- 東経大研究会報告
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- 2022年7月23日 14:30
研究会の報告です。今回は対象を経済原論の研究者に絞りました。内容は、商品貨幣が物品貨幣と信用貨幣に分岐する内部構造を、代数学の写像の理論で分析した、変容論のもっともラディカルなバージョンです。
はじめに
これまでの経済原論が、貨幣論では金貨幣のみを貨幣としてきたことに対して、この基礎的領域で信用貨幣を同時に規定しようという試みが、ここ数年、いくつか提示されるようになってきた。今回はこうした試みを念頭におきならが、あらためて「商品貨幣が物品貨幣と信用貨幣に変容する」という基本命題を吟味し論証する。これはさらに、「変容」を「多態化」から区別し、「商品貨幣」と「フィアット・マネー」の関係を明確にすることにつながる。ただし今回は時間的制約により、「変容」にとどめ、「多態化」については別の機会に回すことにする。
価値存在
モノと商品
経済原論において貨幣の概念は、商品の価値規定を明確にし、その価値が量的に表現される形態を解明するかたちで与えられる。商品の基本概念から導きだされる貨幣を「商品貨幣」とよぶ。商品貨幣は、明確な定義と限られた前提から、演繹的に構成された抽象的な概念であり、この抽象の範囲を厳密に意識することが、目にみえる複雑な貨幣現象を理論的に考察する基礎となる。
商品の定義はモノとの区別によって明確にされる。ここで「モノ」というのは、これまで知覚の対象となりうるものと広く考えられてきたが、ここではさらに次の限定を加えておく。
- 離散的に数えられるか、連続量としてはかれるか、により数量として計量できること
- その数量が加算できること(これは「無体物であっても, どの主体の目からみても,明確な境界が存在し,その間に重複がなければ,モノといってよい.」(小幡2009,21頁)と同義)
計量加算可能性は、この後、情報や知識などが商品となる今日的現象を理論的に捉えようとすると不可欠となるが、今回の報告ではこの領域には踏みこまない。また「モノ」は、伝統的に使われてきた「商品体」に相当するが、商品であろうとなかろうと変わることのない対象に「商品」という修辞をつけるのは不適切なので、以下ではモノで一貫させる。
商品とは、客体であるモノが、その所有主体にとってはまったく無用でありながら、他の主体にとっては有用であるという、特殊な状態にあるモノである。モノが主体に与える有用性を使用価値とよぶとすると、商品は「他人の使用価値」をもつモノと定義できる。
しかし、「他人の使用価値」というだけでは、転売目的で保有される絵画や骨董品など、非互換的 non-fungible な一点ものも商品に含まれる。しかし、上記のモノの定義に加えた計量加算可能性は、同種大量の商品が存在し、それらが互換的 fungible であることと同義であるから、以下における商品は、とくに断らぬかぎり、一点ものを除外した商品集合である点に注意されたい。
価値の内在性
商品の使用価値が他人のためのものであることの反面として、商品はその所有主体にとって、他のすべての商品と潜在的に「等しい」という性質をもつ。この等置可能性を価値とよぶ。前記の互換性は同種商品の間の関係であり、等置可能性は異種商品の間の関係である。価値は「間接的なかたちでだが,商品全般と交換できる性質」「他の商品と交換できるという一般的性質,交換可能性」(29) の基礎になる。ただし、等置関係は、やがてみるように売買に発展する関係であり、\( A \)と\( B \)を入れ替える互換 transpositionという意味でも交換 exchange と対極をなす。そのため、以下では価値を交換可能性、交換性と交換に引きつけて定義することはしない。
同種大量性をもつ商品集合のなかで、価値は個々の商品に属する性質であり、主体に属するものではない。だれがもっていようと、混ぜたら区別のつかない、同種の商品は同じ大きさの価値をもつ。価値は種に属する概念であり、また価値は商品は内属する、内在するということができる。価格と区別して価値という概念をたてる必要があるのは、内在的な価値があるからである。上記の一点ものの商品に、価格と区別される価値という概念を適用する意味はない。
価値は量としての性格をもつ。ただし、この量を直接はかることはできない。したがって、価値そのものの「単位」はない。他方、モノははかれる対象であり、それは「物象の状態の量」(計量法第2条)として、だれにでも共通な「単位」が定義できる。価値は「物象の状態」ではないので、モノのようにはかることはできないが、量としての性格をもち、その商品のモノの量(以下「物量」)と一意に対応している。物量は加算性をもち、物量が二倍になれば価値量も二倍になる。直接はかることのできない価値が量としての性格をもつのは、この物量との一対一対応による。
