『資本論』第1巻を読む III 第6回

第13章 機械と大工業 その2

前回の読書会では、けっきょく、第1節だけで時間切れになりました。第2節、第3節の概要は、前回第5回のページに掲示してあります。今回の読書会で、 第4節から第7節まで予定しているのですが、ちょっと無理かもしれません。概要はここに掲示しておきますが…

概要

第4節「工場」Die Fabrik

自動化工場 die automatischen Fabrik

  • 『資本論』の記述は、そのまま読んでくれば、別に問題はないように思われます。概要は、この節の冒頭に要約されているとおりです。しかし、あらためてふり返ってみると、この節は、タイトルそのものに少し疑問を感じます。「工場」となっていますが、内容は工場一般ではなく、自動化工場が対象です。資本家的生産様式を論じるためには、本来、まず「工場」一般に焦点を当てる必要があると思います。工場=協業一般=資本主義的労働 vs. 分散的労働=小生産者、これが基本線。
  • あらためて読み返してみると、工場一般と自動化工場が定義的に区別されていないのがわかります。「工場」と題しながら、「マニュファクチュア」が、「工場=機械制大工業=自動化工場」と対比されるかたちになっています。つまり、内容はマニュアル対オートの対比になっているのです。
  • しかし、「マニュファクチュア=工場制手工業」であり、定義的にいえば、マニュファクチュアも工場制の範疇に含まれているはずです。「機械 対 手工業」という区別と、「工場制度 対 分散型小生産者」という区別が、充分に整理されていないように思えるのですが、どうでしょうか。
  • 「自動化工場 vs マニュファクチュア」の対比に焦点を当てているが、これは基本線に対して、副軸的な対比である。マニュファクチュア型も資本家的生産様式の一形態とみるべき。

単純労働化

  • マニュファクチュアとの対比から、「自動化工場=単純労働化」という結論になっている。
  • これまでみてきたように、「機械と単純労働の結合」と、「機械による労働の排除(無労働化)」(=失業論への流れ)とは、そう簡単に両立しそうにみえません。

隷属と専制

  • 自動工場のもとで、「労働者の隷属と資本家の専制支配が完成する」という主張。
  • 機械の「資本家的利用」S.442と機械の一般的な利用の評価。形式的な二分法になっていないか。

第5節「労働者と機械の闘争」

はじめに「資本関係」Kapitalverhältnis という用語がでてきます。40年以上まえに、駒場で原論の講義をきいたときに、この言葉は「資本賃労働関係」の略だと習ったことを思いだしました。「賃労働」は資本にのみこまれてしまうので、こう略されるのだそうです。たしか….

さて、この節はラッダイト運動に代表される労働者の機械導入に反対する動きを、事例に取りあげています。『資本論』は当時のさまざまな資料をつかって、歴史的な現象をいきいきと描いています。価値論などに比べると、資料をして語らしめる、というスタイルになっています。

ただ、この後、100年、200年の間にさらに新たな歴史的現象がいろいろ発生したことを知っている、現代の読者からすると、歴史的事象の豊富な記述は、かえって抽象的一般的な理論を引きだすことをむずかしくしている面があります。こうした観点から、あえて、ここでどのような一般原理が述べられているのか、探ってみると….

機械そのものと、その資本主義的使用の区別

機械を壊しても、資本主義は壊せない、という常識的なはなしなら、それで終わりですが、ではどうするのか、という段になると、むずかしくなります。

機械経営の二つの顔

二つの顔というのがよいかどうかわかりませんが、この節では、機械について、二つの論点が述べられているように思います。

  1. スキルの解体:単純労働化
  2. 労働力の排除:自動化

一番目がこの節の基本で、機械のこの作用が労働者の抵抗を生むと同時に、それを挫く強力な手段となる、という話です。しかし、それと同時に、機械の導入が全体として過剰な労働人口を生みだすという二番目の話が絡んできます。たとえば、註196aのあとのパラグラフ(S.454)のはじめの部分を読んでみたいと思います。

あるいは註208の直前のパラグラフ(S.459)

「機械は、つねに賃労働者を『過剰』にしようとする優勢な競争者として作用するだけではない。それは、資本によって、賃労働者に敵対的な力能として、声高くかつ意図的に、宣言されまた取り扱われる。それは、資本の専制に反対する周期的な労働者の蜂起、ストライキなどを打倒するためのもっとも強力な武器となる。」

