なイメージを払拭して抽象的に「主体」とよぶことにしますが、労働する「主体」の特徴をとらえるための工夫です。「意志」(〜しよう)や「欲求」(〜したい)という属性は知覚できませんが、両者は知覚できる世界に半分は属する「身体」に結びついています。五感を具えた身体を介して「欲求」は生まれるわけであり、手足を自由に扱うことでなにかしたいという「意志」がはたらくわけです。

モノとモノとの反応過程

「手段」も「目的物」も、それ自体は知覚できる世界に属するモノです。手段か、目的かは主体がきめるもので、モノに属する性質ではありません。モノは自然科学が解き明かす自然法則にしたがうのであり、この法則はどんなに主体ががんばっても変えることはできません。このモノの間の作用・反作用を「モノとモノとの反応過程」とよびます。金槌で釘を打ったり、加熱してモノを煮たりしても、自然法則が支配している過程です。身体もこのレベルでは力や熱としてはたらくかぎり例外ではありません。しかし、「労働力」をこのレベルのエネルギーの支出に還元するのは、目的意識的活動という定義から完全に逸脱します。「労働力」を注入すれば、それがさまざまな物質に凝固して、どのようなモノでもつくれる、といった妄想からは手を切りましょう。

目的意識的

知覚できる世界の諸現象に対して、「目的物」を設定するのは主体です。主体の意図は、この目的が実現するように「しよう」とするわけです。労働のコアになるのは、この「しよう」「させよう」という意図的な活動です。この行動のしかたを「目的意識的」とよびます。もちろん、いくら「しよう」と念じても、自然法則に反することはできません。なにが実現可能なのかは、主体が知るべきことです。

コア拡張

労働概念はこのコア定義だけでは充分ではありません。そこには大きくいって、二つの方向への拡張の可能性が含まれています。第一は欲求に対する目的の設定に、第二は目的に対する手段の設定に関わります。第一の拡張のほうからみてゆきましょう。

欲求の定式化

目的の設定が、主体の欲求ないし必要に結びついていることはたしかです。ただ、この欲求は漠然とした「〜がほしい」「〜がいる」という欠落で、なにによってどのように満たすことができるのか、は漠然としています。これを満たすには、それがどのような「はたらき」「やくだち」が必要なのかという、具体的なイメージを固める必要があります。

もちろん、その欲求が同じ主体であれば、この過程は意識されることなく自然に実現されるはずです。自分の食欲が目玉焼きのイメージとなっては現れるのはアタリマエのことです。問題は、その欲求が別の主体のものであるときです。「〜がほしい」と思っているいる相手に、「〜ならしてやれる」か、考える必要があるわけです。欲求を具体的で輪郭のハッキリした「はたらき」「やくだち」にかたちづくる必要は、主体間でのやりとりのなかで強まります。

欲求の定式化は、実際には直接的な対人ケアや商業労働において重要なモメントになります。労働の概念を拡張せず、この部分の原理的考察を欠いたまま、後になって商業労働を追加しようとすると、商業労働は価値論と整合するかといった、問題に限定されてしまいます。あるいは、「経済のサービス化」といった漠然としたラベルをはってすますことに終わります。問題はモノないしモノを生産する労働に対して、「サービス」ないし「サービス」に携わる労働の区別ではありません。いわんや、モノの「生産」と同じ「生産」を念頭に、「サービス」は「生産」されるのか否か、などなど、答のでない問題を延々と議論するのは時間の無駄です。

「感情労働」、「サービス化」、等々のかたちで論じられている現象が重要でない、といっているのではありません。他の主体の欲求をハッキリしたかたちにできる能力は、人間の労働を考えるうえで重要な点です。ただ労働の概念を、基礎のところで拡充せずに、従来の労働概念のうえに新しい現象を移植しようとしても無理なのです。労働概念の第一の拡張のネライはここにあります。

コミュニケーション

他の主体の欲求の定式化の基礎となるのは言語を中心としたコミュニケーションです。ヒトという生物種がもつ優れたコミュニケーション能力は、人間労働の重要な契機となるのです。

情報通信技術

この第一の拡張に、情報通信技術の発達は大きな影響を与えます。これは近年にはじまることではありません。紙の発明や活版印刷技術の登場など、古くから技術革新は繰り返されてきました。コミュニケーションの媒体の発達は、この領域における労働の拡張を促し多彩な内容の労働を生みだしてきたのです。

労働概念を拡張するネライは、労働の構造変化、変容や多態化を理論的に捉えることにありますが、情報通信技術はコミュニケーションを通じた欲求の定式化という開口部に作用する重要な外的条件なのです。それは、この後とみるもう一つの技術、つまり生産技術とは違う箇所に違うかたち作用する点に注意する必要があります。

イメージのモノ化

第一の拡張にはもう一つの局面があります。特定の「はたらき」を知覚できる世界でいかに実現するか、という問題です。自然科学を基礎とした工学的な知識は、このための基礎をなします。こうした知識は、経験を通じて自然に身につくものもありますが、意図的に開発することもあります。ここまで労働の範疇に含めるか、別の立場もありますが、今日の労働のすがたを考えるとき、さまざまな研究開発的な活動を他の活動から区別して、それは労働ではない、と排除するのことに、それほどたしかな根拠があるわけではありません。イメージをモノ化する局面を労働の一環として捉え、労働全体の構造変化のなかで特徴づけてゆくほうが有効だと私は考えます。価値論との関係のみから労働を捉えようとすると、労働のこうした局面に光をあてることは困難になります。もちろん、労働価値説の立場からみても、私の客観価値説の立場からみても、研究開発に携わる労働の多寡が、価値の大きさに直接影響するわけではないことはたしかです。しかし、このこととそれを労働と概念規定するかどうかは、別のモノ大なのです。労働の第一の拡張は、主体間のコミュニケーションの局面と、知覚できないイメージの知覚できるモノ化という局面という二局面において展開されると考えられるのです。

さらに一点、注意を補足しておきます。この第二の局面に対して、目的意識的活動に対する目的は、他から与えられたものでも、主体が自分で設定したものと同様に遂行できるところに人間労働の特質がある、という説明がなされてきました。事実上、資本主義における賃金労働者に対して資本家がさまざまな指示を与えて労働させる局面を想定したものです。たしかに、目的設定におけるこの受動性は重要なポイントですが、同時に大きな問題を抱えています。受動性については、ここでは他の主体の欲求も定式化できると能動的に規定したのですが、視点を転じれば、他の主体に目的を引き受わたすことができると読みなおすことも可能です。問題は、受動性を軸にした従来の規定では、目的を設定する過程が労働の外部に押し出されて、みえないイメージをみえるモノにする、という活動が視野の外におかれてしまう点にあります。それは資本家の活動であり、それを手伝う労働者がいても、労働はしていないのだ、というのは、文として成りたたないのですが、これに準じることをいってしまうおそれがあるのです。

いずれにせよ、従来外部に押し出してきた目的設定で、とくに知覚できないイメージを知覚できるモノにするという局面を明示するために、ここでは目的となる「はたらき」「やくだち」といった抽象的な用語に対して、その役割を担うモノを「目的物」とよぶことにします。「目的=目的物+はたらき」です。

目的と手段

第二の拡張に移ります。ポイントとなるのは、目的物に対する手段の存在です。目的意識的活動といっても、目的物がきまれば、後はそれに向かって進めばよい、というワケではありません。ミツバチが巣をつくる過程を人間の労働と比べた、あのよく知られた『資本論』の「労働過程」のイラストでは、人間はアタマのなかで六角形の巣をイメージをつくった後、ただちに作業に取りかかるような印象をあたえます。もちろん、このあと、人間は道具をつかう点が強調されるので誤解はないのですが、問題は「労働そのもの」について論じたところでは、「道具」、一般的にいえば「手段」をつくる過程がでてきません。道具はすでに与えられており、これを使うところに人間労働の特徴があるというのです。

しかし、「目的物」が決定したあとになされるべき活動は、そのための手段を体系的に組み立てることです。それは道具をつくることはもちろん、この手段を組み立てることも含まれますが、手順を工夫し、手段全体を体系化することがその眼目となります。手段と目的物の間にあるのは、基本的にモノとモノとの反応過程であり、それは自然法則にしたがうのですから、整合的に手続きをふめば、だれがやっても同じ結果が再現するはずです。

技術

このように再現性を具えたモノとモノの反応過程に意図した結果が必ず現れるとき、この過程には「技術」があるということにします。だれがやっても同じ効果をもつ技術そのものは、主体の属性ではなく、対象であるモノの反応過程の側の属性です。しかし、それを知らない主体には利用できないという意味では、主体の契機を含んでいます。技術は主体によって「発見」されるべき対象なのです。そして、この発見のための活動が拡張された労働の概念のうちに含まれます。技術開発というと、企業や組織でそれを専門に研究する活動を具体像として思い浮かべるかもしれないが、いまここで考察しているのはずっと抽象化された概念であることに注意してください。人間の労働が、直接目的物に直接はたらきかけるかたちをとらず、手段の体系を通じて、間接的に意図した結果を実現しようとするものであるかぎり、一般的な意味で、手段の体系化をはかる広範な活動がつねに必要となるのであり、この活動を労働概念のなかに抽象化して取りこんでおくことがネライです。これは、労働が歴史的な環境のなかでどのようなすがたで現象するかを分析する、変容論のベースとなります。

もちろんこの過程は、物理学や化学の実験のように整備された環境のなかでおこなわれるわけではない以上、コントロールできない要因によって、目的物から逸脱する可能性があります。主体はたえず過程を監視し目的に向かって調整を加える必要があります。ただ、知覚できる世界に対する自然科学的な知識が深まり、手段が精密に体系化されれば、それに比例して、モノとモノの反応過程の途中に主体が干渉する必要はなくなってゆくはずです。