価値表現
表現と現象
内在的な商品価値は、それ自体直接に知ることのできるものではない。その存在は、別のかたちに表現されることにより、はじめて知ることができる。表現という用語が、主体の積極的な「表す」という行為を含意するとすれば、これを避けて「現れる」「現象する」といってもよい。
表現、現象というのは、知覚できない世界に存在する《何か》が、知覚できる世界に《立ち現れる》ことを意味し、異なる世界の存在を前提とした超越論的な概念である。現象に先行して《何か》の存在を直接知ることはできない。陰のない《何か》がまず存在し、あとから陰ができるのではない。価値は《何か》であり、それは同時に等価物として《立ち現れる》。価値の”実体”という用語は、この同時性、不離不可分性と撞着し、混乱をうむ冗語である。
価値の表現様式、現象形態のことを短く価値形態とよぶ。以下、形態という用語はこの意味に限定し、”形態”と”実体”という二分法はとらない。価値形態において、もっとも重要なのは「等しい」という概念であり、それは必ず「等しいもの」すなわち「等価物」equivalent の存在を伴う。
等価物
等価物は単なるモノではない。商品価値を表現するために新たにつくりだされた、独自の構成体である。これは貨幣の変容という概念を最深部で支えるコア規定である。
商品の物量との一意の対応により量的性格をもつとはいえ、知覚できない世界に属し、それ自身の単位もなく直接計量することができない価値は、①特定の商品ないし商品群の物量を等価物とし、②この等価物に、価値表現をする商品の一定量に対応する価値が等しい、とすることで量的に表現される。等価物それ自身はあくまでモノである。ただ、このモノは、商品の状態にあり、その価値と一意にリンクしている。重要なのは、商品そのものが直接等価物になるのではなく、その物量と価値を一度切り離し、独自に結合させてつくりだされるところにある。この点をもう少し説明してみよう。
一般に「何か X が何か A に等しい」というのは、Xの属性を端的に示すAを選び、「X は A である」 X is A ということである。たとえば「彼女は薔薇の花だ」というように。このとき、X と A とは、明らかに属する世界、次元が異なる。だから、X is A でも A is X つまり「薔薇の花は彼女だ」は意味をなさない。等しいとされる A たとえば「薔薇の花」は、彼女の美しさを表現するために、さまざまな薔薇の花をイメージしてつくりだされた、あるタイプの美の典型あるいは観念 idea であり、あれやこれやの実物の薔薇の花ではない。そして「彼女は薔薇の花だ」というのは、「彼女は薔薇の花のようだ」という場合に比べて「薔薇の花」の抽象度が一段アップしているのがわかる。
価値表現における等価物は、比喩表現に比して、この抽象化が極限まで進んだものである。ここでいう抽象化とはなにか。モノは、腐食するとか溶けやすいとかといったさまざまな自然的諸属性をもつし、また人にとって食べてうまいとか着て温かいとかといったさまざまな有用性、使用価値をもつ。抽象化とは、こうした諸属性や有用性をすべて捨象し、どこでもいつでもだれにとっても同じ単純なモノの量、単一の物量に還元することである。この純化された物量が、それの指す価値量と一意に対応するように構成することで、等価物はつくりだされる。価値には単位はないが、こうして構成された等価物は、物量として明確な単位をもつ。
価値の表現形態を「交換を求める形態」と捉えることは、等価物が実物の商品とは異なる構成体であることを不明確にする。等価物は、交換の対象として実物の商品となり、価値形態論の焦点は、どの商品が等価物に選ばれるかという選択に移ってしまう。この意味でも、価値の定義から交換という用語を払拭しておく必要がある。
直接型・間接型
等価物が構成体であることから、その構成のしかたが一通りではないことがわかる。むろんそれが実際に幾通りになるかは理論的にきまるわけではない。しかし、少なくともこれまで一般的に想定されてきた直接型に対して、間接型とよぶべき別の構成方法がありうることまでは推論できる。ここで直接型というのは、単一の商品、あるいは複数の商品の物量をそのまま等価物にする方式である。これに対して間接型というのは、モノに対する請求権を表す証書(債権証書=債務証書)を等価物とする方式である。
