世田谷市民大学2024第1講

資本主義とは:起源は行方を照らす

はじめに

これから6回にわたり「現代資本主義論」というテーマで、みなさんといっしょに考えてゆきたいと思います。「現代資本主義」ではなく「現代資本主義論」とわざわざ「論」をつけたのは、多少とも「論」すなわち「理論」的なアプローチに立つという含みです。私はずっとマルクス経済学の理論研究に携わってきました。「現代資本主義」というと、日々の経済ニュースで報じられる最新の出来事を解説するのだと思うかもしれませんが、ここではそうした話はあまりしません。それは「現代経済事情」です。「現代資本主義」という以上、曲がりなりにも「資本主義」という全体像がテーマになります。したがってまず、この「資本主義」という言葉でどんな経済社会をイメージしているのか、細かい点に踏みこむと切りがありませんが、ともかくその概要を確認しておくことが必要です。

そこで第1回と第2回では、現代資本主義論のベースになる資本主義論について、考えてみたいと思います。原論レベルの資本主義論など、どれもこれも、今さら考えてみても大差ないだろう、現代資本主義論を考えるのにどんな意味があるのか、と思うかもしれません。それは、どんなタイプの理論によるにせよ「これまでの資本主義論」を不変不動のものと考えているからです。ところが、これからお話しするように、20世紀末から21世紀にかけて、資本主義は大きな変貌を遂げました。これから現代資本主義論の対象となる新たな状況に移行したのです。これを相変わらず「これまでの資本主義論」をもとに語ろうとしても無理なのです。この結果、一方では現実の資本主義がどんなに変わろうと変わらないのが原論の資本主義論なのだと開き直り、理論家が内向きの精緻化に傾注すれば、他方で、現代を理解するのに古くさい原論の資本主義論など関係ない、事実を事実として分析すればよいのだと、実証家のほうは自分の関心によって思いつきのナントカ資本主義を乱立させる、という些か困ったことになっているように見えます。

第1回では、こうした困った状況を打開すべく、現代「資本主義」もちゃんと捉えられるような新しい「資本主義」論について考えてみます。第2回では、この資本主義論をもとに、こんどは現代資本主義論の「現代」とはなにか、明らかにしてゆこうと思います。こうした一般論をふまえて、残りの4回で、現代資本主義の焦点をなす「貨幣」「労働」「情報通信技術」そして「環境」について検討してゆきます。繰り返しますが、ここでもなにか、目新しい経済情報について知識が得られるとあまり期待しないでください。インターネットに接しているみなさんは、私が知っていること以上のことを多くご存知だろうと思います。ここで考えてゆきたいのは、そうした知識を現代資本主義という大きな像に組み立ててゆくことです。そして、「これから」についても、大局的な見地から、現代資本主義はどう変わりうるのか、変えるべきなのか、探ってみたいというわけです。

なお、話を進めるうえで一つ注意しておきたいことがあります。この先、やや専門的な用語、マルクス経済学に特有なタームがでてきます。本来ならこうした部分をわかりやすく解説するのが、こうした講義では必要なのかもしれませんが、インターネットで検索すればわかる範囲に関しては大幅に省いてあります。私も専門外の論文などは、このやり方で、なんとか自力で読んでいます。このテキストはWEB上に掲載しておきますので、そこからだとより簡単に検索がかけられると思います。ぜひ利用してみてください。

「資本主義」という言葉

ふだん何気なく使っている「資本主義」という言葉ですが、あらためて正面から眺めてみると、得体の知れない、いかにも胡散臭い代物にみえてきます。「主義」というのは本来、「自由主義」とか「平等主義」とか「博愛主義」とか、何らかの理念を掲げてそれを追求する立場を表明するものでしょう。自らP主義者だと名のる場合は、Pにはポジティブな意義を認めているものです。逆に相手をやっつけたい人は「あいつはN主義者だ」というようにネガティブなNというレッテルをはるでしょう。たとえば「権威主義」とか「利己主義」とか「日和見主義」とかといった具合です。ところが「資本」というのがそもそもモヤモヤしたものので、これに主義をつけると余計、意味不明になります。強いていえば、「金もうけ主義」とか「拝金主義」とかいった俗っぽい表現を、もうちょっと高尚めかして表現したものといったところになるのではないでしょうか。ホラを吹きたい人には、そこが魅力なのかも知れませんが、多少とも学問的に議論したい人には、こんな曖昧な言葉は避けたと思うはずです。

事実「資本主義」という用語は、『資本論』にはでてきません。正確には一箇所あるとか二箇所あるとか、とにかくその程度の話です。このことは重田澄男著『資本主義を見つけたのは誰か』(2002)などで詳しく紹介しています。「資本主義」というのは『資本論』が広めたと思うとそれは大間違いです。この言葉を広めたのはヴェルナー・ゾンバルト(1863 – 1941)だと聞いたことがあります。たしかに『恋愛と贅沢と資本主義』Liebe, Luxus und Kapitalismus(1913)というタイトルの著作があります。ただその意味では、すでにマクス・ウェーバー(Max Weber 1864 -1920)に、よく知られた『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus(1904-1905)という著作があるので、こっちが先かもしれません。このへんの詮索は好事家に任せるとして、ともかく三部構成の現行『資本論』Das Katital では「資本主義」はでてきません。