自動性

技術が存在するということは、モノとモノとの反応過程に多かれ少なかれ「自動性」が含まれていることを意味します。金属は一定の温度に達すれば溶けるのであり、釘に一定の力を加えれば木材にめり込む、当然です。もちろん、この過程は、炉に石炭をくべたり、金槌でたたいたりしないかぎりはじまりません。その意味では、主体の関与が必要なのであり、すべてがはじめから自動なのではありません。ただ、モノとモノとの反応過程の基底には、主体の関与なしに進行する自動性の契機が存在することは注意を要します。自動性の有無で機械を道具から分離し、機械が労働を駆逐するという言説はひろくおこなわれていますが、この分離は厳密には困難です。このように記述できる現象がなかったというのではありません。ただそれは、たとえば英国産業革命期の糸車と紡績機といった特殊な労働手段をめぐって生じた歴史的現象で、それ以上に一般化できる原理ではありません。この問題は、このあと、機械を操縦操作する労働としてもう一度考えることにします。

反復性

ただ自動性には、人間の意志に左右されないというだけで終わらない面があります。ポイントは「反復」です。特定の初期条件をセットすれば必ず予期した結果が得られるという再現性を発見することが技術の基礎です。同じ現象が再現するということは、初期条件に戻れば繰り返し同じ結果が得られる閉じた過程、反復型のループが存在するということです。技術を発見する労働からみると、一回の反復の原理(終点を見極める技術も含めて)がわかればよいので、過程を何回繰り返しても、発見は一度だけ、発見する労働が何回も必要となるわけではありません。「自動的」というのは、再現性をもつ過程が、さらに反復されることだ、と考えるのが妥当です。

労働の排除

モノとモノの反応過程を工学的に分析し処理すると、そのコアに自動性と反復性という基本原理が浮かびあがってきます。もちろん、現実の複雑な生産過程をこのように単純な原理に還元することは無理があります。すべてに当てはまる原理だというのではありませんが、抽象化してゆく、とこの連結した性質が有力な一角として浮かびあがってきます。

重要なのは、この視角からながめることで、「はじめに目的物をきめて次に実行に移る」という「実行」の内部構造に一歩踏みこんだ分析が可能になるという点です。労働手段を括弧に入れてしまうと、身体を動かす活動のみが「実行」にみえてしまいます。しかし、ここで強調してきたように、この過程は①目的物に対して、手段をつくり組み立て、②身体はこの手段にはたらきかけるかたちになります。

このうち①はモノとモノの反応過程を支配する客観法則を基礎に、自動性と反復性によって特徴づけられます。この技術の発見に要する労働量と成果は比例しませんが、発見された技術は一定の時間に一定の成果を生みだすことになります。そして、自動性と反復性を具えたこの後者の生産過程は、主体の関与を削減することになるわけです。最後の局面だけみると、機械が労働を追い出す、という通念になるのですが、全体は①+②の構造になっているわけです。そして①も、通念で考えられている、直接機械をつくる労働だけではなく、発見という活動を含めて考えてゆく必要があるのです。

操作操縦

「実行」の内部構造を分析してゆくと、機械が労働を排除するという通念の別の誤りもハッキリします。「自動性」+「反復性」を体現する手段が「機械」とすると、それは同じループを廻だけであり、開始・停止はもとより、加速減速・方向転換をはじめ、さまざまな操作・操縦が必要となることがわかります。もとより、こうした操作の余地が少ない自動機械もありますが、20世紀に発達した機械の多くは、操作操縦するべきものでした。『資本論』にでてくる範囲だと、ミシン sawing machine がそうでうですが、旋盤も自動車も皆このタイプの機械です。操作操縦する先には、自動性と反復性を基本とする高速強力な装置があるのですが、目も耳も持たない装置は、あくまで主体が五感で状況を判断して、状態を切り替えてゆかなくては無意味な空回りに終わるのです。

むろん、手段の体系化を回避し主体の身体を中心に目的物に作用を及ぼすタイプの「実行」もあります。荷物を担いで運ぶか、荷馬車で運ぶか、トラックに乗せるか、です。しかし、トラックになっても労働がなくなるわけではありません。操作操縦型の労働にかわるのです。もちろん、同じ荷物を運ぶのに今まで10人かかったのが、一人の運転手ですむのはたしかです。トラックをつくる労働を加味しても、10人以下になるのはたしかでしょう。しかし、これは10人の運転手が10倍に荷物を運送できるようになるのあって、必ずしも9人に荷運人足が不要になるとはかぎらないわけです。労働の「実行」の内部構造を分析せず、変容するという観点を見失うと、機械と労働の代替といった誤謬に陥ることになるのです。事実20世紀が終わった段階でふりかえってみれば、この世紀を通じて、労働の主流が操作操縦型の労働に変容していったと考えるほうが、機械によって労働の単純化され排除されていったと主張するよりも、ずっとリアルにみえます。

技能

労働の「実行」が、道具であれ機械であれ、ともかく手段を使うものである糊塗がハッキリすると、労働には熟練が付きものとなることがわかります。『資本論』の「労働過程」を読むと、「労働そのもの」を論じた一節は、労働手段がでてこきませんので、手段を操る技能、熟練の存在が見失われることになります。「労働そのもの」は単純労働に重なり、熟練は単純労働に付加されるという通説になるわけです。しかし、労働が手段を使うかぎり、その手段の特性に応じた技能、熟練、スキルは付きものになります。労働概念は基本的に熟練を内包するものでなくてはならいのです。

ただ、この熟練については注意すべき点があります。それは、手段を使うことにともなう使いこなしの能力であり、慣れであるという点です。どのような手段を使うかによって、あらかじめ必要な能力は枠づけられているのであり、手段の特性をこえた熟練一般があるわけではありません。自動車を運転するには、それなりのトレーニングが必要なであり、旋盤を操るにはそれはそれなりの訓練がいります。しかし、これらは自動性+反復性をもった機械がさきにあって、これに対応した身体の適応が求められる。その意味では、どこまでも上達するような能力ではなく、一定の型への当て込みですから、一定の水準に標準化されます。身体能力そのものであれば、もちろん限度はあるにせよ、運動競技のように努力に応じて個人差が広がる余地がありますが、機械操縦型の技能に究極の技があるわけではありません。型づけられた労働として、さまざまな標準的な技能があるわけです。手段を前提にした使いこなしの能力を「技能」とよび、手段の体系化によって、だれがやっても同じに結果になる「技術」と区別します。「技術」が知覚できるモノに属するとすれば、技術を逸脱するところに作用する「技能」は主体に属する概念です。っそてそのかぎりでは、「技能」には主体の身体の差違を反映した個体差が生じます。しかし、それは主体の身体に帰属する「素質」Geschicklichkeit ではなく、それを特定の手段に型づけした熟練 Fertigkeit であり、そのかぎりで、独自の標準化がなされるわけです。

小括

ここまで、目的意識的に欲求・必要を充足する活動という労働コア定義を、①目的設定の構造、②手段の体系化という二つの方向に拡張して概念化し、さらにこの拡張から初発に定義した労働の内部構造を分析することで、拡張された労働概念を規定してみました。できるかぎり事例に頼らず、抽象的な概念化を図ったつもりです。ここいは次のようなネライがあります。最終ターゲットは、20世紀末に顕著となった労働の変容、すなわちコンピュータと情報通信技術の発達が引きおこした労働の変容です。これに迫るには、『資本論』が典型とみた紡績労働のみならず、20世紀における機械操縦型労働をも、相対化する必要があります。抽象度を高め、労働の対象世界を拡充することで、労働の現象形態をヨコに比較するのではなく、タテに労働概念の変容というかたちで統一的に説明する下準備が今日の報告の内容でした。機会があれば、つぎは情報通信技術を原理的に分析してみたいと思います。それが労働をどう変容させつつあるのか、というメインテーマはさらにその次の話となります。

コメント:海大汎「資本形式論の方法」

  • 日時:2000年 12月12日(土)
  • サイト:オンライン

経済理論学会第68回大会がオンラインで開かれます。報告へのコメンテーターを依頼されました。ここに掲載しておきます。

……と、コメンテーターを引き受けたつもりでいたのですが、プログラムをみるとどうやら私は司会にまわされていたようす。それはそれでかまいませんが、このコメントはここに残しておきます。「問題点」の4は、日本のマルクス経済学に対する私自身の反省です。

さらに、こんなページを覗いた酔狂な人に、少し長めの余談を添えておきます。おそらくこの先ほとんど知られずに終わる、不思議の国の不思議な大学院の話です。

コメント内容

まえおき

『資本論』は「貨幣の資本への転化」の章で「資本の一般的定式」G –W–G’を提示しながら、ただちに「一般的定式の矛盾」でその存在を否定し、その増殖根拠を解明すべく「資本の生産過程」に進む展開をとっている。これに対して、宇野弘蔵は「商品」「貨幣」に続く「資本」の章を「商人資本的形式」「金貸資本的形式」「産業資本的形式」という「資本の三形式論」にあらためた。『資本論』の一過的な「一般的定式論」に対して「資本形式論」は、『資本論』第一部「資本の生産過程」を、『経済原論』の「流通論」と「生産論」に切り分ける篇別再編上の重要な役割を担っている。

概要

本報告は、この資本形式論に関して、第1節で宇野『原論』を、第2節でその後の宇野学派の研究を検討したのち、第3節で自らの主張を展開しようとするものである。

すでに数多くの研究がなされてきたテーマであるが、コメンテーターからみて本報告の特徴をなすと思われる論点をあげれば以下の通りである。

  1. 商品、貨幣と資本との展開方法の差違に「歴史性」を読みとろうとする視角。第2節で検討されている、その後の研究がこの差違を消極化させ「歴史性=不純物=除去対象といった外科手術的なアプローチ」(10頁)を採ってきたことが厳しく批判される。その後の研究が拒絶してきた「復元論」もこの観点から再評価(「歴史復元論」(12頁)とも。私はここまでやる必要はないと思うが)。
  2. 「商人/金貸資本的形式」と「産業資本的形式」の断点を重視し、商人資本的形式→金貸資本的形式→産業資本的形式という「二段構えの展開方式」(13頁)が批判されている点。これは資本主義の生成の歴史性の解明を、資本形式論に抽象化したかたちであれその課題にしようとしていることに対応している。この歴史性は二段階になるわけではないので。
  3. 資本の外来性・外部性の強調。第3節のタイトルになっている「流通の外部からき来た貨幣」の実質は「世界貨幣」→「商人/金貸資本的形式」である。「貨幣の資本への転化」が流通論の内的論理で資本を導出する方向と向かったことへの批判である。ただし第3節の後半は貨殖衝動批判に引っ張れてか、貨幣所有者と断絶を強調するあまり、いわば資本家=エイリアン説への傾斜が目立つ。

