- 質問に答える:「マルクス経済学を組み立てる」パートII
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- 2021年7月13日 15:00
「マルクス経済学を組み立てる」についての質問への回答の続きです。
価格水準について
P26左上から18行目
「複数の所有者に分有されている同種大量の商品群が多数存在する市場において、個々の売り手は、自分の商品が属する商品種の価値の大きさを忖度し、それを貨幣価格で《表現》する。この売り手の側の私的な評価は、買い手が購買することで貨幣価格に《実現》される。」
忖度する価値の大きさについて
生産過程を持つ商品は、「原価+マージン」が忖度する価値の水準になると思いますが、生産過程を持たない商品は、売買の反復によって相場(水準)が形成されると考えてよいのでしょか。
自分の商品の価値を推測するうえで大事なのは、自分の商品と瓜二つのものが、いま目の前で、その価格で売れた、という現在完了形の事実でしょう。
「売買の反復によって相場(水準)が形成される」というのは、需要供給の変動によって価格変動の重心が形成されるという、宇野弘蔵も脱し得なかった重心説です。重心説の難点については、この論文でも論及しましたし、別にこれを主題に独立の論文を書いたりもしています。
同種大量の商品について
P26右下から10行
「資本主義的な生産関係を前提にしなくても、ある規模の市場が形成されれば、同種大量の商品が競争的に取引される結果、価値が内在する商品群は出現する。」
同種大量の商品であることが、商品に内在価値を形成しますが、同種大量性は何によって担保されると考えればよいのでしょうか。
同種大量の商品の存在は、大量生産される工業製品をみれば「実感」できるでしょう。しかし、時代をさかのぼって考えてみると、これは農業生産でもすでに広く観察されることです。多くの植物がそれ自身、種子を大量生産しているわけですから。羊毛なども同じで、一本一本、長さが違うなどということは問題になりません。
加工系列ということを考えると、上流部分では多くの場合、同種大量性が顕著なのに対して、それが消費される段階に進むにつれ、いろいろな種類に別れてゆくのが通例でしょう。その意味では、「同種大量の商品」が現れるのは、別に資本主義的な生産方式をまたずとも、原材料が商品になるような状況が普及すれば発生するだろうと推論できそうです。
産業構造の変化と生産方法の発展について
P29 右上から10行目
「産業構造の変化と生産方法の発展は、それに適合した市場機構への変容を引き起こし、逆にまた市場機構の変容が、それまでとりこむことができなかった新たな産業分野に産業資本が進出する契機ともなる。」
抽象度の高い議論から外れてしまいますが、具体的な対象はどのように考えればよいのでしょうか?
(※たとえば、宇野の方法では、固定資本の巨大化を可能にする銀行業資本の変化があった)
「マルクス経済学」が19世紀末の「重工業化」を契機に「マルクスの経済学」から脱皮し誕生した、という持論を『資本論』150年のシンポジウムで披瀝したことがありますが、ともかく、この「重工業化」が、宇野弘蔵も含め、これまで議論されてきた先例です。ただそこには、鉄鋼産業に問題を単純化した等など、多くの問題が残っています。しかし宇野弘蔵の支持者は、宇野の限界を批判し問題を自ら掘り下げることをやめ、三段階論はわかりやすい、などと優等生的答案で満足するようになったあたりから停滞がはじまったのではないかと私は思います。
私が注目するのは、鉄鋼、化学のような素材産業にやや遅れて、自動車のような組み立て型産業が台頭してくる点です。生産系列でいえば、川上川下の関係になります。川上が労働排出的であるの対して、その後長い間ずっと川下の労働吸収的な、ヒリ意味でのアセンブリ産業が広がっていったのです。そして耐久消費財の普及や、交通網の発展による都市化などが、20世紀を通じて進み、この変化に対応して、ライフスタイルも変わり、それに応じて市場構造も変化したという、ダイナミズムがみられるわけです。さらに付け加えると、この時代は戦争の時代でもあり、これも看過できない要素でしょう。
20世紀末から現在進行中の情報通信技術の発達の波は、この20世紀の産業構造を大きく変えつつあります。これについては、私がいま興味をもって取り組んでおり、いろいろな機会にお話をしています。
ついでに一言注意しておくと、「具体的な対象」を問うときは、あれもあります、これもあります、と現象を列記されると、なるほどガッテン、と納得するchildishな理解のしかたを脱することがたいせつです。こうした具体例を貫く基本原理を抽出する必要があるのです。こう言うと、そんなものに原理などない、と決めつけるのが宇野派の弊習、でも、あるかないかはやってみなくてはわからないこと、見慣れぬものをみると拒絶したくなる一種のXenophobiaは学問の世界にもひろく根を張っています。
産業予備軍について(対象センテンスは特にありません。)