間接型の場合、請求権の対象自体は商品ではなくモノである。この請求権を表す証書そのものは、モノの貸借や租税の徴収など、商品世界から相対的に独立に発生する。債務証書というと金銭債務証書が思い浮かべるかもしれない。例えば後払いで買えば、支払のために発行される債務証書は、もちろん金銭債務証書である。貨幣の支払手段機能として規定される「信用貨幣」は当然金銭債務証書である。債務証書そのものを商品売買から説明しようとすると、貨幣の説明に貨幣の存在を先取りする循環論に必然的に陥る。商品の価値表現の内部から債務証書を導出するのも同じことである。最近の研究が多くの場合、価値形態論の内部で債務証書を派生させようとして混乱しているように思われる。
しかし、すべての債務証書が金銭債務証書であるわけではない。債務証書自体は、商品に対して相対的に独立に発生する。ただ債務証書は商品に外在的でも、この債務証書の対象となるモノが、同時に商品の状態にある場合には間接的に、債務証書→物量||物量→価値量 というかたちで、証書に記された量が価値量と一意的なリンクを形成する。こうして等価物の構成に関して、モノそのものを等価物とする直接型だけではなく、もう一つそれとは異なるタイプの、債務証書を等価物とする間接型が考えられるのである。
直接型と間接型では、等価物の構成における抽象化に違いがでてくる。直接型では、モノの諸属性を捨象する操作は価値表現に際し、その都度おこなわれる必要がある。「リンネル20ヤール=1着の上衣」という場合、たとえ目の前にある「この1着の上衣」であっても、「この」の内容がだれにでも通用するように確定され、「1着」が客観的に確定されなくてはならない。その意味で、等置の過程で同時に抽象化される必要がある。これに対して債務証書では「この1着」の内容はすでに文字や数字に抽象化されて明記されるている。証書を構成する紙片や磁気データと、それに記された内容、それが指示する純粋な物量だけが意味をもつかたちにあらかじめ純化されているのである。
このかぎりでは等価物の構成において間接型は直接型に優るようにみえるが、逆の面もある。債権債務は基本的に人の人に対する権利である。債務証書を等価物とするには、この人的関係を捨象する必要がある。 だれがもっていようと、その債務証書があればそれが直接特定の物量を請求する権利になるようにしなくてはならない。これは債権債務に自然に具わるものではない。間接型では直接型とは異なる、独自の制度的な補強が求められる。その意味では、いずれの型においても、純粋な等価物に対して一長一短をもつ。
等価物が構成体であり、その構成のしかたに直接型と間接型が考えられるということは、この等価物をベースに説明される商品貨幣に受け継がれる。この後みるように、商品貨幣が、物品貨幣と信用貨幣という異なるすがたで実装される原因は、すでにこの段階で萌芽しているのである。
価値形態
拡大された価値形態の棄却
話がやや先回りしてしまったが、ここまでで確認できるのは以下の点である。
- 同種の商品には、直接はかることはできないが、ある大きさをもった共通の価値が内在すること
- 商品価値は、物量と価値量を一位に対応させた等価物を構成することで、表現されること
- 等価物の構成法は一つにかぎらないこと
先回りした観があるのは三点目で直接型、間接型に言及したことであり、理論の現段階では二点目の純粋な等価物の存在まで明らかになっていればよい。
さて、次の問題は、すべての商品が異なる等価物で価値表現をするとき、その商品集合に共通な単一の一般的等価物が導きだされるかどうか、である。『資本論』の「価値形態または交換価値」をもとに、実にさまざまな議論がなされてきた問題であるが、ここではできるだけ単純化して私の考えだけを述べることにする。
最初に、推論の出発点を整理しておこう。「拡大された価値形態」は不要である。拡大された価値形態を構成する複数の表現が、同時に and の関係で並べられていると考えるのは、商品価値が種の属性として個々の商品に内在することに反する。等価物の組合せが、商品所有者の選択に委ねられ、価値表現が持ち主の属性に依存するようになるからである。必要性の高いものから低いものにソートし、末端の奢侈的な等価物の共通性から一般的等価物を導く論理は、この点で支持できない。いわんや、価値表現する側を複数の商品の組合せ、合成商品としてしまうことは、価値が個々の商品に内在する種の属性であることに悖り、ここまでの推論から支持できない。
またその複数の表現が、or の関係で選言的に並べられたものであれば、それらは独立の簡単な価値表現の束であり、ある時点をとれば、いずれか一つになる。あえてそれらは複数並べる意味はない。「拡大された価値形態」の逆転によって一般的等価物を導く論理を否定しながらなお、「拡大された価値形態」を媒介にすること自体を見なおしてこなかったところに最大の限界があった。