問題点

資本形式論のような古典的問題からも、若い研究者があらためて正面から取り組むことで、新しい研究の方向が芽ばえることを期待しつつ、本論文がかかえる問題点を指摘する。

  1. 最大の問題は、「商人/金貸資本的形式」と「産業資本的形式」の関連がほとんど考察されていないことである。第1,2節で資本形式論のポイントが、歴史性をあつかう理論の強調にありながら、第3節では歴史性が凝縮しているはずの「産業資本的形式」の関連にも、「労働力の商品化」の問題にも言及せず、「貨幣」と「商人/金貸資本的形式」の関連にもどってしまっている。前半と後半でちぐはぐな印象をうけるのはこのことによるのであろう。
  2. このちぐはぐの背後にあるのは「歴史性」という概念に対する分析不足である。この用語には、①古くから連綿と存在するさまさまなかたちの商人資本や金貸資本を連想させる「流れとしての歴史」を指す面もあるが、基本は②「資本主義の歴史性」という意味であり、資本主義がある時期にある地域である条件のもとで成立したという「一点」を指すものである。このことは、いきなり宇野『原論』からはいるのではなく、『資本論』との関連をみれば明らかになる。『資本論』は資本主義の成立を第1巻の最後のところで「いわゆる資本の本源的蓄積」としてまとめて論じている。宇野『原論』は、逐一歴史をもちだす歴史=論理説を批判するために、この最後にもってくる篇別構成を高く評価した。ただそのうえで、資本形式論は特別で、労働力商品の取り扱いをめぐって、「商人/金貸資本的形式」から「産業資本的形式」へいたる「一点」に「資本主義の歴史性」がちょっとだけ顔をだすという説明になっている。宇野『原論』の資本形式論とその後の宇野派の研究だけを読むと、『資本論』の原蓄論との関係が明示されていないので問題の核心が捉えにくくなるが、もう少し大きく全体的な枠組みのなかで、資本形式論における特異な歴史性の取り扱いを考えてみるべきであろう。そうすれば、本報告のように②を差しおいて①ばかりにこだわる問題点1の難点は克服できるはずである。
  3. 本報告の積極的主張である「外来性」について。報告では「世界貨幣の外来性」になっているが、外来性、外面性という概念には、それにとどまらず、むしろその本義は「あらゆる社会に通じる生産(という宇野『原論』の用語を私は使わないが)に対して、商品流通(私は市場というが)と、その中心となる資本が、絶対不可欠な契機ではない」という点にある。残念ながら、すでに述べたように、本報告にこの側面への言及はないが、この外来性・外面性にも二つの顔がある。①共同体と共同体の間で活躍する商人資本のもつ、生産に対して無関心でニュートラルな顔と、②利潤を追求するかたちで旧来の生産に「浸透」し、共同体を「解体」し、さらには新たなかたちで生産を「包摂」する、アクティブで破壊的な顔である。宇野『原論』とその後の研究では、一般に①が表の顔となっている。その結果、「商人/金貸資本的形式」→「産業資本的形式」の展開には「論理的な切断」があるとされ、ここに「論理ならざる歴史」、端的にいえば「原蓄論」や「労働力の商品化」が外挿されるという理論構成になる。しかし宇野『経済政策論』(あるいは『経済学方法論』)などを読むと、そこには資本主義の生成期(重商主義段階)を代表する資本として「商人資本」が登場し、彼らをよくみると②の顔をしているのがわかる。そして『原論』の外面性も、じつは②を裏の顔としてもっている。報告は①の顔、あるいはもっとそれ以前の外面に興味を覚えているかにみえるが、今時点でこの問題を考えるなら、②の顔にこそ積極的意義があると評者は思う。
  4. 本報告の圏外になるが、最後に一言触れておきたい。すでに述べたように資本形式論と歴史性の問題は「資本主義はどのようにして生成した(する)のか」という問題を、歴史的事実の分析としてではなく、その一般的含意において理論で考えてみようというものである。日本のマルクス経済学はこの問題を日本の資本主義の生成というかたちで受けとめ、当の日本についてはなにも語っていない『資本論』という外来の書でなんとか理解しようと100年近く苦闘してきたのである。とはいえ明治期以降の日本の現実は、『資本論』の「いわゆる資本の原始的蓄積」を当てはめるには、あまりに大きな隔たりがあった。その歴史は、基本的にイギリス国内で展開された労働力の商品化の過程をもってしては説明しきれない。商人資本的形式や金貸資本的形式を取りこみ資本のもつ外来性が理論化された背景には、後発資本主義の資本主義化を理論的に究明したいという関心があった。そしてこの資本の外来性・外面性の解明は、よそからはいってきたものがすべてを取り込めるわけではないという資本主義の部分性の認識となり、後発資本主義がかかえる二重構造、資本主義化されざる領域の重みを重視する帝国主義段階論につながってゆく。日本のマルクス経済学は、宇野弘蔵にかぎらずこうした後進性に対する関心をバックボーンに形成されてきたのである。
    とはいえ、いまふりかえってみると、そこには大きな欠落がある。戦前、戦後を通じて、マルクス経済学は日本国内の封建性、後発性、不均質性等々ばかりに注意を向けてきた。これでよかったのか。その日本資本主義が同時に、早くから台湾を、そして朝鮮半島を植民地にしたことに、少なくとも理論のレベルまでさかのぼれば、ほとんど関心を寄せてこなかった。ひたすら欧米の資本主義が「外来性」のイメージであり、日本がアジア諸国に対して「外来的」であることを没却してきたのである。報告者が日本のマルクス経済学の、しかもその特異な存在である宇野弘蔵の理論にこれほど興味を示す背景には、おそらく何かしら、アジアにおける日本の資本主義化が帯びている外来性への関心が伏在しているのであろう。できれば次回はこのあたりをぜひぜひ明示的に論じてほしい。

余談 このコメントを書いているうちに、40年以上まえのおぼろげな記憶がだんだん蘇ってきた。私もこの論文の著者とちょうど同じ年頃(…だと思うが縁もゆかりもない人故定かではない)に同じテーマで論文を書いていたのだ。最初に活字になった論文である。最近ではもう当時とすっかりかけ離れた世界をさまよっている気でいたのだが、自分が同じテーマの論文を書いたころの出来事があれこれ浮かびあがってきて、忘れかけていただけになお懐かしく、もはや他人の論文のコメントどころではなくなってしまった。そしてついに、言うまい言うまいと心してきた言葉がはからずも口をついてでた。「年だな…」

あれは1978年の年の瀬だったか、年が明けての年度末だったか、どちらかだと思う。場所は大学の薄暗い廊下だった。明暗という原始の知覚で刻み込まれた古い記憶である。私はある先生からすれ違いざまにこう告げられた。「『経済学批判』の次の号に急に空きができた。書く気があるなら書いてみたら。ただ〆切は1週間後だ」と。執筆予定のどなたか奇特な大御所が、後進のゆく末を慮りあえてドタキャンしてくださった模様。

『経済学批判』というのは私が駒場の教養学部の学生だったころに創刊された「宇野派」の雑誌である。当時のマルクス経済学では「正統派」と「宇野派」が鋭く反目し、一方が「マルクスを騙るマルクス理論ならざる宇野理論」と難詰すれば、他方は「科学をイデオロギーにすり替えるマルクス経済学ならざるマルクス主義経済学」と反駁する、そんな応酬が繰り返えされていた。高校生のころ『資本論』を読むまえに宇野弘蔵の『経済原論』を岩波全書で読んで進学先をきめた私は、学部大学院とこの「宇野派」の世界にドップリつかって早10年、「あそこに書くようなら宇野派だ」と「正統派」から異端のレッテルを貼ってもらえる旗幟鮮明たる雑誌とくれば、「やってみます」と即答したのはもちろんである。

その先生は別れしなに一言「君はナンか書いていたみたいだから…」とつぶやいた。たしかに書いていた。この年の春休みも、前の年の春休みも、その前の年も。事情はこうだ。1974年に大学院にはいってはみたものの、はじめの一、二年は「経院闘争」とよばれる教授会対自治会の激突が尾を引いており、自治会側が教官研究室を逆封鎖、教授助教授が経済学部一階のロビーでスクラムを組み研究室奪還と叫びデモ行進するありさま、当然授業も演習もナシ、指導教官制は撤廃、新たに勝ち取った(と先輩たちはいっていた)五年一貫制のおかげで修士論文もナシだった。それでもやがて二、三の教官が共同でジョイントゼミなるものをはじめると、ここに闘争から脱落した大学院生が五月雨式に乱入、さらに他大学から援軍の大学院生も加わり、あっという間に二十人をこえる大所帯の演習になった。

人数が多いうえに好き勝手が生きがいのような人たちばかり、何を言っているのかわからないと思ったら、それは四つも五つもまえの発言への反論、そんなモザイク状の空中戦の果てに、やがて数人の小グループがあちこちにでき、それぞれローカルなテーマで地上戦が昂進するといった、とにかくハチャメチャな世界だった。教官たちも船頭多くしての伝で、下手に介入すれば自分たちも分裂するおそれがあるとわかっていたのか、ひたすら腕を組んで居眠りをするフリをしたり、窓外かなたの議事堂に沈む夕日を意味ありげに眺むるばかり、所詮こんなワガママな牛たちは放牧状態におくに若くなしと悟ったのか。ただ、この一年に及ぶ放牧には「単位が必要なら年度末にレポートを提出すること」というちょっとしたオマケがついていた。とはいえその〆切がいつなのかハッキリせず、春休みが終わって新年度の演習がはじまっても提出せず「夏休みに書き上げますから」などと「手形」で先に単位だけもらう者も少なくなかった。「君はナンか書いていたみたいだから…」というつぶやきは、要するにこの意味で私が「空手形」を振りだしてこなかったというだけの話である。

