- 日時:2000年 12月12日(土)
- サイト:オンライン
経済理論学会第68回大会がオンラインで開かれます。報告へのコメンテーターを依頼されました。ここに掲載しておきます。
……と、コメンテーターを引き受けたつもりでいたのですが、プログラムをみるとどうやら私は司会にまわされていたようす。それはそれでかまいませんが、このコメントはここに残しておきます。「問題点」の4は、日本のマルクス経済学に対する私自身の反省です。
さらに、こんなページを覗いた酔狂な人に、少し長めの余談を添えておきます。おそらくこの先ほとんど知られずに終わる、不思議の国の不思議な大学院の話です。
コメント内容
まえおき
『資本論』は「貨幣の資本への転化」の章で「資本の一般的定式」G –W–G’を提示しながら、ただちに「一般的定式の矛盾」でその存在を否定し、その増殖根拠を解明すべく「資本の生産過程」に進む展開をとっている。これに対して、宇野弘蔵は「商品」「貨幣」に続く「資本」の章を「商人資本的形式」「金貸資本的形式」「産業資本的形式」という「資本の三形式論」にあらためた。『資本論』の一過的な「一般的定式論」に対して「資本形式論」は、『資本論』第一部「資本の生産過程」を、『経済原論』の「流通論」と「生産論」に切り分ける篇別再編上の重要な役割を担っている。
概要
本報告は、この資本形式論に関して、第1節で宇野『原論』を、第2節でその後の宇野学派の研究を検討したのち、第3節で自らの主張を展開しようとするものである。
すでに数多くの研究がなされてきたテーマであるが、コメンテーターからみて本報告の特徴をなすと思われる論点をあげれば以下の通りである。
- 商品、貨幣と資本との展開方法の差違に「歴史性」を読みとろうとする視角。第2節で検討されている、その後の研究がこの差違を消極化させ「歴史性=不純物=除去対象といった外科手術的なアプローチ」(10頁)を採ってきたことが厳しく批判される。その後の研究が拒絶してきた「復元論」もこの観点から再評価(「歴史復元論」(12頁)とも。私はここまでやる必要はないと思うが)。
- 「商人/金貸資本的形式」と「産業資本的形式」の断点を重視し、商人資本的形式→金貸資本的形式→産業資本的形式という「二段構えの展開方式」(13頁)が批判されている点。これは資本主義の生成の歴史性の解明を、資本形式論に抽象化したかたちであれその課題にしようとしていることに対応している。この歴史性は二段階になるわけではないので。
- 資本の外来性・外部性の強調。第3節のタイトルになっている「流通の外部からき来た貨幣」の実質は「世界貨幣」→「商人/金貸資本的形式」である。「貨幣の資本への転化」が流通論の内的論理で資本を導出する方向と向かったことへの批判である。ただし第3節の後半は貨殖衝動批判に引っ張れてか、貨幣所有者と断絶を強調するあまり、いわば資本家=エイリアン説への傾斜が目立つ。
問題点
資本形式論のような古典的問題からも、若い研究者があらためて正面から取り組むことで、新しい研究の方向が芽ばえることを期待しつつ、本論文がかかえる問題点を指摘する。
- 最大の問題は、「商人/金貸資本的形式」と「産業資本的形式」の関連がほとんど考察されていないことである。第1,2節で資本形式論のポイントが、歴史性をあつかう理論の強調にありながら、第3節では歴史性が凝縮しているはずの「産業資本的形式」の関連にも、「労働力の商品化」の問題にも言及せず、「貨幣」と「商人/金貸資本的形式」の関連にもどってしまっている。前半と後半でちぐはぐな印象をうけるのはこのことによるのであろう。
- このちぐはぐの背後にあるのは「歴史性」という概念に対する分析不足である。この用語には、①古くから連綿と存在するさまさまなかたちの商人資本や金貸資本を連想させる「流れとしての歴史」を指す面もあるが、基本は②「資本主義の歴史性」という意味であり、資本主義がある時期にある地域である条件のもとで成立したという「一点」を指すものである。このことは、いきなり宇野『原論』からはいるのではなく、『資本論』との関連をみれば明らかになる。『資本論』は資本主義の成立を第1巻の最後のところで「いわゆる資本の本源的蓄積」としてまとめて論じている。宇野『原論』は、逐一歴史をもちだす歴史=論理説を批判するために、この最後にもってくる篇別構成を高く評価した。ただそのうえで、資本形式論は特別で、労働力商品の取り扱いをめぐって、「商人/金貸資本的形式」から「産業資本的形式」へいたる「一点」に「資本主義の歴史性」がちょっとだけ顔をだすという説明になっている。宇野『原論』の資本形式論とその後の宇野派の研究だけを読むと、『資本論』の原蓄論との関係が明示されていないので問題の核心が捉えにくくなるが、もう少し大きく全体的な枠組みのなかで、資本形式論における特異な歴史性の取り扱いを考えてみるべきであろう。そうすれば、本報告のように②を差しおいて①ばかりにこだわる問題点1の難点は克服できるはずである。