出発点となるのは、すべての商品が他の商品から構成された等価物でその価値を表現しているという状態である。ここから、これらの商品間の関係の関係、すなわち構造を分析し、等価物の統一、一般的等価物の存在を推論することである。以下では、その骨格のみ示すことにする。
価値形態の連鎖
すべての商品が、他の商品ベースの等価物で価値表現しているのであるから、商品集合を \( A = \{a_1,a_2,\cdots,a_n\}\)とすると、この等置は写像 \( f: A \to A \) となる。ただし、一般にどの商品からも等価物とされない商品が存在するので \( f(A) \)は \( A \)の部分集合となり、\( f \) は全射でも単射でもない。かつ \(a_i \mapsto a_j\) において\(i \neq j\) である。
さらに $$a_i \mapsto a_j \land a_j \mapsto a_k \Rightarrow a_i \mapsto a_k$$ と仮定する。等価物の等価物は等価物である、という推移律である。このとき、写像 \( f \) を繰り返し、等価物の連鎖を探れば、商品集合\(\{a_1,a_2,\cdots,a_n\}\) の構造が浮かび上がってくる。
ここで商品集合は有限であると仮定する。時間の契機を加えれば、商品の種類はどこまでもふえるかもしれないが、ある時点をとればどんなに多くてもその数に限度があると考えてよい。
等価物を統合する内力
このとき商品集合のもつ構造は、比較的に容易に見通せる。それはちょうど天から地の方向に樹木の枝をながめたようなかたちになる。どの商品からも等置されていない商品が小枝の末端に位置し、そうした小枝がいくつか集まって一枝となり、次々とまとまりながら幹にいたる。この幹は閉じたサイクルで構成されている。サイクルというのは\(a_1\mapsto a_2, a_2\mapsto a_3, \cdots, a_n\mapsto a_1 \) という閉じた循環である。
命題:商品集合 \( A =\{a_1,a_2,\cdots,a_n\} \)が有限であるなら、サイクルが少なくとも一つ存在する。
証明:サイクルが存在しないと仮定する。他の商品から等価物とされていない商品を起点に、等価物の連鎖を次々にたどる。すでにたどった連鎖の要素に至ったら終わりにする。この連鎖の先端に位置する商品も、いずれかの商品を等価物としなくてはならず、かつ、それは商品集合\( \{a_1,a_2,\cdots,a_n\} \)の要素ではあってはならない。これは商品集合が有限で n 個であることに矛盾する。ゆえに、少なくとも一つのサイクルが存在する。□
等価物の連鎖
この命題は、サイクルが複数存在することを排除しない。商品の種類が増加し \( size(A) \)が大きくなってゆくと、サイクルの数も増大し多数の小さな集合にどんどん分割されてゆくのか、あるいは逆に商品数の増加に比して小数の大きな集合に統合されてゆくのであろうか。ためしに、乱数をつかって\( f :\{0,1,2,\cdots,n\} \to \{a_0,a_1,a_2,\cdots,a_{n-1}\}\) における像 \( \{a_0,a_1,a_2,\cdots,a_{n-1}\}\) を定め、写像 \( f \) を100回繰り返してみたところ、次のような結果となった。
サイクルの数 | 商品数100のとき | 商品数1000のとき |
---|---|---|
1 | 42 | 18 |
2 | 33 | 18 |
3 | 16 | 24 |
4 | 6 | 18 |
5 | 3 | 11 |
6 | 0 | 8 |
7 | 0 | 2 |
サイクルの数は集合のサイズに比例的に増加するわけではなく、バラツキが増大するなかで、中心値が少しずつ大きくなってゆくことが観察される。商品集合には少数のサイクルを核にしてまとまってゆく性質が認められる。ここから、諸商品の間には等価物を統合してゆく強い内力が作用しているのがわかる。
等価物の連鎖をたどる
- 1行目の商品は2行目の商品を等価物にする。
- その等価物の等価物を探し3行目に記録。
- 1行ずらして、等価物の等価物の等価物を探し4行目に記録…
- 行を追加しながら、すべての商品が等価物のサイクルにタッチしたら終了。
平均でどのくらいのサイクルが生じるのか?試してみよう。
サイクル構成要素とサイクル連接要素