もっともこの年度末のレポートはいくら書いてみても、あとはなしのつぶて。新学期がはじまってしばらくしたある日、私はこの先生に「どうでしたか」とおそるおそるたずねてみた。するとあきれ顔で「君は読むと思っているのか」と一蹴された。提出すれば読んでもらえるなどと思っていたのがアサハカだった。書くのはあくまで自分のため、なにかアドバイスをもらってよくしたいなどとケチなことを無意識にでも期待していた自分が情けなく思えた。ただ、こうしたなんともツレないトレーニングのおかげで、自分が書いた論文が人から無視されることに強い耐性ができたのはたしか。それから40年あまり、およそ人に注目されたいといった雑念に惑わされることなく、「まただれも読まない論文を書きましたね」などと若い人に冷やかされながら、自分のあるべき理論を追求できたのだ。

ただ私は、この有り難いトレーニングを自分の学生にしたことはない。こうした特訓の副作用か、自分が教えられたやり方で人を教えるなど、そもそもできぬ体質になっていた。そしてなにより私自身、こんなトレーニングが普遍性をもつなどとは思わなかったからだ。あの自由放牧は大学闘争の遺産、時代は急速に変わっていった。私が学部生だったころ月々1000円だった国立大学の学費もやがて100倍、200倍、ついには500倍に跳ね上がるにつれ、学生もそれに見合うサービスがあって然るべきだと思うようになったのか、しきりに論文を読んでくれとせがまれるようになり、私は請われるままに読んでそれなりに丁寧なコメントを与え、また博士論文が書きたいといわれれば、自分がうけてきたトレーニングや自分自身が書かぬワケなどおくびにもださず、黙ってつきあってきた。それはともかく、40年前に巻き戻せば、読まれぬレポートを律儀に書くことで、私は就職先を自らせばめるだけの雑誌に最初の論文を載せる羽目になったのである。

さて、というわけで「やってみます」といってはみたものの、〆切まで1週間、400字詰め原稿用紙で40枚キッカリという制約。提出したレポートは、漠然としたイメージをなんとか定着させようと悪戦苦闘したもので、あとになってみると自分でも何を書いたか正確には掌握できないシロモノ、おまけに枚数ばかりが嵩み、とうに求められた40枚の倍はある。さあ、どうしよう……と思案の挙げ句、けっきょく「以前に書いたものを活かそう、なんてケチな考えは捨てるにしかず。いまアタマのなかにあるものを組み立てなおすほうが手っ取り早い」ということで、レポートの構想を二分して前半に絞り、1日10枚、4日で40枚、あとの3日で推敲と清書、という方針をたてた。たしかその頃は、原稿用紙に万年筆で一通り下書きしたあと、鉛筆と消しゴムであれこれ追加削除を繰り返し、最後にもう一度万年筆で清書するスタイルでものを書いていたので、こんな計画になったのだと思う。

書いた場所も鮮明に覚えている。巣鴨からとげ抜き地蔵商店街をずっとゆくと都電の庚申塚駅がある。その裏手に木造2階と鉄筋4階建の古びた学生寮がある。私は都内出身だが親の収入が少ないということで学部の終わりのころ、ここに潜りこみ、大学院の籍がなくなっても、抜けだすに抜けだせぬまま8年有余、牢名主のごとく盤踞する身となった。入寮の許可はもちろん大学当局なんかお構いなし、寮生委員会の一存、委員会のメンバーの多くは「正統派」だったが寮の自治は完璧に守られていた。そのうちの一人に、後年、東京近郊の大学の教員になった人がいて、入寮面接のあとで「よく生活できましたね」と極貧に同情してくれた。そんな自由勝手な自治寮だからふだんは騒々しいこと限りなく、二人一部屋で互いに友人を連れてきてダベるので、とても論文なんかゆっくり書けるところではない。ただ、年末と年度末はみんな一斉に帰省して一瞬ガランとなる。私はこれをもっけの幸いと、朝日が昇るころに眠り、夕日が沈むころに起きだすという生活を一週間続けて、なんとか「商品流通の基本構造と資本の一般的定式」という論文を仕上げた。

さまざまな貨幣を理論的にとらえるには


変容と多態化
  • 日時:2020年 12月13日(日) 14:00
  • サイト:オンライン

「経済原論と現代資本主義研究会」特別拡大会のほうから「この間、比較的若手の人と数人でZoomによる研究会を行っています。今後、学生も参加する形でのZoomによる研究会を予定しています。そこでなにかお話しいただけませんか。時期はできれば12月、あるいは1月を希望しています。内容は最近、銀座経済研究所の貨幣論がちょうど良いと思います。」というメールがあり、もちろんすぐにOKしました。

「さまざまな貨幣を理論的にとらえるには」というのは、学生諸君も参加することを想定してのもの、その答えが「変容と多態化」で、こっちは「比較的若手の人」たち向けで、「変容」と「多態化」の区別はちょっとむずかしくなります。

大学で経済原論の講義をしていると、受講生がまず興味を示すのは貨幣のところです。商品の話をしているとき居眠りをしていた学生も、貨幣ときくと目が覚める…というわけでもないですが、講演会などでも「価値論、どうでしょう」などというと「それはちょっと….」となりますが、「貨幣論では?」といえばOKとなる。「でも、むずかしい話は避けて、とにかく仮想通貨とか、デジタル通貨とか、眼前の現象について話してください。ただ、経済原論がご専門なようですからあくまで理論的に… 」などとけっこう無理な注文がついたりします。講義のときも、貨幣ときいて「仮想通貨か?」と一瞬興味を示す学生も、それとはほど遠い「なんだ昔の貨幣の話か」と再び睡魔に抗しがたくなるもよう。

しかし、ともかく貨幣現象貨幣の定義を厳密にあたえずに「貨幣」という「ことば」に関わる現象全般という意味です。こういうのを「広義の貨幣」などといって原理論にもちこむのは禁物です。理論内の規定ではないという意味で、貨幣「現象」といっておきます。への関心が高まっているのはたしか、いくら経済原論だからといって、これを無視するわけにはゆきません。そうダイレクトにはゆかなくても、原論からこうした現象にいたる大きな筋道だけはちゃんとつける責任があります。

ということで相手の関心に応じるようと思えば、その関心の由来を分析しておく必要があります。関心を示す本人は、当然自分の関心の対象はわかっていますが、「なぜそれに関心をもっているかのか」は関心外のこと。「どうして、仮想通貨について知りたいの?」とたずねると、「いまみんなが話題にしているから」というばかり。「あなた自身はどうして?」と重ねて問えば、「そんなこと、答える必要はない」とそっぽを向くのがオチ。相手の関心に応えるには、こちら側でまず、その原因らしきものものを推察するほかありません。で、「こうした関心の高まりの背景にあるのはなんなんだろう?」とここ二、三十年の貨幣現象の激変をしばしあれこれ思い浮かべえてみると、ごくおおざっぱにいって、三つくらいの要因らしきものに想到します。つまり、情報通信技術の発達、信用機構の拡大、国債の大量発行あたりがそれです。

情報通信技術の発達

技術論と貨幣論は一見かけ離れているようにみえますが、実は密接な関係があります。これは情報通信技術にかぎったことではなく、技術一般に関わることです。

金属貨幣が支配的になった背景には、コインをつくる冶金と金属加工の技術の発展があったわけです。素材が金だからといって、金貨と金塊は別物です。同種大量のコインをつくりだすには高度な技術が必要なわけで、そんなに簡単に秤量貨幣から計数貨幣への発展が可能だったわけではありません。モノの量を「はかる」ことに対して「かぞえる」という離散化の行為はずっと高い抽象能力を必要とするわけで、貨幣の世界に「かぞえられる」という仕様を実装するには、混ぜたら見分けがつかなくなる均質のモノを、いくらでもつくりだせるという同種大量性の技術が必須だったわけです。

同じように金属貨幣にかわって、不換銀行券に代表される証書を利用した信用貨幣が支配的となった背景には印刷技術の発達があります。くれぐれも注意しておきますが、技術の発展が金属貨幣から信用貨幣への移行を引きおこした、などといっているのではありません。ただ必要条件だといっているだけです。ただ、高度な製紙技術や精巧な図案印刷の技術の発展がなれば、計数貨幣としてのコインに紙券がとって変わることはできなかったはずです。

このように考えてくると、現下の貨幣現象の変貌の背景に、情報通信技術の発達がはたらいているとみることに、そう違和感を感じないでしょう。ただこの作用をちゃんと捉えるには、情報とはなにか、通信とはなにか、という原理的な分析が必要なのですが、いまこれ以上深入りせず、このあと必要な範囲で、コンピュータサイエンスやネットワーク型通信の問題に触れてゆくことにして、現代の貨幣現象を捉えるうえで技術論的な観点が無視できない点のみ、ここでは確認しておきたいと思います。

信用の拡大

<「信用」の定義もむずかしいですが、ここではひろく後払い全般を意味させておきます。貨幣現象にならって信用現象といってもよいのですが、これではピンとこないでしょう。情報通信技術の発展に寄って加速された面はありますが、20世紀末以降、商品売買全般に信用がからむことが拡大したのには、それに還元できないいくつかの固有の要因が考えられます。

戦前からでしょうが、欧米では小切手あるいはクレジットカードによる支払が小売りでも普及していたのですが、日本に関していうと戦後も長い間、手交貨幣である日銀券と硬貨をつかった売買が主流でした。もちろん資本間の取引は小切手・手形による支払によっていたのですが、貨幣といえば、後者の信用貨幣ではなく、前者の手交貨幣のほうがまずイメージされていたであり、事実それですんだのです。