労働市場において、資本主義は産業予備軍という、いわば外部を必要としていると思いますが、産業予備軍が枯渇することは想定されていないのでしょうか。
(※小幡『経済原論』175頁)
当然「産業予備軍が枯渇することは想定されてい」ます。
ポイントは「だんだん枯渇する」というようには考えないという点です。産業予備軍が減少するにつれて、労賃上昇が徐々に(なだらかに、連続的に)上昇してゆくと考えたくなるかもしれませんが、理論として考える上で、ここは注意が必要です。賃金率は、需要供給で決まる、という通年が忍び込んでくるからです。このような連続的な変化を考えると、景気の波、恐慌なき波動説型の景気循環論になります。逆に、ある閾値で枯渇を規定すると、この閾値をまたいで、全体の状態、相が一変するという、不連続型の景気循環論になります。この相転換の理論化が小幡『労働市場と景気循環』の主題でした。
労働市場の変容について
(P31左上から16行)
「いづれにせよ、このような二つの面で、労働市場はたしかに一般の商品市場とは異なる性格を示すが、それでも価値内在説に立脚した市場の一般原理に基本的にしたがう。
そして、労働組織の編成原理(協業と分業)やスキルの処理方式(マニュファクチャ型と機械制大工業型)という生産過程からの内圧と、社会生活過程の態様からの外圧を受けて、労働市場の変容も理論の射程に収まるようになるのである。」
「市場の一般原理」とは
「混ぜたら区別のつかなくなるような同じ種類の商品が大量に存在し、それを多数の売り手が競って売りあうような《場》が、同じ種類の商品には同じ価値が《ある》という状況を生む。」(P24右上)を「一般原理」の内容と理解してよいのでしょうか
そう理解してかまいません。
労働市場の変容について
労働市場の変容とはどのように考えればよいのでしょうか。
(※小幡『経済原論』172頁では㋐常傭労働者と持続的失業者に分離する市場と、㋑日々雇用・日々失業がランダムに入れ替わる日雇い型の市場の記述、173頁では、㋐のタイプを前提に生活過程も含めて変容しうるように書いてあるように読める)
「常傭労働者と持続的失業者に分離する市場」と「日々雇用・日々失業がランダムに入れ替わる日雇い型の市場」というのは、現象を両極で抽象的に捉えた場合の区別です。現実はそれぞれの要素が交錯しているので、これはどっち?式に具体例をあげて判別しようとすると混乱するでしょう。もともと、そうした目的でおこなった区別ではないからです。
たとえば「労働組織の編成原理(協業と分業)やスキルの処理方式(マニュファクチャ型と機械制大工業型)」という労働の構造から考えると、《労働力を商品として売買する市場に、2つのタイプが必ず現れる》といった理論的「命題」が導き出せるかどうか、その真偽を確かめるといったことが目的なのです。このあたりの了解がないと、ボタンの掛け違いというか、関心のズレというか、いくら議論しても、「じゃ、これは?」という現象妥当性を繰り返され、理論家としては絶望的な徒労感に苛まれることになります。
「AならBだ」という命題の推論の真偽 true/false と、Bが現実に観察されるどうかという蓋然性 probablity は、最低限、はっきり区別して出発したほうがよいと思います。
「地球の内部構造を彷彿させる図6のような関係が潜んでおり、この構造が地殻変動を引き起こす」(p32右)では、価値内在説をマントルとして、貨幣の実在する商品市場と産業予備軍の常駐する労働市場という地殻を動かす、と説明されています。
このマントル(価値内在説)はどこからエネルギーを得て、どのようなメカニズムで地殻変動を起こすのか、ここが次に知りたいところになります。
「地球の内部構造を彷彿させる図6」と「『多重起源説』と『プレート交替型の段階論』」は、ともに地学縛りのメタファーで《語る》かたちになっているので、「マントル(価値内在説)はどこからエネルギーを得て、どのようなメカニズムで地殻変動を起こすのか、ここが次に知りたい」という気持ちになったのかもしれませんが、このように両者の理論的な関係まで、語りのためのメタファーの世界で考えないほうがよいと思います。
図6のポイントは、見えにくい「客観価値説+剰余の理論」と目につく「貨幣の実在+産業予備軍の常駐」という二組の関係が別々のものではなく、ともに「価値内在説」の外側への具現、内側への昇華というかたちで統合されることを示した、一種の構造論です。「マントル」だったらどこかから「エネルギー」を得ているはずだというのは、メタファーの独り歩きです。
「『多重起源説』と『プレート交替型の段階論』」のほうは、ただの構造論ではなく、歴史的発展を対象とした変動論なので、地殻変動を引き起こす「営力」的なものを考える必要があるのですが、ここも私のポイントは、内圧と外圧のような2つの力を考える点です。つまり、一種類の力で歴史的変化が起こる、生産力の上昇で生産様式が規定され、両者で構成される下部構造が上部構造を決定する、という「唯物史観」型の、歴史的必然ととして一定方向への変化論を批判できるかどうか、これが議論の目標なのです。