商品集合 \( A \)の要素は、いずれかのサイクルの要素であるか、いずれかのサイクルの要素につながる枝の要素であるか、になる。すべての要素は、同じサイクルに、直接属するか、あるいは間接的につながっているか、を判別基準にして、重複なく分割される。
サイクルに直接属する商品の集合\( C_i =\{c_{i,1},c_{i,2},\cdots,c_{i,n}\} \)では \( c_{i,m} \mapsto c_{i,n} \Longrightarrow c_{i,n} \mapsto c_{i,m} \) が成りたっている。価値表現としては無意味だが、\( c_{i,m} \mapsto c_{i,m} \) も真だから、サイクル構成要素は互いに同値の関係 \(c_{i,m}\sim c_{i,n}\) にあり、けっきょく商品集合\( C_i \)は、反射率、対称律、推移律を満たす同値類となる。
サイクル\( C_i \) の要素 \( c_{i,j} \) につながる枝を構成する商品の集合 \( B =\{b_1,b_2,\cdots,b_k\} \) では、推移律を介して \( j=1,2,\cdots,k \) について \( b_j \mapsto c_{i,j} \) が成りたつ。すなわち、すべての商品は同一の等価物 \( c_{i,j} \)に直接等置されている。
さらに、サイクル\( C_i \) の商品について共通の等価物 \( c_k \)を定めれば、それ以外の商品\( c_i \)について、\( c_i \mapsto c_k \) が成り立ち、サイクル\( C_i \) は必ず同値類になる。しかし、逆に\( C_i \)が同値類だからといって、必ず特定の代表元をもつとは限らない。どの要素も代表元になりうる。\( c_1 \mapsto c_k, c_2 \mapsto c_k,\cdots, c_n \mapsto c_k,\Longrightarrow c_i \sim c_j \)は真だが、\(c_i \sim c_j \Longrightarrow c_1 \mapsto c_k, c_2 \mapsto c_k,\cdots, c_n \mapsto c_k \)は偽である。
二重の外力要請
ここまで抽象的に考察してきた内容は、次のようにまとめることができる。
- 個々の商品の価値表現は、等価物の連鎖を通じて、限られた数のサイクルを中心に、重なりをもたない独立の商品集合に分かれる。この分離を説明する内的条件から、それらの統合まで説明することはできない。
- サイクルを構成する諸商品のうち、どれを共通の等価物にするかは、サイクルを生成するのと同じ、内的条件からは説明できない。
- サイクルの要素ではない商品は、上記の内的条件によって、サイクルを構成する商品を直接等価物にする関係を生成する。
ここから、すべての商品が単一の共通な等価物、一般的等価物をもつには、二つの外的条件が必要なことがわかる。すなわち、上記2のサイクルの要素を一つに定める外的条件と、さらに1の複数の商品集合を一つに統合する外的条件である。
これによって価値表現の連鎖は、最終的に次のようなすがたになる。
以上はあくまでも、すべての商品がその価値を、他の任意の商品から構成された等価物によって表現するという条件実はここに写像にするための大きな制約があり、写像をつかった本稿の説明を鵜呑みにすることはできない!を、集合論に抽象化して演繹された結論である。この内的条件の抽象度を変更すれば、それに応じて、この結論の表現に多少のズレが生じる可能性はある。しかし、商品には価値があり(価値存在)、その価値が等価物によって表される(価値表現)という大枠を崩さないかぎり、
- 商品の価値表現の連鎖が一般的等価物を生成する強力な作用をもつ
- ただしその作用には限界があり、最後の等価物の単一化、評価系の統合には外的条件が必要となる
という基本命題が揺らぐことはない。
要請論・発生論・変容論
定義からの要請
本稿では価値を全面的な等置可能性として定義することから出発した。この定義は、単一の普遍的な等価物、すなわち一般的等価物の存在によってはじめて充たされる。これは、抽象的な定義が、それを充たす具体的存在を要請するということができる。いまの場合であれば、「商品の潜在的だが全面的な等置可能性が一般的等価物の存在を要請する」というのである。