しかし、21世紀に入ったころから小売りの世界でも預金振り込みやクレジットカードによる支払が急速に拡大し、貨幣といったときにもはやお札やコインを念頭において考えるだけではすまなくなりました。とはいえ、これはこの時代にはじめて生じたことかというと、こうした信用と結びついた貨幣現象は実は古くから存在してきたのです。

先に述べた計数貨幣であるコインの技術が確立するまえには、まとめて後払いする「ヒイフウミイヨウ、イツムウナナ、今何時だ」といった払い方はできなかったわけで、晦日にまとめて払う、越すに越されぬ大晦日のような…取引が中心になると考えられるわけです。とりわけ高額になれば丁銀のような秤量貨幣による支払になる状況では、まとめてあとで支払う形式は避けられなかったでしょう。古い時代にさかのぼれば、コインの世界にゆきつくだろうと思うのは、少なくとも推論としてはあまりに杜撰。経済学がコインの時代に形成されたということが、貨幣を信用から切り離す結果になったのであり、その余韻はペーパーマネーが中心にもずっと続いたわけです。「はかる」貨幣に対する「かぞえる」貨幣への転換のほうが決定的だったのでしょう。

いまおこっているのは、同じく計量貨幣でありながら、コイン以前の時代に後払い型が広まっているという、そのかぎりではコイン以前の時代にもどる事態です。もちろん、コインや銀行券がなくなるというわけではありません。特定の支払形式が標準になるというのではなく、さまざまな意匠が乱立するという状況です。こうした意味で「これは貨幣なのか、あれは違うのか」といった疑問を引きおこす背景にhは、信用の拡大にともなう支払形式の多様化があるわけです。

国債の大量発行

手交貨幣による同時履行か、後払いによる債権債務の決済か、というのはあくまでも動く貨幣の話です。この瞬間が人目を引くのはたしかですが、でも貨幣は通常だれかに保有されているわけで、この側面が貨幣現象としては実はより重要な意味をもっています。バブルの崩壊のあとに繰り返されてきた極端な金融緩和、国債の大量発行と中央銀行の資産に占めるその比率の激増は、この資産としての貨幣をめぐる通念を大きくゆさぶっています。

ただこの問題も、歴史的にみると、かなり屈折したかたちで発現しており、それが人々の関心をよぶ原因ともなっているようです。金本位制から管理通貨制への移行自体は、第二次世界大戦以前に進んだ現象ですが、戦後の高度成長期において、インフレーションが昂進するなかで、「その原因は、不換銀行券にある。金の保有量に制約されることなく、貨幣量が増発できるようになったからだ。」という通念が形づくられていきました。これはマルクス経済学においても、たとえば大内力『国家独占資本主義』などが1960年代のこの通念を端的に体現して流布していました。

ところが、2000年代にはいり顕著になったのは、かつての通念でいえば当然インフレーションになるべきなのにそうならない、という困った現象です。古くから貨幣と物価の関係は、貨幣量の何倍かの需要額と、これに対して一定期間に販売される商品の供給額が一致するという考えに立脚してきました。この貨幣数量説は、貨幣が「動く」側面から物価を説明するものですが、これに反する事態、つまり貨幣量が増大しても物価が上昇しないという貨幣現象は、従来の「買う」貨幣から、「買わない」貨幣へ関心をシフトさせているのです。

「さまざま」になるわけ

このように貨幣への関心の最近の高まりの由来を探ってみると、知りたい貨幣現象が「貨幣とはそもそもなにか」という問いに答えようとしてきた従来の問題構成とミスマッチをおこしていることがわかります。「さまざまなものがあるのはなぜ?」ときいているのに、返ってくるのは「本来はこれだ」というチグハグな答ばかり。

これまでの貨幣論は、簡単にいってしまえば、貨幣は本来金属の塊ないしコインのようなものか、それとも記号ないしそれを記した紙券のようなものか、といった二者択一型になっていました。さまざまな貨幣のようなものが存在しても、ある段階までは「基本はこれであとは補足だ」「ホンモノはこれ、あとはオマケ」ですんだのですが、現下の貨幣現象が醸しだす関心には、もうこれでは応えきれなくなったわけです。

それだけではありません。二者択一型に対して、両者を理論的に関係づけようとしてきた最近の試みの限界も浮かびあがってきました。このあと詳しく論じてゆきますが、従来の原論の第一層で演繹的に規定できる貨幣が、第二層で商品貨幣と信用貨幣に分岐するというかたちで関連づけをはかってきた変容論的アプローチでももはや充分とはいえません。実は変容論もまた、複数の貨幣が同時に並立することを説明する理論ではなく、反対に並立しないことを解き明かす理論だからです。

ここは変容論の一つのポイントで、基本的な仕様を実装する方法が複数あるというかぎりで、変容論は従来の演繹型の原論と強いつながりを維持してきたわけです。PならQだと単純にはゆかないが、それでも、PならQかQ’かいずれかだと限定することで、論理的な必然を担保してきたわけです。すこし先走ってしまいましたが、いずれにせよ、多様な貨幣現象の併存に対する関心に対して、これまでの単純な(純粋な)演繹型の「これまでの原論」も、変容論を組み込んだ「これからの原論」も、その問題構成に限界をかかえているのではないか、というのがここまでの結論です。

ということで、「さまざま」な姿かたちが並び立つワケを説明する理論の可能性をあらたに探ってみる必要がある、つまり「変容論」から「多態化論」を区別して開発してみようというの目下のプロジェクトとして浮かびあがってくるわけです。といいつつ、ここですぐ注意をしておかなければならないことがあります。「わけ」というと、すぐに具体的な個々の現象そのものを説明する原因のことだと思ってしまう人が多いのですが、「わけ」というのは、そんなに単純なものではありません。たとえば情報通信技術の発達、信用の拡大、国債の大量発行といった「原因」が演繹的な理論で導出できるといっていると勘違いしないでください。この種の早とちりをして、そんなものを理論にとりこもうとするのは、悪しきマルクス主義の論理=歴史説への逆戻りだ、と忠告してくれる人は跡を絶ちません。

あなたのおっしゃる「原因」は、変化を引きおこす「外的諸条件」の話で、私が分析しようとしているのは、それを受け容れる「開口部」の話だと何度いっても通じません。複雑に入り組んだ山並みを遠望して、どうしてこんなおもしろい姿になったのかとふと思うとき、「これは何万年かまえに大規模な隆起があり、その後のこの地方に特有の多雨による浸食が進んだのだ」といった具体的な地史地歴に原因を求めることは当然です。でもそれと同時に「これはきっと褶曲ベースの地盤が基礎にあり、向斜と背斜で浸食の作用が大きく異なることによるのだろう」と、見えない構造を考えてみることも有効です。ひと言で「わけ」というけれど、外因と内因のようなものをわける必要があると繰り返してきたのですが、なかなかこの区別の必要性は伝わらないようです。

「変容」のレベルでさえこうですから、それ以上に直接的な演繹から距離のある「多態化」の話になると、そんなものは歴史的な発展段階論でやればよい、現状分析の課題だろう、ということになりそうです。というわけで、あまり期待はできないのですが、ともかく、「わけ」にも二種類あるとことに「同意」はしないけれど、ここだけの話というなら「了解」しましょう、といってくれる、物わかりのいい人を想定して話を進めます。

主流派経済学における貨幣論の欠落

すぐに「多態化論」にはいってもいいのですが、学部生も含むという想定ですので、貨幣に関する理論について復習しておきます。なぜ「変容論」ではダメで「多態化論」がいるのか、という問題にはいるまえに、そもそも「変容論」とは何なのか、最低限の確認をしておきたいと思います。学部生からいえば、「変容論」にいたる道は何段か、屈折しているので、主流派のミクロ・マクロ理論からのここに至るまでの略図を書いておきます。

貨幣について考えてみると、現在の主流派経済学の欠陥は歴然となります。ミクロ経済学のコアをなす一般均衡論は、基本的に間接的ではありますが、物々交換の世界です。一物一価のために任意の一商品が尺度財 ニュメレールにされますが、これは均衡価格(財と財の交換比率です)を導くために暫定的に設定されるだけで、均衡価格の「模索」が完了すれば意味を失います。すべての財に関して、均衡価格が存在するならば、どの財もその比率でなら任意の財と交換可能になるわけで、特定の貨幣に対して売って買う必要ありません。どの財の所有者もこの交換比率で欲しい財の所有者に交換を申し込めば、相手がその財を欲していなくても交換に応じることになっています。この相手もまた、自分の欲しい財の所有者に均衡価格で交換を申し込めば、同じように交換できるわけです。こうした財と財の交換を繰り返すことで、それぞれが主体均衡を実現されることになります。不必要な財を受けとって必要な財と交換するという間接的なかたちですが、中味は物々交換であり、すべての交換が終わったあとに貨幣が残ることはありません。

一般均衡価格が成立するということは、すべての財が他のすべての財に対して直接的交換可能性をもつ、つまり、すべて財が同時に貨幣であるというのと同じで、けっきょく財と区別される貨幣なるものは存在しないのです。ミクロ経済学は、均衡価格の決定原理については詳細に説明しながら、では均衡価格が成立したあと、実際にどのように交換するのか、とみてみると驚くべきことにほとんど説明がありません。財と財を順繰りに交換してゆくのだと交換のプロセスを明示することがないので、標準的な教科書を卒然と読むと、あたかも均衡価格で一挙同時に交換が実現するかのような錯覚を与えます。たしかに、均衡価格が成立するまでの「模索」ではすべての主体が競り人の示す価格表(ニュメレールによる交換比率)をみて各自の主体均衡を図ることになっています。はじめは競り人がいる集中型市場ですが、均衡価格が模索されたあとは各自がバラバラに交換する分散型市場になります。いずれにしても一般均衡論は、価格の決定理論といいながら、財と区別される貨幣は実在しない市場の理論です。