- 本報告の積極的主張である「外来性」について。報告では「世界貨幣の外来性」になっているが、外来性、外面性という概念には、それにとどまらず、むしろその本義は「あらゆる社会に通じる生産(という宇野『原論』の用語を私は使わないが)に対して、商品流通(私は市場というが)と、その中心となる資本が、絶対不可欠な契機ではない」という点にある。残念ながら、すでに述べたように、本報告にこの側面への言及はないが、この外来性・外面性にも二つの顔がある。①共同体と共同体の間で活躍する商人資本のもつ、生産に対して無関心でニュートラルな顔と、②利潤を追求するかたちで旧来の生産に「浸透」し、共同体を「解体」し、さらには新たなかたちで生産を「包摂」する、アクティブで破壊的な顔である。宇野『原論』とその後の研究では、一般に①が表の顔となっている。その結果、「商人/金貸資本的形式」→「産業資本的形式」の展開には「論理的な切断」があるとされ、ここに「論理ならざる歴史」、端的にいえば「原蓄論」や「労働力の商品化」が外挿されるという理論構成になる。しかし宇野『経済政策論』(あるいは『経済学方法論』)などを読むと、そこには資本主義の生成期(重商主義段階)を代表する資本として「商人資本」が登場し、彼らをよくみると②の顔をしているのがわかる。そして『原論』の外面性も、じつは②を裏の顔としてもっている。報告は①の顔、あるいはもっとそれ以前の外面に興味を覚えているかにみえるが、今時点でこの問題を考えるなら、②の顔にこそ積極的意義があると評者は思う。
- 本報告の圏外になるが、最後に一言触れておきたい。すでに述べたように資本形式論と歴史性の問題は「資本主義はどのようにして生成した(する)のか」という問題を、歴史的事実の分析としてではなく、その一般的含意において理論で考えてみようというものである。日本のマルクス経済学はこの問題を日本の資本主義の生成というかたちで受けとめ、当の日本についてはなにも語っていない『資本論』という外来の書でなんとか理解しようと100年近く苦闘してきたのである。とはいえ明治期以降の日本の現実は、『資本論』の「いわゆる資本の原始的蓄積」を当てはめるには、あまりに大きな隔たりがあった。その歴史は、基本的にイギリス国内で展開された労働力の商品化の過程をもってしては説明しきれない。商人資本的形式や金貸資本的形式を取りこみ資本のもつ外来性が理論化された背景には、後発資本主義の資本主義化を理論的に究明したいという関心があった。そしてこの資本の外来性・外面性の解明は、よそからはいってきたものがすべてを取り込めるわけではないという資本主義の部分性の認識となり、後発資本主義がかかえる二重構造、資本主義化されざる領域の重みを重視する帝国主義段階論につながってゆく。日本のマルクス経済学は、宇野弘蔵にかぎらずこうした後進性に対する関心をバックボーンに形成されてきたのである。
とはいえ、いまふりかえってみると、そこには大きな欠落がある。戦前、戦後を通じて、マルクス経済学は日本国内の封建性、後発性、不均質性等々ばかりに注意を向けてきた。これでよかったのか。その日本資本主義が同時に、早くから台湾を、そして朝鮮半島を植民地にしたことに、少なくとも理論のレベルまでさかのぼれば、ほとんど関心を寄せてこなかった。ひたすら欧米の資本主義が「外来性」のイメージであり、日本がアジア諸国に対して「外来的」であることを没却してきたのである。報告者が日本のマルクス経済学の、しかもその特異な存在である宇野弘蔵の理論にこれほど興味を示す背景には、おそらく何かしら、アジアにおける日本の資本主義化が帯びている外来性への関心が伏在しているのであろう。できれば次回はこのあたりをぜひぜひ明示的に論じてほしい。