ユア批判

最後の長いパラグラフは、ユアが一貫していないという批判です。機械の利用を受けいれるのか、否か、マルクス自身の積極的な立場・主張はどうなるのでしょうか。

資本主義的使用であろうとなかろうと、機械の導入そのものがマニュアルレーバーのスキルを解体する、という結論はマルクスの場合は受けいれられていると思います。これは資本主義のもとでは、スキルをベースとした労働者の抵抗を生むのですが、マルクスはこの種の労働者の抵抗から、次の社会を展望する立場にはない、と思います。(「時代遅れなマニュファクチュアにおいては、こんにちでもなおときおり、機械に対する労働者の反抗の粗野な形態が繰り返されている。」(註195))

だから、労働は徹底的に単純労働化される必要があり、また必然的である、ということになるのだと思います。機械化のなかで実際に発生している労働者の抵抗運動は、この節をみるかぎり、こうしたタイプのものですが、マルクスはこれを克明に報告レポートしながら、それに対してもちろん否定こそしていませんが、積極的な評価も与えていないと思います。もう少し、その限界を明示するべきではないかと思いますが、あえて黙しているように読めます。

ではどうすべきなのか。この節では明確に述べられていませんが、「機械の導入は止め得ない。それは、資本主義のもとでは、同時に過剰人口をうむ。この過剰人口の発生は、

  • 資本主義のもとでは回避できないが
  • 回避できる別の社会がある

というのが考えられる結論でしょう。

どう回避するのか、

  • もし、総労働人口を維持し、現存の労働時間を維持しても、もちろん機械は導入できます。その場合には、生産物量が増大します。
  • しかし、マルクスが考えていたのは、おそらく、労働時間の短縮でしょう。機械の導入は、資本主義のもとで失業者を生むのに対して、次の社会形態では労働時間が短くなるかたちで、雇用が維持される、ということになるのでしょう。

二番目の道は、極限までゆけば、労働時間ゼロということになるので、要するに、全員失業しても生活できる社会、労働しなくても生活できる社会、にゆきつくのではないかと思います。労働のない世界です。

私自身は、もちろん、労働の定義によるのですが、少なくとも『資本論』の「労働過程」で論じられている、人間の目的意識的活動そのものを労働と捉えるかぎり、「労働のない世界」というのは、労働の定義からして、あり得ないと思っています。いずれにせよ、この節で書かれていないのですが、この背後には、原理的に再考すべき基本問題が隠れています。

少し先回りしてしまった気がします。次節の註215の後のパラグラフを読んでから議論しましょう。

第6節 「機械によって駆逐された労働者に関する補償説」

学説史的な批判からはじまり、第7編第23章の資本蓄積論を先取りした内容になっています。

設例による「補償説」の紹介

補償説と考えられるものには次の二つがある。

  1. 機械生産による雇用の増大
  2. 生活手段の遊離 Freisetzungによるもの

生活手段遊離説批判

2番目は事実上、セイ法則のバリアント。機械によって労働者が遊離されれば、必ずそれに対応する生活手段の遊離が生じる。だから、この生活手段に対応するだけの雇用が、どこかで別の産業で発生するはずだという推論。原理的に、失業は発生しないことになる。これがこの節の前半をなす。

この一連の議論は、機械一般の使用と、その資本主義的使用の区別に関する一般的規定でまとめられている。S.465.

機械導入の波及効果

これは本来の意味での「補償説」とは異なるとしたうで、註216a の後からはじまる議論。機械の導入による生産力の増大は、その原料生産部門の拡大を必要とする。ここで、旧来の生産方法が用いられていれば(資本構成が一定なら:S.466末尾で、「使用された諸資本の構成」der Zusammensetzung der verwandten Kapitale という表現が登場)、こちらで雇用が拡大する可能性が指摘される。

その帰結は、次々に機械化がこの領域を襲い、

  1. 原理的に雇用の収縮が必須であるという結論(事実上第7篇の結論)と
  2. この波及は労働の単純化をうみ、奢侈生産の拡大、サーバントの拡大につながる

という議論が展開されている。

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