一般均衡論をコアとするミクロ理論がベースとしているのは、意外にも貨幣不在あるいは貨幣不要の市場、貨幣についてミクロ理論の研究者にたずねると、それはマクロ経済学の課題だと教えてくれます。そこでマクロ経済学をのぞいてみると、そこでは貨幣はいきなり貨幣量 \(M\) のかたちで登場し、物価水準 \(\bar{p}\) との相関が論じられています。\(\bar{p}\) は価格ベクトル \(\mathbf{p} =(p_1,p_2,p_3,\cdots)\) を前提とした何らかの加重平均のはずですが、価格の決定原理をとばして、その存在は貨幣量とセットで自明の前提とされているようにみえます。

価格の決定原理はもうミクロ経済学でやったというかもしれないが、それは貨幣が実在しない市場の理論、ニューメレールに還元できない貨幣量 \(M\) が存在したら一般均衡はたちまち壊れてしまう。そこでマクロ経済学では、目に見える総額\(\mathbf{pX}\)から、物価水準\(\bar{p}\) をつかって、
\(\bar{p}\bar{X} = \mathbf{pX}\)
となるようなスカラー値 \(\bar{X}\) で \(\mathbf{X}\) を説明する。種類の異なる生産物をどのように集計するかは古典派労働価値説の基本問題であった。労働価値説が価格の決定原理として妥当かどうかはともかく、価格の決定原理を基礎に \(\mathbf{pX}\) を説明するというマクロ経済学の「集計問題」を、現代のマクロ経済学はミクロ経済学とともに放棄したわけです。たしかに、原因から結果を説明するという演繹型の理論がすべてではありません。条件付き確率をつかって、目に見える結果から、直接目に見えない原因を探るアプローチは現代の統計学では有力です。現代のマクロ経済学もこの方向に舵をきったようで、数理モデルで演繹的な価格理論を曲がりなりにも重視してきたミクロ経済学との溝は深まるばかり、その間を裂く貨幣の理論が両者に欠落は傍目にも明らかです。

マルクス経済学の貨幣論

『資本論』の冒頭部分をよめば、それがまず「貨幣とは何か」という問いに答えようとするものであることは明らかです。貨幣論はマルクス経済学に必須であり、少なくとも日本のマルクス経済学の場合、どの経済原論の教科書を開いてみても、商品に続く貨幣と題した一章があるはずです。『資本論』第1部第3章「貨幣 Das Geld または商品流通」を下敷きにしたものなので、価値尺度、流通手段、(蓄蔵貨幣『資本論』では「貨幣 Geld」となっているのですが、中心的な中味でこうよぶことが多いようです。『資本論』の解釈にふみこむと果てしない話になりそうなので、今回は一切なし、以下も同様です。)で大差ありません。いずれも貨幣を中心とした市場像を描くことになっています。違いがあるとすれば、貨幣の存在から販売の困難、偶然性を強調するか、それは異常な事態で、貨幣によって物々交換の困難が解消され、価値どおりの売買が円滑に進行に進むと説くか、あたりでしょう。

ただ『資本論』をベースとしているとはいえ、日本のマルクス経済学にかぎっても、百年を超える歴史があり、戦後だけをとってもすでに長い時間を発展してきた面があり、貨幣論に関しても語るべきことは多いのですが、はじめに述べた「さまざまな貨幣」という関心に応えるのがここでの目的なので、多くは割愛します。ただこのような観点から興味深いのは、貨幣の理論が深化するとともに切り捨てられ取りあげられなくなったトピックがある点です。たとえば貨幣の度量標準、金コイン、補助通貨、支払手段、世界貨幣などです。抽象的な商品の規定から貨幣を「導出」ないし「展開」するといった演繹性の高い議論には馴染まない要因は、挿話、逸話としてコラムに落とすようなかたちで「理論」の純度を高める方向に進んだわけで、あれこれの歴史的事実をごた混ぜにする歴史=論理説、名ばかりの唯物史観の外部注入の呪縛から脱し、マルクス経済学が学問として自立するのに避けて通れぬ隘路であることに私も同意します。問題はこの方向に進んだ先にでてくるものです。

純粋資本主義論

こうした方向を鮮明にしたのが宇野弘蔵であり、戦後日本で理論研究の一つの潮流をつくっていったことについて、賛否はともかく一定の了解事項として話を進めます。なおここでは、人名を冠した呼称は客観的な学問研究にそぐわないので、宇野理論といわずに内容をとって「純粋資本主義論」とよびますが、その演繹的な方法に徹底してゆけば、貨幣の原理的な規定はさまざまな意匠を奪われ一つに絞り込まれてゆきます。

ただこの絞り込み(理論的な純化)には、複雑な問題が潜んでいます。原理論のなかで「変容」(理論上の構造変化)をかかえる領域(「開口部」は)は、貨幣だけではありませんが、この絞り込みによって浮かびあがってきます。純粋資本主義論に対して、変容論的アプローチで原理論を再構築すべきだというアイデアは、理論的純化のなかから自然に生まれたもので、それを放棄し外部からなにか別の方法を導入しようというものではありません。

時間の都合で、問題を貨幣論に絞り、変容論のプロトタイプを示すだけにします。ほぼ教科書にまとめた通りになりますが、商品から貨幣を導出しようとすると、どうしても引っかかる問題がでてきます。『資本論』でいうところの貨幣商品=金、純粋資本主義の『経済原論』の「一般的価値形態」から「貨幣形態=価格」へ進むロジックです。金貨を日常目にしていた『資本論』の時代ならいざ知らず、もはや博物館でしかお目にかかれなくなった今日、どうして商品価値の表現から必然的に導出される一般的等価物が金という素材に固定される論理に何かしらの違和感があるはずです。大学で講義をしはじめたころ、聴いている学生が納得しそうな説明をしようとしてずいぶん苦労した覚えがあります。

コレじゃどうか、アレじゃダメか、と試行錯誤した末に、ここには単一性と単一物の混交という致命的欠陥がある、これをちゃんと整理しないかぎり出口はない、という結論になりました。①商品価値の表現から必然となる等価物の統一という規定と、②それを金ないし金貨という知覚可能、計量可能な単一物の実現という規定が、一緒くたに連続して説明されているのが苦労のタネだったのか、と思うようになったのです。どうもこのあたり、個人的な思い入れが強いようで、ついつい一人称的な文章になって申し訳ありません。あとは教科書の説明にまかせた方がよさそうですが、この項のまとめとして、用語法を中心に簡単にまとめておきます。

①と②の二つを区別すれば、抽象的な①を実現する②の単一物には金貨とは異なる候補を考えることもできます。少なくとももう100年ちかく価値表現の役割を担ってきた不換銀行券を抽象化した「信用貨幣」なら、この有力候補になりそうです。そこで、商品の価値表現から導出される貨幣の抽象規定に「商品貨幣」(貨幣商品ではありません)という用語をあて、金貨のほうも少し一般化して「物品貨幣」という抽象化をはかり、商品から「商品貨幣」を導出することを経済原論で一般につかわれてきた「展開」development とよび、「商品貨幣」が「物品貨幣」や「信用貨幣」として実現されることを「変容」morphism (文字通りにとれば transformation がよいのですが、この用語は「転化」と訳され「貨幣の資本への転化」のように原論の領域間で、一対一の移行を指すのにつかわれてきたので回避したほうがよいと判断)とよんでハッキリ区別することにしました。さらに「物品貨幣」から「信用貨幣」に移行することを「発展」historical development とよび、「発展」は日付をもつ外的条件が「開口部」に作用することで生じる不可逆な歴史的過程であり、論理上の構造変化である「変容」の理論的可逆性と対照を形づくるというように細工してみたのです。これがいまから10年前、教科書を書いたころの到達点でした。

変容論と多態化論

その後、はじめにふれた「さまざまな貨幣」という問題に応えるよう、いろいろな場で求められるなかで、この枠組みをもう一度構築しなおす必要を自覚するようになりました。変容論のバージョン2です。

時間がないので、あれこれ考えてきたポイントを一つだけいえば、「変容」という同じレイアのなかで「物品貨幣」→「信用貨幣」という「発展」を考えるは無理だということです。つまり、「変容」のもう一層上に、「物品貨幣」や「信用貨幣」を前提に、それを中心に機能分化した「さまざまな貨幣」を分析するレイアをもうける必要あるという結論になります。この第三のレイアを「展開」「変容」に対して「多態化」とよぶことにし、このレイアで、物品貨幣ベースの金貨や兌換銀行券、等々、信用貨幣ベースの不換中央銀行券や決済性をもった預金通貨、等々、を物品貨幣や信用貨幣の多態化としてよぶことにしたのです。「変容」のレイアでは一般的等価物の単一性を実装した単一物である「物品貨幣」と「信用貨幣」が同時に併存することはありませんが、「多態化」のレイアでは「さまざまな貨幣」の姿 Gestalt,shape が同時に併存します。そして、最大のポイントは、このように考えると「変容」のレイアで「物品貨幣」→「信用貨幣」というヨコの「発展」を説明しようとすることの無理も解消されます。「発展」というのは、たとえば、多態化のレイアに属する兌換銀行券が変容のレイアにおける信用貨幣に変わることとして、同じ多態化のレイアで「さまざまな貨幣」が発生消滅する変化と区別することができます。兌換銀行券 →「信用貨幣」は、現実からの抽象化が求められるのであり、レイア越えが必須なのです。このレイア越えを「発展」のモメントとすることで、歴史的にだらだら語られる旧式の「発展」と手を切ることができるのでは…. などと夢想されるわけです。

最後のほうは、かなり端折ってしまったので分からないと思いますが、あとは下の図をつかって、現場で説明し質疑にかけたいと思います。このあと、これまで変容論的アプローチについて議論につきあってくれた方々からの質問が送られきているので、それに答えたいと思います。

事前にみなさんからいただいた質問があります。今回は答える時間がありませんでした。


貨幣のポリフォーミズムについて

「これからの経済原論」とは

「これからの経済原論」とはだれのことか? さくら『原論』か、それとも小幡氏の自己対話か?