余談
このコメントを書いているうちに、40年以上まえのおぼろげな記憶がだんだん蘇ってきた。私もこの論文の著者とちょうど同じ年頃(…だと思うが縁もゆかりもない人故定かではない)に同じテーマで論文を書いていたのだ。最初に活字になった論文である。最近ではもう当時とすっかりかけ離れた世界をさまよっている気でいたのだが、自分が同じテーマの論文を書いたころの出来事があれこれ浮かびあがってきて、忘れかけていただけになお懐かしく、もはや他人の論文のコメントどころではなくなってしまった。そしてついに、言うまい言うまいと心してきた言葉がはからずも口をついてでた。「年だな…」
あれは1978年の年の瀬だったか、年が明けての年度末だったか、どちらかだと思う。場所は大学の薄暗い廊下だった。明暗という原始の知覚で刻み込まれた古い記憶である。私はある先生からすれ違いざまにこう告げられた。「『経済学批判』の次の号に急に空きができた。書く気があるなら書いてみたら。ただ〆切は1週間後だ」と。執筆予定のどなたか奇特な大御所が、後進のゆく末を慮りあえてドタキャンしてくださった模様。
『経済学批判』というのは私が駒場の教養学部の学生だったころに創刊された「宇野派」の雑誌である。当時のマルクス経済学では「正統派」と「宇野派」が鋭く反目し、一方が「マルクスを騙るマルクス理論ならざる宇野理論」と難詰すれば、他方は「科学をイデオロギーにすり替えるマルクス経済学ならざるマルクス主義経済学」と反駁する、そんな応酬が繰り返えされていた。高校生のころ『資本論』を読むまえに宇野弘蔵の『経済原論』を岩波全書で読んで進学先をきめた私は、学部大学院とこの「宇野派」の世界にドップリつかって早10年、「あそこに書くようなら宇野派だ」と「正統派」から異端のレッテルを貼ってもらえる旗幟鮮明たる雑誌とくれば、「やってみます」と即答したのはもちろんである。
その先生は別れしなに一言「君はナンか書いていたみたいだから…」とつぶやいた。たしかに書いていた。この年の春休みも、前の年の春休みも、その前の年も。事情はこうだ。1974年に大学院にはいってはみたものの、はじめの一、二年は「経院闘争」とよばれる教授会対自治会の激突が尾を引いており、自治会側が教官研究室を逆封鎖、教授助教授が経済学部一階のロビーでスクラムを組み研究室奪還と叫びデモ行進するありさま、当然授業も演習もナシ、指導教官制は撤廃、新たに勝ち取った(と先輩たちはいっていた)五年一貫制のおかげで修士論文もナシだった。それでもやがて二、三の教官が共同でジョイントゼミなるものをはじめると、ここに闘争から脱落した大学院生が五月雨式に乱入、さらに他大学から援軍の大学院生も加わり、あっという間に二十人をこえる大所帯の演習になった。
人数が多いうえに好き勝手が生きがいのような人たちばかり、何を言っているのかわからないと思ったら、それは四つも五つもまえの発言への反論、そんなモザイク状の空中戦の果てに、やがて数人の小グループがあちこちにでき、それぞれローカルなテーマで地上戦が昂進するといった、とにかくハチャメチャな世界だった。教官たちも船頭多くしての伝で、下手に介入すれば自分たちも分裂するおそれがあるとわかっていたのか、ひたすら腕を組んで居眠りをするフリをしたり、窓外かなたの議事堂に沈む夕日を意味ありげに眺むるばかり、所詮こんなワガママな牛たちは放牧状態におくに若くなしと悟ったのか。ただ、この一年に及ぶ放牧には「単位が必要なら年度末にレポートを提出すること」というちょっとしたオマケがついていた。とはいえその〆切がいつなのかハッキリせず、春休みが終わって新年度の演習がはじまっても提出せず「夏休みに書き上げますから」などと「手形」で先に単位だけもらう者も少なくなかった。「君はナンか書いていたみたいだから…」というつぶやきは、要するにこの意味で私が「空手形」を振りだしてこなかったというだけの話である。
もっともこの年度末のレポートはいくら書いてみても、あとはなしのつぶて。新学期がはじまってしばらくしたある日、私はこの先生に「どうでしたか」とおそるおそるたずねてみた。するとあきれ顔で「君は読むと思っているのか」と一蹴された。提出すれば読んでもらえるなどと思っていたのがアサハカだった。書くのはあくまで自分のため、なにかアドバイスをもらってよくしたいなどとケチなことを無意識にでも期待していた自分が情けなく思えた。ただ、こうしたなんともツレないトレーニングのおかげで、自分が書いた論文が人から無視されることに強い耐性ができたのはたしか。それから40年あまり、およそ人に注目されたいといった雑念に惑わされることなく、「まただれも読まない論文を書きましたね」などと若い人に冷やかされながら、自分のあるべき理論を追求できたのだ。
