2018年度の経済理論学会大会が10月13-14日に立命館大学で開催されます。この大会での報告論文 ver. 0.254 です。報告用スライドも掲示しておきます。仮想通貨そのものの分析ではなく、こうした現象を理論的に分析する方法論が中心内容です。ちょっと誤解をまねきかねない、きわどいタイトルかもしれません。
… ということで一昨日(2018年10月13日)発表してきました。口頭発表用の短い原稿も準備したのですが、時間制限がシビアで、最後の8頁(肝心の仮想通貨を多態化の「フェーズ I → フェーズ II」 で説明した部分)を話す時間がありませんでした。
[su_divider top=”no”]同じ日に、大会共通論題で半田正樹さんの「グローバル資本主義の『資本主義度』を問う」という報告をききました。最近のキーワード として、グローバリズム、市場原理主義の浸潤、情報資本主義、経済の金融化、経済原則の欠壊、生態系の毀損 の6つを手際よく解説したあと、要するに、いずれのキーワードをみても、資本主義が資本主義たりうるに要する「資本主義度」が低下し「亜資本主義」に化しつつある、という話でした。私はきいているうちに、だんだんとデジャブに陥りました。でてくるキーワードが目新しいので、はじめ、わからなかったのですが、「あ、そうか、資本主義の不純化論のニューバージョンか」と納得しました。
資本主義が本来の資本主義から乖離し非商品経済的な要因への依存を高めているという不純化論は、宇野弘蔵の場合には帝国主義戦争に結びつけられていたのですが、その後、戦後の冷戦構造のもとで、インフレ型国独資論や福祉国家論など、別のかたちで宇野支持者の手で再版されてきました。私はこうした話をききながら育ってきたので、新しい現実に直面したとき、不純化という発想になるのはよくわかります。が、一度目は悲劇として、二度目は茶番として、ということもあります。「経済原則をみたしてきた昔の資本主義はそれなりにまともだった、それに引きかえ、今の資本主義は…. 」という一種のノスタルジアでしょうか。
私はこのムードに最後まで馴染めませんでした。「昔も今も、資本主義はそれなりに新しいものとして勃興するのだ」(多重起源説)と反発し、そのベースになるような新しい原理論を組み立てること(変容論的アプローチ)に専念してきたのです。半田さんの報告はよくできているので、おそらく宇野支持者にも、また反対者にもわかりやすいものだったろうと思います。なにせ、お互い、わかっていることに結びつけられる話ですから。「継承」とか「発展」とかいうのでしょうか。「批判」「切断」型の私は、きいているうちに視野がどんどん収縮してゆくような気がして、思わず知らず「ずいぶん遠くにきたものだ」と一人つぶやきながら会場をあとにしました。
ある方からのメールに
とあったので半田報告に託けて次のように答えてみました。
—-
「仮想通貨の貨幣性・非貨幣性」面白く読みました。わたしは以下のように理解しましたが、誤解あれば、ご指摘ください。
(1)商品→貨幣→資本の価値論で貨幣を規定する際、①無数の異なる種類の商品が混在するという「異種無数性」と、②同じ種類の商品が大量に堆積しているという「同種大量性」との2条件が必要だと、小幡氏は述べています。「同種大量性」で思い当たるのは、ドル・金交換停止後の「ドル本位制」の持続です。ドルの為替相場が対円や対ユーロで大幅に下落したとはいえ、依然として世界の貿易・金融取引の最大の決済通貨として使われているのは、ドル建て資産の厚み――同種大量性――によるものと理解できます。
(2)商品の価値は、売り手や買い手にとっての価値ではなく商品そのものに内在している価値と考えるべきだ、という指摘は、考えさせられます。商品の価値は何で決まるのか?いきなり労働時間で商品価値を規定することの無理はわかりますが、では、労働時間とはどのような関係を持つのか?…
(3)「変容」ということばをこれまで聞き流していましたが、例えば、「商品貨幣」が資本主義の歴史の中で[外的条件により]金貨幣になったり信用貨幣になったりすることが「変容」。これに対して、資本主義の原理が内的条件により、商品→貨幣→資本と「展開する」。これは原理論の論理。このように用語を使い分けていることがわかりました。原理論と段階論の関係をこのように関連づけているのですね。
yazawaさん、コメントありがとうございます。お答えします。