「商品としての国債」「発行残高の制約」の項

中央銀行の信用貨幣の価値の裏付けとなる債権(資産)のダブルチェックについて。

再割引は市中銀行による審査、その後で中銀による審査でダブルチェックという意味だろうが、国債 でも間接引受では、市中銀行が国債の健全性をチェックして購入し、さらに中央銀行が国債の健全性を チェックして購入すると考えれば、国債でもダブルチェックになるだろう。 というよりも、原理的には、そもそもダブルチェック自体は問題ではなく、返済が確実な債権(債券も 含む意味で)ということでよいか? 日銀の国債直接引き受けも、チェックがしっかりしていれば問題 ない、でよいか?

「国債が無制限に発行できるか」は、貨幣論ではなく、財政学の問題、と逃げ道が用意されているよ うにも見えるが、原理的には元利返済が確実であれば市場で売買される必要はないのではないか。

それとも市中銀行の信用創造では、非銀行業資本の資産が裏付けにあるので売買できない債権でもよ いが、政府の場合は裏付け資産がないので、その債券が市場で売買されることが必要ということか?

「「商品貨幣」説とは」の項

「…商品に対する請求権、債権のかたちで…」 この債権は「商品に対する請求権」だったのがいつの まにか、貨幣に対する請求権つまり金銭債権になってしまうのがヘンなのではないか。

MMTの項

「貨幣増発は、資産としての貨幣に破壊的な打撃を与えてゆきます」 「日銀がETFやRIETの買い入れ、さらには国債購入の年間上限高を外す、というのアナウンスを すると、株価だけはV字回復し、その結果、PERは一時 40 まで近づき、いまなお高水準を維持、要 するに資産としての貨幣が毀損されている」とあるが、 株価をはじめとする金融商品の価格が上がれば、その逆数の貨幣の価値は下がる、という意味か。ここ での株価は下の図の右上の(資産市場)の意味か?

赤い丸を付けたところが分からない、という質問がシニア院生からあります(後述)。

「14.中央銀行デジタル通貨」の項

「このようなデジタル通貨が、どのように「発行」できるのか、です。この預金タイプのデジタル通貨 のが増えるのは、信用通貨の通例として、貸出が増えるからです。」 預金と銀行券の等位性から考えれば、非銀行経済主体がこれまで持っていた中央銀行券を中銀デジタル 通貨に買えるだけなので、貸出の増加は関係ないのでは?

「仮想通貨の貨幣性・非貨幣性」について

「持続的等価物」の追加について

14 頁「貨幣= 一般的等価物+ 持続的等価物である。この第二項目が、今回の報告で新たに追加したポ イント」とあるが、2009 年の教科書では、貨幣の条件は「一般的等価物が時点をまたいで固定」なので、 「時間を通じて価値の大きさが安定している」という条件はなかった、今回から追加した、ということ でよいか。

債権の多義性

17 頁 「債権は何かを返すというかたちをとる」返すは借りたものについていうので、債権は何かの給 付を受ける権利であろう。その「何か」が、特定の商品の場合と、貨幣の場合と二つあるようだ。

複合的な等価物を構成する主体

18 頁「価値値を表現する側の商品 WB は、WC:körper を用いて、WA:wert の価値物((WA:wert) WC:körper) を構成し、これを等価物として自らの価値 WB:wert を表現するのである。」

WA WC の組み合わせを構成する主体は WB 所有者か? それとも WA 所有者か?

商品の価値が現象するというのは、積極的に所有者を持ち出さない、という意味になるだろうが、表 現をする主体=商品所有者の扱いは?

価値形態論における「交換を求める形態」と「評価を求める形態」との関係は?

2009 年の教科書では、交換を求める形態で貨幣までいってから、「評価を求める形態」に相当する、資 産性の表現が現れるように読める(42 頁 16~18 行)が、さくら『原論』の価値形態論では「交換を求 める形態」と「評価を求める形態」が入れ替わりながら進み、「評価を求める形態」で一般的等価形態に 至った後、それが流通する、ようである。

『資本論』第 1 巻に「一商品の等価形態は、その商品の他の商品との直接的交換可能性の形態なので ある」(S.70)とあるが、宇野弘蔵は相対的等価形態の商品所有者の欲求を置いた。しかし最近ではマ ルクスに戻って、「評価を求める形態」であっても、(「交換を求める形態」がなくても)価値表現がされ れば、等価形態に置かれた商品は自動的に直接的交換可能性を持つように見えるが、どうか?

銀行の「債務」の内容について

19 頁「銀行券は銀行に対する債権、銀行からみれば債務」この「債務」は何を給付する債務か 「この債務は銀行の保有する資産に対応していることは、銀行の貸借対照表をみれば一目瞭然、可視化 されている。」 この「対応」は何か? 量的か、発生における因果関係か? 債務の履行能力の表示か?

東経大シニア院生からの質問

「貨幣のポリフォーミズム」についての質問
  1. 「7.純粋資本主義の軛」の中で「原理論を現実の資本主義の理解にいかに用いていくかという方法論 上の制約」として「貨幣論で金貨幣をといておいて、あとから信用論で信用貨幣を説くという構成の問 題」と述べています。この「方法論上の制約」を超えるためには金貨幣と信用貨幣を包括した貨幣論が 必要になり、小幡先生の狙いはそこにあると思われます。そうなると、今度は商品貨幣から「金貨幣」 と「信用貨幣」へと変容する分岐点と分岐の構造を明らかにする必要があると思います。どのようにお 考えになりますか?

    要するに、金貨幣と信用貨幣は、レイヤー1で分岐するか、価値形態論のどこかのレベルで分岐する のか? つまり、 簡単な価値形態→展開された価値形態→一般的等価形態→貨幣形態 のどこかの段階で分岐するのか? 言い換えると、価値形態論で一般的等価物が導出されていく過程は、金貨幣と信 用貨幣では相違しているのでしょうか? 違うとすればどのように違うのでしょうか。

  2. 貨幣蓄蔵、価値量の維持

    「After」の多態化の説明の3で「『貨幣蓄蔵』といわれてきた、購買力の保持の働きは、単一の『商品 貨幣』では担いきれない面があり」と述べています。ここは、イラストのレイア3の→の表示で、金貨 幣からの多態化は兌換銀行券までとなっているのに対し、信用貨幣からは「機能吸収」として(資産市 場)までつながっていることで、資産市場へ多態化するのは信用貨幣から、という理解でよろしいでし ょうか?

    関連して、イラストのイメージ図の兌換銀行券は、金貨幣の四角の中から→が伸びているのは、兌換 銀行券が金と直接に結びついているのに対し、(資産市場)へ向かう→は信用貨幣の四角の淵の〇から伸 びているのは、多態化した信用貨幣から(資産市場)の機能吸収へとつながるという、理解でよろしい でしょうか?

    アフター「とくに「貨幣蓄蔵」といわれてきた、購買力の保持のはたらきは、単一の「商品貨幣」では 担いきれない面があり、これが多態化の重要な契機となる。」とあるが、貨幣を持つだけでは価値が維持 できないので、資産市場で売買するということか? であれば金貨幣の下でも資産市場が必要になる のではないか? それとも信用貨幣は金貨幣よりも価値の大きさが維持できない、ということを原理的 に認めるのか?

    アフターでの質問者による回答。疑問は解消されたといっているが、第 3 者には疑問のままのここって、 よくわからない。
    たとえば、2右側のレイア3の「機能吸収」は一体何を指すのか?」など。

  3. メディア+コンテンツについて

    他にも、本題から逸れると思いますが、メディア+コンテンツについて質問もあります。 著作内容(コンテンツ)と作者の頭の中(知識)にあるアイデアは厳密に何が違うのか?

    知覚できる否か、ということであれば、メディアに記録されないが、表現された知識の内容は C と K の どちらになるのか。考えながらしゃべった内容、即興の音楽、即興のパフォーマンスなど。

    メディア+コンテンツにおける商品における同種大量性について。たとえば『経済原論:基礎と演習』 であれば、同種大量とは、同じコンテンツの同じメディアの商品を同種大量というのか、それともメデ ィアの部分で同じ(ソフトカバーで 370 頁くらい)で、コンテンツが異なるものも含めて同種というの か? 後者の場合、コンテンツはしょせん、販売用のラベルに過ぎない。

    これらのメディア+コンテンツについての問題は今後、知識、地代論、レントなどとして、別の機会を 設定したいと思います。

熟練は労働のコアに宿る

経済理論学会の駒澤大会のときでしたでしょうか、休憩室の片隅で一人さびしくお茶など啜っていたら、むかし大学院で多少議論の相手をしたことのある(元)若い人が近寄ってきて「まただれも読みそうにないものを書きましたね」とニヤニヤする。たしかに「熟練内包的労働の一般規定 — オブジェクトとしての労働」というタイトルはちょっと気負いすぎ、まるで読むな!といっているよう。でも中味はごくごく単純な話で「労働過程のところにもどって、熟練とはなにか、考えてみよう」というもの。「労働そのもの」には「熟練」のタネも仕掛けもない、「熟練」は外で「生産」され後から「労働そのもの」に付加される二次的要素だという通説を根本から見なおそうというネライ。

オブジェクトというのは、いくつかの属性とそのふるまい方をまとめて内部化したもので、もともと、”これ、ちょっと「商品」につかえるな”と思って実はもう、少しだけ試してきた手法です。価値と使用価値という属性をもち、価値表現というふるまい方をする商品にオブジェクトという考え方をつかえば、貨幣や資本を内的に導きだしてきた従来のやり方も、もっとスッキリさせられます。そこで、「労働」のほうもオブジェクトとしてとらえたら、商品・貨幣・資本の考察で培ってきた演繹的な方法で、熟練と技術(機械)の原点分岐、協業と分業のような労働組織の変容なども理論的に説明できるだろうと考えた次第。とはいえ、新しい手法にいままでの‘熟練’論文を読み書きするときの’熟練’です。もちろんオブジェクト指向で「熟練」なるものの説明は格段にやさしくなるはずです。は通用せず、やはり読みづらいものになったかも。それで「あれ、読んでくれたの?」とほんの少し期待しつつ、おそるおそるきいてみたら、「プログラム・コードにしてくれたらデバッグくらいはつきあいますよ」などと呟き、いずくともなく…ゆく人なしに秋の暮れ、か。

