- 質問に答える:「原理論からみた段階論」
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- 2021年9月14日 15:00
「原理論からみた段階論」についての質問への回答です。
原理論と段階論の関係について。
段階論は、現在も原理論から要請されるものであると考えます。その場合、多重起源論(段階論)におけるメタ理論は、「変容」になるのでしょうか?
生成・発展・没落型の三段階の発展の場合、原理論と段階論を関連づけるメタ理論が「純化・不純化論」。これに対して、多重起源説(の段階論)と原理論を結びつけるメタ理論が「変容論」です。
この論文では「メタ理論」とちょっと気取った言い方になっていますが、メタというのはある対象を扱う「理論」に対して「理論を扱う理論」という意味です。この用語にはあまりこだわらないでください。
(1)プレートと発展段階は同じものと考えてよいのでしょうか?
(2)プレートにおいても「原理論⇒段階論⇒現状分析」という方法をとることになるのでしょうか?
この論文では「プレート」という概念が強く表にでています。「段階」という概念では捉えきれないものがあるから、なにか別の用語を使おうと考えたのです。
オランダなどの先進羊毛工業がイギリスにはいってきて発展するのですが、これと不連続に機械をつかった綿工業が独自に台頭する関係をどう整理したらよいか、というのが発端の問題です。
このような衰退と興隆の葛藤、連続と断絶の交錯の過程は、一つながりの生成・発展・没落の「段階」を逸脱する現象として興味深い。重商主義段階とよばれてきたものは、大陸で生成・発展した古いかたちの資本主義がイギリスに迫りだ し没落するなかで、新たなかたちの資本主義の台頭が進 んだといえよう。この最後の局面だけを取りだして「重商主義」というラベルをはること自体に無理があり、「段階」とよぶことももはや適切とはいえない。それは資本主義の「プレート」の交替とでもよぶのが相応しい。
ただこれはネガティブな説明で、「プレート」の明確な定義が与えられていないのはたしかです。とりあえず定義してみましょう。
技術革新により生まれた産業を基礎に、長期に持続する経営様式、労働市場、市場機構の間の安定的な構造をプレートとよぶ。
これだけでは、新たに「プレート」という用語をつかう含意はわからないと思います。ポイントは「段階」との違いにあるわけですから、ほんとは「段階」のほうの定義もはっきりさせる必要があります。ただ「段階」という用語は、宇野弘蔵以来、いろいろな人がいろいろなニュアンスをつけ加えながらつかってきたもので、私が勝手に定義するわけにはゆきません。しかも言いだした宇野自身にかぎっても、簡明な単一の定義はみつかりません。こちらで一つにまとめようとして解釈すると、すぐにまた、誤読だ誤解だ、ということになります。こうしたことはに深入りするのはよしましょう。
ポイントはこちらで定義した「プレート」からみたとき、あちらでいろいろ言われている「段階」と、それでも決定的に違うものがあることが明らかになればよいのです。違いは「段階」が「(経済)政策」を含み「国家」のあり方のほうにウエートがかかっている点です。たとえば羊毛工業ベースのプレートは、イタリアあたりからはじまり、イギリスに至る、一つのプレートをなしていおり、国家の壁で仕切ったり、時代で区切ったりすることのできない、一つの基本構造をもっているのです。
時間がないので、途中端折りますが、このようなプレートを考えないと、グローバリズムの資本主義は捉えられない、というのが結論です。これを、国家の方向に拡張してゆくと、「中心国はどこか」「覇権は移ったのか」といった話になり、パックスブリタニカ、パックスアメリカーナといった、政治学的な時代区分に終わってしまうのです。現場でもう少し話します。
この論文では、外来の成熟産業と、独自の新興産業の台頭の関係を一般化すると図1のようなると図解しています。これはあくまで一例ですが、参考にしてください。
- 「グローバリズム」という新興諸国の資本主義化を考えるとき、労働市場論はどのようなイメージになるのでしょうか?
- 資本主義の起源が単一でないとした場合、資本論の「いわゆる本源的蓄積」は資本主義化には必ずしも必要ではないと考えるのでしょうか?