ただかねてから濫用が目立つ、この「要請」という用語に関しては、それが指す内実に踏みこんで分析しておく必要がある。そもそも要請が生じるのは、定義自体が、ある性質を抽象的に規定したものであることに由来する。言いかえると、定義はただ充たすべき必要最低限の「仕様」を定めたものに留まり、それをどのように「実装」するか、に自由度があること、要請に応える方式が一つではないこと、異なる方式で同じ効果を生むことができること、を意味する。こうしたことは、たとえば最近のオブジェクト指向のプログラム言語が、はじめに充たすべき属性や必要なメソッドをまとめ抽象クラスとして定義し、このクラスを継承する子クラスでこれらの必須のスペックを実装し、これを使って必要なインスタンスをつくるといった工夫に通じる。原理論も、このような仕様と実装の分離をはかり、複雑な理論構造の内部を多層化して明示する必要がある。その意味で「要請」ときくとすぐ、古くさいロジックだと頭ごなしにきめつけるのも、やはり古くさいドグマなのである。
要請論の問題点
とはいえたしかに、かつての原論に広くみうけらた要請という用語は、大きな欠陥をかかえていた。それは、次のような議論の運び方に端的に示される。たとえば、資本の定義のうちに利潤率が均等になるという性質を埋め込んでおき、産業資本の間の競争は利潤率の均等化に対して一定の意義があるがなお限界があると総括し、この限界をこえ利潤率均等化の要請に応えるものとして商業資本を導出する論法である。意義と限界の総括、要請による移行という展開は、商業資本、銀行資本、さらには株式資本へと繰り返されてゆく。
しかし、個別資本は利潤率の最大化を目指すのであり、利潤率の均等は意図せざる結果として説明されるべき現象である。経済原論の後半体系が「競争論」として整備され、さらに「競争論」の基礎として、商品・貨幣・資本で構成される「形態論」が再重視されるなかで、「意義と限界」による要請・移行論は、結論を先取りした素朴な論法と棄却された。ここではその詳細に立ちいることはしないが、宇野弘蔵が没し、鈴木鴻一郎が没したころからか、個別主体の利得追求から説明可能な範囲を確定し、それをこえる要素を厳密に除去することで、経済原論を方法論的に再純化する試みが急速に進められていった。
このような原論の新たな構成方法は、分化論あるいは発生論とよばれている。生産と売買を一体としておこなう「個別産業資本」から、利潤率の増進を契機に、売買に関わる諸要因が、商業資本や銀行業資本のかたちで分化するという議論であり、貨幣論では商品所有者の交換を求める活動を契機に、商品のなかから貨幣が発生するという議論になる。分化と発生では意味合いに多少の違いがあるかもしれないが、論理的には、内的な諸要因が分化することで、自立した独自の対象が発生するのであり、基本的に大差ないので以下では発生論とよぶ。
発生論は、出発点の定義次第で異なる結論になり、水掛け論になりがちな要請・移行論に対して、私的な利得のみを追求する主体という単純な内的初期条件のもとで、一貫した推論を推し進めることで、こうした混乱に終止符を打つ有力な構成方法であった。これによって、たとえば、資本の本性である利潤率の均等性を実現するために資本の商品化、株式資本が要請されるといったウルトラ超越論は払拭された。発生論は、労働量や生産価格論のような社会的再生産に関わる領域はともかく、およそ市場と競争が関わる原論の領域において、首尾一貫した体系を構築する強力なエンジンの役割を果たしたのである。
発生論の問題点
とはいうものの、この発生論もいくつかの難点をかかえていた。こうした難点は、発生論が二番煎じ、三番煎じとなって流布するかなで、顕著になっていった。ここではそのうちとくに前節までの考察に深く関わる二つの弊害についてみておこう。
第一の問題は、ひと言でいえば、「分析者」と区別された「当事者の視点」の偏重である。ここには、狭小な経験的事象を無媒介に一般化する危険が潜んでいる。「私的な利得のみを追求する」とか「だれも損になることはしない」というのは強い一般性をもつが、それを「実際にどのように実現するか」は、置かれた状況に依存し一義にはきまらない。「少なくともそうはしない」というネガティブな推論はできても「必ずこうする」というポジティブな推論が可能だとはかぎらない。たとえば販売が滞り運転資金が枯渇した状況での行動は、投げ売りするという直接的対応だけではなく、後払いで買う、モノを借りる、貨幣を借りる、等々、いくつものバリエーションが考えられ、必ずどれか一つになるわけではない。ここでは、対応が分かれる原因、行動を分節化する契機を分析することが理論の課題となる。そしてそこに実は、一般的な仕様と複数の実装方式に通じる隙間が潜んでいる。