貨幣のポリフォーミズム After 3


みなさんの質問に答える

インターネットのWeb会議の形式で講演のあと、さらにご質問をいただきました。主催者からの質問に対する回答 After2 が長くなったので、After 3 にあらためて、参加者のみなさんからの質問にも答えてゆきます。

最初の質問にお答えします。この種の問題は、苦労して説明しても「それは細かい違いで、基本は同じだろう」といわれ、ガッカリするのがオチかもしれません。平面幾何の証明問題のようなもので、「問題文の指示どおりに図を描けば、だれが何度やっても、分度器ではかれば二つの角はいつも等くなる。もうそれでいいじゃなか」という人には、以下は無用な話になります。ただキチンと証明しようとすれば、適格な補助線を引き、みたまんまの図形をみえない次元で分析するセンスが正否のカギになります。このレベルの話だということをまず断っておきます。

小幡道昭氏の「不換銀行券=商品貨幣としての信用貨幣」との見解は、不換銀行券論のフロンティアを拓くものとして評価します。不換銀行券はどのような意味において信用貨幣なのか、 中央銀行にとって支払約束たる債務とは何か、この点こそ不換銀行券の本質解明のポイントだと私は考えています。

小幡氏は、不換銀行券は様々な商品の合成された債権を見合いとした中央銀行の債務であり、不換銀行券の支払約束は「合成商品」であると主張されています。「これからの経済原論」における「複数商品」、泉正樹氏によるX=「商品なるもの」もこれに相当するものです。

一方、日本銀行は、不換銀行券は「物価安定の確保」を見合いとした債務であるとの見解を示しています。

銀行券債務に対応する資産は、金本位制時代の「金」という実物資産から、管理通貨制時代には「適切な金融政策の遂行」という「無形資産」に移ったと考えることも可能です。この意味からは、日銀の見解は「不換銀行券=無形資産見合い論」ということもできます。様々な商品価値の合成を通じてその価値の安定を確保するというとき、その合成された商品の束は物価で表現されると考えるならば、「合成商品の安定」と「物価の安定」は、厳密には同じものでないにせよ、共通の内容を意味するように思います。

小幡氏は日本銀行の見解についてどのようにお考えでしょうか。

長くなりそうなので、先に結論を書いておきます。

  1. 「物価の安定」説は、貨幣量で「物価」すなわち「貨幣の価値」(の逆数)は左右されるという発想。
  2. 「合成商品の安定」説は、商品価値を表現する貨幣にも固有の価値が内在する(貨幣量で結果的にきまるのではない)と考え、この価値の安定性の原理を追求したもの。
  3. 一見似てみえても、両者は水と油です。

ひとまず質問の内容を次のように整理してみます。

  • 日銀の見解:物価の安定 ≒ 無形資産見合い論 ≒ … \(\neq\) 金
  • これからの経済原論:複数商品 ≒ 合成商品の安定 ≒ … \(\neq\) 金
  • ∴ 日銀の見解 ≒ これからの経済原論

「似ている」「似ている」とたどっていけば、たしかにみんな「似ている」わけです。ただ「小幡氏は日本銀行の見解についてどのようにお考えでしょうか。」という質問の主旨は、小幡が「原論の世界では、似てると同じは大違い」と見栄を切ったので、それならどう違うかいってみよ、ということだろうと解釈して、三層にわけお答えいたします。

(1). 「日本銀行の見解」そのものは、株式会社日本銀行が、採算のとれる経営の指針を述べたもので、物品貨幣とならぶ信用貨幣の原理を規定するレイアにそのまま持ちこむことはもちろんできません。国債保有の累増とともに10年間で10兆円台からから400兆円に急増した日銀当座預金はひとまず括弧に入れ、同じ期間、80兆から110兆と微増にとどまった安定した日銀券にしぼってみれば、日本銀行は無利子の銀行券というこの負債に見合う額の、付利の債権(国債も含め)を資産として保有することで利潤をだしているわけで、「物価の安定」は無利子の銀行券を安定した量で保有させるための営業戦略です。私は「日銀の見解」をこのように了解しております。

(2). ただ、ご質問の意味するところは、「物価の安定」が実現できれば不換銀行券も金貨幣と対等だという貨幣理論についてどう考えるか、という主旨でしょう。この貨幣理論について、概略お答えします。ポイントは「物価」の理論です。日本の大学では、ミクロ経済学+マクロ経済学にコア理論をしぼるところがふえています。一般均衡論を基本とするミクロ経済学では、貨幣は実在しません。尺度財 ニュメレールは、相対価格を決定するときに登場するだけで、財の間接的物々交換であるミクロ経済学の市場に貨幣は実在しません。ミクロの担当者に貨幣について尋ねると、それはマクロ経済学の課題だと答えます。そこでマクロの担当者にきくと、貨幣とはそもそもなにか、なんていう問題は無意味、人々が貨幣として考えているものが貨幣( money is money )なのであり、重要なのはその貨幣の量が「物価」をきめるしくみのほうだ、として \( Mv=pT, M = k(pY) \) のような関係を説明します。貨幣量\( M \)に定数vないしkで対応する「総需要」と、「総供給」ないし「総所得」とが一致するように、「物価」に相当する\( p\)が定まるのだ、と教えてくれます。「総供給」「総所得」は、本来、個々の価格決定を前提に集計されるべき概念なのですが、マクロ経済学には価格決定の理論はなく、それを担うべきミクロ理論は貨幣不在の相対価格(厳密には交換比率)決定の理論となっており、マクロ経済学の欠を埋めることはできません。マルクスも含めアレコレ他人の理論に言及するのを私は最近極力避けるようにしていますが、《価格決定論なき集計量にもとづく「物価」の虚構性》は、言わずもがな、スラッファの『商品による商品の生産 経済理論批判序説』を読んで知ったことです。私は大学で30年以上給金取りとして、ミクロ+マクロ連合に対抗できるマルクス経済学を組み立てる職務に専従してきました。端からみると「合成商品」も「物価」も似たものにみえるかもしれませんが、マクロ経済学の《貨幣 → 「物価」》と、マルクス経済学の《商品価値 → 貨幣》とは水と油、けっして「物価の安定」という考え方で、信用貨幣(不換銀行券)と物品貨幣(金貨幣)の対等性を証明するようなことはいたしません。やたらと過去の論文の参照を求めることも極力避けているのですが、もし上記で不明なら、ミクロ+マクロ連合との対決については「マルクス経済学を組み立てる」の前半、「物価」の虚構性については『経済原論 基礎と演習』問題37 をご覧ください。

(2’).「不換銀行券は『物価安定の確保』を見合いとした債務である」という説に対して、では小幡が「見合い」とするものはなにか、積極的に述べよ、という問に略答してみます。ポイントは「見合い」という概念です。「見合い」というのは、直接には、債務が債権に見合うのであり、債務を凌ぐ債権の存在を意味します。質問文には「銀行券債務に対応する資産は、金本位制時代の「金」という実物資産から、管理通貨制時代には「適切な金融政策の遂行」という「無形資産」に移った」とありますが、「銀行券債務」に見合うのは「金本位制時代」でも「『金』という実物資産」ではありません。ピール条例下のイングランド銀行の発券部だけをとりだすと100パーセント金準備、発券高と金量が一致することになりますが、銀行システム全体をみると銀行券高はこれを上まわっており、銀行券が外部で保持されるのは、内部にこの債務に見合う優良な債権が保有されているからです。このとき、銀行券に見合うものが、「実物資産」か「無形資産」かという区別には意味がありません。「無形」といっても、銀行の保有する債権はそれを支払うにたる資産の価値(価値をもつ商品)と結びついています。金1グラムという物量が、商品金1グラムの《価値》と結びついているように、1万円という債権も1万円と価格をつけられた商品の《価値》と結びついています。ここで考えている債権は、すでに現存する商品に内在している価値を、債権という知覚可能なすがた Gestalt,shape で表現しているのです。銀行の債権は、現存する商品に内在する価値がそのすがたを変えているだけで、無から価値を創造するものではありません。要するに、小幡が何を不換銀行券の「見合い」としているのかという質問への答えは、銀行の債権と結びついた既存の商品《価値》である、ということになります。

(3). 以上の「日銀の見解」、マクロ経済学の物価理論、小幡の不換銀行券論は、いずれも信用論レベルの問題であり、「合成商品の安定」は(1)および(2)(2’)のレイアの下に広がる別の抽象レイアの問題です。質問の直接の範囲ではないかもしれませんが、「厳密には同じものでないにせよ、共通の内容を意味する」ようにみえるというコメントにお答えします。変容論における商品貨幣 → 信用貨幣の骨格は次のようになります。

  1. 商品には価値がある。
  2. 価値は必ず同時に等価物によって表現される。
  3. 同種大量の商品が無数に存在すれば、必ず「持続的な一般的等価物」=商品貨幣が存在する。
  4. 商品貨幣の実現方式には、同一商品の物量とその価値を結びつけた物品貨幣型と、商品価値を債権に結びつけた信用貨幣型がある。
  5. 一般的等価物の持続性は、その価値が時間が経過するなかで安定していることを必要条件とする。
  6. この安定性は、物品貨幣型では大量の同一商品ストックにより、信用貨幣型で商品の合成により、実現される。

したがって、最後の「商品の合成」は、すべての商品の価格を加重平均した「物価」(どのような物量のセットで加重するかが原理的には一意にきまらないのですが)ではなく、債権と結びついた範囲の商品群(一般にストックとしての性格を強くもつ商品群)の合成です。個々の価格の決定をスキップして、総需要と総供給を等号で結び、「物価」一般\(p\)を求めるマクロ経済学の「物価の安定」論と、個々の商品にはそれぞれ固有の価値があり、その価値は、貨幣によって価格のかたちで表現されると説くマルクス経済学とは水と油、がんばりすぎかもしれませんが、マクロ経済学の「物価の安定」説と一点の交わりもない基礎のうえに、債権そのものが貨幣となる原理を追求してみたいと私は考えています。