- 新興諸国の労働市場がどうなっているのか、事実を分析する必要があります。質問は「労働市場論はどのようなイメージになるか」ということで、原理論の「労働市場」の話かと思います。現在の現実をにらんで原理論も研究すべき、というのはそのとおりですが、簡単に「新興国の新しい現象→労働市場論」と直結することには慎重であるべきです。二重、三重に抽象化して、現在の原理論の労働市場論に組み込んでゆく必要があります。具体的な中味についてここで話すことしませんが、方法の問題として、すぐに現実を理論に「反映させる」ことだけは注意すべきです。
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『資本論』の「いわゆる本源的蓄積」は、概念を厳密に定義せず、言葉だけが流布してしまった憾があります。
実は「労働力の商品化」と同じ意味なのに、日本語としてインパクトがあるからか、かなり加減に「本源的蓄積」といっている人もいます。この程度の意味なら、この質問への回答は「資本主義化には必ず必要だ」で終わりでしょう。
質問の意味が『資本論』第1部24章に書いてある内容(それを一般したし内容)が必要かということだと、この章の内容が多面的なので、イエスにもノーにもなります。24章のどの節か、あたりまで特定して議論しましょう。
「変容論的アプローチ」でのメタ理論はどのようなものになるのでしょうか?<
「変容論的アプローチ」というのがそれ自身、原論と段階論という二つの「理論」を関係づけるための「メタ理論」(理論を対象とした理論)です。「メタ理論」といわずに「方法論」ということもあります。この方法は「適用方法」の意味です。
資本主義の発展段階による労働力商品の需給調整法の特徴はあるのでしょうか?
当然あります。この論文でも、たとえば次のように書かれています。
機械制大工業を基礎に純粋資本主義を構築する原理論のドグマになお囚われているということもできる。しかし、資本家的 生産に最適な型の産業が一つだけあり、これ以外はみな不適応症を引き起こし資本主義を歪める、といった窮屈な関係はない。資本主義的生産は、産業の特性に応じて、労働市場や市場機構を変容させ、柔軟に対応する。この過程で生じる種差は適不適に還元できない。この種の還元論は純粋資本主義の宿痾である。
なお、労働市場も市場なのだからと考え、「賃金は労働力商品に対する需給で変動する」という常識を私は拒絶しています。基本的な調整は産業予備軍というバッファによるという立場です。
なぜ宇野は帝国主義段階では「産業資本による資本の原始的蓄積」というかたち」という「奇妙な規定」で論じたのでしょうか。
宇野という人の真意のようなものについて忖度するのは無駄でしょう。
「奇妙な」といったのは、小幡ですので、これなら「なぜそういったのか」は説明できます。
「資本の原始的蓄積」という用語が不正確に使われていると上で申しましたが、これに関係します。もう一度申し上げます。
資本蓄積(資本家的蓄積)というのは、産業資本が剰余価値(の一部)を蓄積することです。「原始的蓄積」というのは、剰余価値を形成しない主体が「蓄積」することです。「蓄積」といっても、まだ資本として運動していなわけですから、「蓄蔵」のようなものです。資本家的蓄積は「搾取」、原始的蓄積は「収奪」という区別もよくみます。
『資本論』の場合は、資本=産業資本なので、「原始的蓄積」がただの貨幣蓄蔵に終わらず、原始的であれ「資本の蓄積」であるためには、プラス、労働力商品が必要だ、ということになります。このため、「原始的蓄積」が、同時に労働力商品の形成過程になっているわけです。資本の蓄積なのに、第24章の大部分が近代プロレタリアートの創出の歴史につやされたわけです。資本概念が産業資本に絞り込まれているという事情を見逃して、「原始的蓄積」=「近代プロレタリアートの創出」というのはかなり危うい用語法になります。
というわけで、商人資本も立派な資本だ、そして、商人資本が支配的な資本主義(の一段階)もあるのだ、と考えるなら、「産業資本のもとでみられる近代的プロレタリアートは資本主義に必須ではない」ということになります。しかし、商人資本資本主義ではやはりマズい、と考えると、「資本主義の生成期」には、「商人資本のもとでプロレタリアートが徐々に形成されたのだ」という話になり、「単純に商人資本なら労働力商品はいらない」と言い切れなくなります。論文に詳しく書いてありますが、宇野の重商主義段階は大混乱になっています。
さらに、帝国主義段階のところで、ドイツや日本の資本主義化を、「これは、商人資本ではなく産業資本が進めたのだ」「産業資本による資本の原始的蓄積」だというと、さらに首尾一貫しなくなります。繰り返しますが、産業資本なら、再生産を繰り返し、自ら労働力商品も「再生産」(私は労働力にこの言葉は使いませんが)し、おまけに過剰人口まで「生産」して、自ら形成した剰余価値を蓄積するわけです。「原始的蓄積」をあらためておこなう必要はありません。宇野がいわんとすることが、イギリスの「機械」を輸入して工業化を進めたということあたりかと、見当はつきます。揚げ足を取るつもりはないのですが、いくら『資本論』にでてくるからといっても、宇野は資本の捉え方を大きく変えたわけですから、「原始的蓄積」などという用語はつかわずに、もっとストレートに記述するべきだと私は考えています。