この隙間に充分注意せず、「当事者であればこう行動するであろう」といった安易な理由づけで終わらせると、「分析者」以下の、研究者個人の狭小で素朴な日常的経験が判断の基準とされ、その日の経済ニュースなどでたまたま目にした新奇な現象が、ほとんどナマのまま理論に投影されるという弊害をうむ。「当事者はそんな精密な分析などしない」といってみても、内実は自分の抽象的分析能力の欠如を、勝手に思い描いた当事者に仮託しているだけである。「最近話題になっているコレって、原論のアレに似ている。」といった程度の思いつきでも、それを「当事者」に語らせれば、簡単に原論内部にもちこむことができる。もちろん、発生論本来の役割は別のところにある。とはいえ、「当事者」「経済人」だけにたよって、一義的な結論が引きだそうとすると、どこかで演繹的な論証が例解による説得に堕してしまう。
第二の問題は、これもひと言でいえば、過度な単一資本主義像への傾斜である。商品・貨幣・資本の内的連関や市場機構の複雑な内部構造を、私的な利得追求という単純で明解な推論エンジン一つで、一貫して説明できると主張する発生論は、これによって単一の資本主義像を構築できるという主張につながっていった。経済原論の展開には、資本主義の歴史的発展を基礎に、資本主義の純化傾向を延長して純粋な資本主義を想定することが必要だという歴史的純化論に対して、このような操作は資本主義にとって不要な要因をあらかじめ取り除く準備作業にすぎず、そのうえで、商品経済的な行動原理で精査することで、真の純粋資本主義像は明らかになるという理論的純化論優位説が唱えられたのである。
しかし、発生論をとると必ず単一資本主義像になる、というわけではない。この点は充分注意する必要がある。ただ、発生論を歴史的純化論に対する批判の基盤にしようとすると、批判対象のもつ純化論という遺伝子が、より純粋なかたちで発生論に組み込まれる。純粋資本主義には発生論がよく似合う、というわけである。たしかに歴史的純化論は、資本主義の生成期の歴史的発展が純粋資本主義に接近するというドグマに依拠している。発生論ならこの限界を克服し、純粋資本主義の存在を論証できると考えられたのかもしれない。
とはいえ、この強化は、同時に、純粋資本主義に接近しながら、ある時期にそれが鈍化、逆転するというかたちで、資本主義の発展段階論を基礎づけるという歴史的純化論の役割を投げ捨てることでもあった。原理論と発展段階論の完全な切断である。発生論で再構築された純粋資本主義論の原理論に対応して、従来の発展段階論も、さまざまな時代といろいろな地域に現れる資本主義のタイプを記述する資本主義の類型論に模様がえされた。そして、これに呼応して、第一の問題として述べた、演繹的な推論では一義にきまらない原論の開口部を、「当事者の視点」で素通りする傾向も強まっていったのである。
いま、二つの問題点を指摘したのだが、「当事者の視点」を重視し、単一の純粋資本主義像を確乎たるものにしようというこうした試みが論理的に誤りだとか不可能だとか、いっているのではない。ただこうした研究方向が唯一不二であるわけでも、絶対不可欠であるわけでもない。ただこれでは、少なくとも私には、あまり興味のない結論しかでてこない。「資本主義が変わる」という問題関心をもつ者にとって、「変わる」というのは理論の枠外、変わらぬ純粋像を示すのが原理論、資本主義にもいろいろあり「違う」のはたしかだが、ただそれは原理論の外で比較すればよい、という結論はあまりに味気ない。もちろん「変わる」ことのすべてが、抽象的な理論で説明できるというのではない。しかしそれは逆に、すべてが説明できないことを意味しない。AとBが「違う」のは比べればわかるが、知りたいのはAがBに「変わる」ことなのである。抽象的な定義と単純な推論エンジンで、「変わる」という事象の内部構造を分析し、どこまでがどう説明できるのか、たしかめたいのである。
変容論への途
本節では「要請」という用語にふれ、それが忌避される背景を探ってきたが、ここであらためて、資本主義の構造変化、すなわち変容を理論的に分析しようというアプローチにたって問題を整理しておこう。
ポイントは、定義に内包された「要請」、その概念が必須とする仕様と、一定の推論エンジンによって説明可能な領域とのギャップにある。このギャップを原論における「開口部」とよぶことにする。このギャップを要請ですべて埋めようとするのが忌避された「要請論」であるとすれば、逆に推論エンジンだけで乗りこえられると考えるも、また行き過ぎた「発生論」である。重要なのはこの「開口部」の存在を正面にすえ、その構造を理論のサイドから、つまり演繹的な推論を徹底することで、精密に分析することなのである。資本主義が変わるということに興味があり、その仕掛けを一般的に捉えようとすれば自ずとこうした方法にたどりつく。変容論的アプローチである。