ただ私は、この有り難いトレーニングを自分の学生にしたことはない。こうした特訓の副作用か、自分が教えられたやり方で人を教えるなど、そもそもできぬ体質になっていた。そしてなにより私自身、こんなトレーニングが普遍性をもつなどとは思わなかったからだ。あの自由放牧は大学闘争の遺産、時代は急速に変わっていった。私が学部生だったころ月々1000円だった国立大学の学費もやがて100倍、200倍、ついには500倍に跳ね上がるにつれ、学生もそれに見合うサービスがあって然るべきだと思うようになったのか、しきりに論文を読んでくれとせがまれるようになり、私は請われるままに読んでそれなりに丁寧なコメントを与え、また博士論文が書きたいといわれれば、自分がうけてきたトレーニングや自分自身が書かぬワケなどおくびにもださず、黙ってつきあってきた。それはともかく、40年前に巻き戻せば、読まれぬレポートを律儀に書くことで、私は就職先を自らせばめるだけの雑誌に最初の論文を載せる羽目になったのである。
さて、というわけで「やってみます」といってはみたものの、〆切まで1週間、400字詰め原稿用紙で40枚キッカリという制約。提出したレポートは、漠然としたイメージをなんとか定着させようと悪戦苦闘したもので、あとになってみると自分でも何を書いたか正確には掌握できないシロモノ、おまけに枚数ばかりが嵩み、とうに求められた40枚の倍はある。さあ、どうしよう……と思案の挙げ句、けっきょく「以前に書いたものを活かそう、なんてケチな考えは捨てるにしかず。いまアタマのなかにあるものを組み立てなおすほうが手っ取り早い」ということで、レポートの構想を二分して前半に絞り、1日10枚、4日で40枚、あとの3日で推敲と清書、という方針をたてた。たしかその頃は、原稿用紙に万年筆で一通り下書きしたあと、鉛筆と消しゴムであれこれ追加削除を繰り返し、最後にもう一度万年筆で清書するスタイルでものを書いていたので、こんな計画になったのだと思う。
書いた場所も鮮明に覚えている。巣鴨からとげ抜き地蔵商店街をずっとゆくと都電の庚申塚駅がある。その裏手に木造2階と鉄筋4階建の古びた学生寮がある。私は都内出身だが親の収入が少ないということで学部の終わりのころ、ここに潜りこみ、大学院の籍がなくなっても、抜けだすに抜けだせぬまま8年有余、牢名主のごとく盤踞する身となった。入寮の許可はもちろん大学当局なんかお構いなし、寮生委員会の一存、委員会のメンバーの多くは「正統派」だったが寮の自治は完璧に守られていた。そのうちの一人に、後年、東京近郊の大学の教員になった人がいて、入寮面接のあとで「よく生活できましたね」と極貧に同情してくれた。そんな自由勝手な自治寮だからふだんは騒々しいこと限りなく、二人一部屋で互いに友人を連れてきてダベるので、とても論文なんかゆっくり書けるところではない。ただ、年末と年度末はみんな一斉に帰省して一瞬ガランとなる。私はこれをもっけの幸いと、朝日が昇るころに眠り、夕日が沈むころに起きだすという生活を一週間続けて、なんとか「商品流通の基本構造と資本の一般的定式」という論文を仕上げた。
どんないきさつで書いたのかはよく知らなかったが、君のようにともかく体力まかせで書いてしまうようなことは僕にはできなかった。
たしかあらすじは「売ってから買う」だけじゃなく、「売るまえに買う」いろんなやり方があり、そのなかから「買って売る」、差額目当ての資本がでてくる、というような話だったと思う。
「売ってから買う」のが「基本構造」で、「売るまえに買う」はその「変形」というのは、要するに、前半がレヴィ ストロースの交叉いとこの構造みたいな話、後半がノーム チョムスキーの「変形生成文法」みたいな話、楽屋裏をしっていたので、まーそんなものかと見当がついた。
あれから40年、君はまだ同じようなところをさまよっているのだろうか。あれが、どのような意味で、台湾や韓国の話につながるようになったのか、そろそろきいてみたいところだ。