いささか回り道をした観があるが、前節の終わりで、「商品の潜在的だが全面的な等置可能性が一般的等価物の存在を要請する」こと、しかしこの要請は演繹的に説明できない二つの制約を抱えていることを具体的に述べてみた。本節の整理をふまえてみれば、ここに一つの開口部が存在し、その構造が示されたことになる。
変容の構造
最後に、ここまでの考察をふまえて「これから解かれるべき問題」を提示しておこう。
商品貨幣の抽象性
商品貨幣は、価値の一般的な定義から要請される抽象的な概念である。それは仕様であり、それをどういうすがた shape Gestalt で実装するかには左右されない。原論のコア理論のレイアでは、この商品貨幣によって、価値尺度、流通手段、蓄蔵手段という機能の規定が進められる。これらは、商品貨幣の抽象性と同レベルで与えられるべきであり、これを逸脱する内容 — たとえば金貨幣であることに由来する蓄蔵や、世界貨幣など — は消去する必要がある。そして、こうした抽象化は、さらに、商品、貨幣に続く資本に関しても、求められる。
開口部の埋め方
本報告を通じて明らかになってきた、もっとも難しい問題は、第2節「価値表現」と第3節「価値形態」でそれぞれ明らかになった外的諸条件への要請は、一体となって充たされるのか、あるいは、独立に充たされうるのか、という問題である。すなわち、次の二つに作用する外的条件間の関係である。
- 等価物の直接型・間接型の決定(直間問題)
- 一般的等価物の形成
- 同値関係にある商品集合内の代表決定(代表問題)
- 類別された商品集合間の統合(統合問題)
等価物の直間決定は、一般的等価物の形成における代表決定と集合統合に依存するのか、独立に進むのか、という問題である。
第一の点、つまり等価物の構成のしかたに少なくとも二通り考えられるという問題は、価値表現のレベルで現れる。第二の点、つまり個々の価値表現の連鎖を通じて、等価物の統合が進むという話は、第一の点とは独立に、価値形態の展開として現れる。等価物の構成が直接型であろうと、間接型であろうと、第二の問題は同じように考えることができる。つまり、二つは理論としてみたとき、相対的に独立した問題である。しかし、両者とも一般的等価物を商品貨幣として実装する際には、特定の外的諸条件が必要になる。この実装のための外的諸条件のほうも別々のものになるのか、あるいは共通の条件が両方に作用することになるのか、この問題がいまなお未解決なのである。
直接型・間接型と代表の決定
まず物品貨幣であれば、直間問題は直接型にきまる。すなわち、モノを等価物にする直接型で一般的等価物が形成されることになる。これに代表問題はどのように関係するのであろうか。暫定的な解答は、特定の一商品の物量を等価物にする代表決定が対応するというものである。これに対して、信用貨幣であれば、債務証書を等価物とする間接型で一般的等価物はきまる。この場合の代表問題は、同値のサイクルを構成する商品集合が、一つの債務証書に統合されるかたちが考えられる。同値類の等価物となる商品物量のどれかに対する請求権は、同時に同値類の他の商品をもとにした等価物と同格になるからである。これは、予測される解答であり、厳密な論証が必要とされている。
同値類の代表決定と分割された商品集合間の統合
すでに述べたように、代表問題と統合問題は、直接型か間接型か、に関わらず、論じることができる。したがって、考えるべき問題は、代表問題と統合問題との間の依存関係になる。
統合問題というのは、けっきょく、単一の代表によって類別され、その間に等価物の重複のない複数の価値表現系が存在するとき、これらの表現系がどのように関係するか、という問題である。それぞれの系を代表する等価物、準一般的等価物の間の関係である。すぐに予想されるのは、準一般的等価物 \( {g_1,g_2,\ldots,g_n} \)は対等な位置にたち、その間の比率のみがきまる(\( g_1 \mapsto g_2 \mapsto g_3 \mapsto \ldots g_n \mapsto g_1 \)となるだけの)ケースと、準一般的等価物を代表する特定の存在による統合まで進むケースとへ分かれることである。これはあくまで憶測になるが、統合問題は抽象レベルを一段下げていえば、為替における正貨の問題になるように思われる。しかしこの先はまた、さらに詰めて考えてゆくべき未解決問題である。
実装からの抽象
この問題を解き明かすには、商品貨幣の実装を具体的に進めながら、それを反省的に捉えかえし一般化するのが近道であろう。金硬貨と不換中央銀行券を念頭におき、貨幣単位(度量衡)つまり本位の問題、法貨規定の問題、そして為替支払の正貨の問題、などを、価値表現における共通の等価物形成のレベルに抽象化してゆく必要があると考えている。