私たちが「資本主義」という言葉でなんとなく思い描く対象は、『資本論』では die kapitalistische Produktionsweise とよばれています。昔はこれを「資本家的生産様式」と訳していたのですが、最近の訳本では「資本主義的生産様式」になっています。あるいは「資本制生産様式」とよぶ人もいます。たとえば『資本論』本文は「資本主義的生産様式が支配している諸社会の富は、『商品の巨大な集まり』として現われ、個々の商品はその富の要素形態として現われる。それゆえ、われわれの研究は、商品の分析から始まる。」(D.K.,S.49)という一句ではじまります。

この「生産様式」という用語は、多少ともマルクス主義に馴染みのある世代には、学生時代によく耳にした懐かしい、そしてその後うっかり口にしてボロくそにいわれた苦い経験がある、例の「唯物史観」のキータームです。つまり「生産力」とこれに対応する「生産関係」(生産手段の所有関係とみるとスッキリします)がセットになったのが「生産様式」で、これが「下部構造」を形成し、これに政治体制やイデオロギーといった「上部構造」が対応するという図式です。「生産力」が上昇するとこれが既存の「生産関係」と矛盾するようになり、やがて「生産様式」が破壊され新たな「生産様式」に移行する。こうして「上部構造」も変化するのであり、「下部構造」が「上部構造」を決定するのであり、目に見える「上部構造」から「下部構造」を説明するのは観念論だといったロジックです。こうして、生産力の上昇に規定され、「大づかみにいって、アジア的 asiatisch、古典古代的 antik、封建的 feudal および近代ブルジョア的 modern bügerlich 生産様式を、経済的社会構成体が進歩してゆく諸時期としてあげることができる」(MEGA II-2 S.101)というのです。そしてこの最後の生産様式の矛盾が今まさに激化しているという認識のもとに『資本論』は執筆されているわけです。唯物史観そのものは三十代のマルクスとエンゲルスが『ドイツ・イデオロギー』とよばれる草稿を執筆するなかで確立したものですが、『資本論』第一部(1867)に先行して公刊した『経済学批判』Kritik(1859)に附した短い「序言」Vorwort (もう一つ「序説」Einleitung(1857)というのがあり、これは未発表の草稿『経済学批判要綱』Grundrisseに付されたもの)のなかに端的にまとめられています。

好事家に任すといいながら、ちょっと好事家じみた詮索に走ってしまいましたが、申しあげたかったことは「資本主義」という言葉がかなりいい加減なものであり、とりわけ二十世紀末のソ連邦の瓦解以降、「カジノ資本主義」「掠奪資本主義」「デジタル資本主義」等々、目の前の現象を特徴づけようとするトンデモ資本主義が簇生するになりました。しかし、この講義でこれから考えてゆく「資本主義」は、あくまで経済学の、よりはっきり言えばマルクス経済学の「資本主義的生産様式」のことで、これを短く《資本主義》とよぶことにします。これは言葉の用い方に関する約束事です。

ただ「資本主義」というより「資本主義的生産様式」というほうが厳密でよいのかというと必ずしもそうではありません。「生産様式」という部分には問題があります。これは唯物史観の用語法です。資本主義はひと言でいえば、市場が(正確には資本が)生産を組織する経済で、市場は生産と対等な重みをもちます。『資本論』も生産からではなく、商品・貨幣・資本という市場からはじまります。「生産様式」という言葉は生産現場をどう編成するのかという狭い対象をイメージさせる恐れがあります。日本語としては「資本主義的生産様式」よりは「資本主義経済」あたりが穏当でしょう。このあたり、詳細に立ちいるとキリがないのでのでパスしますが、ここでは《資本主義》という用語はごく大雑把に多数の資本が大量の賃金労働者を傭い利潤を追求して競争することで、結果的に社会的再生産の基幹部分が編成処理されてゆく経済という意味で使うことにします。そして、ざっと1990年代以降を「現代」と定め、この時代の資本主義を「現代資本主義」とよぶことにします。

『資本論』の起源論

終わりの始まり

なぜこの時期を「現代」とよぶのかは、第2回で説明しますが、ここではこの「現代」の反対側について考えてみたと思います。そもそも「資本主義」はいつ、どこで、どのように始まったのか、すなわち資本主義なるものの起源という問題です。資本主義には始まりがあり、そしておそらく終わりがあるだろう、このように考える点で、マルクス経済学はその他の経済学と決定的に異なります。始まりがあって終わりがあるのが「時代」です。マルクス経済学の対象は、あらゆる時代に通じる普遍的な経済ではなく、資本主義とよぶと特定の「時代」の経済の特性です。

一般の経済学では、利得だけを追求する個人を想定し、諸個人の交換行為の場として市場のしくみを分析することが中心課題とされ、それはどのような時代でもおよそ市場が存在するかぎり、当てはまるものだ、と考えるわけです。アダム・スミスの『国富論』は人間の本性を「交換性向」に定め、デーヴィッド・リカードの『経済学および課税の原理』は労働価値説をビーバーと鹿の交換比率を例にして説明したりするわけです。市場を普遍的な存在と考えて分析対象を歴史的に特殊な社会に限定しない方法は、今日の主流派の経済学まで一貫して支配しています。対象を歴史上のある社会形態に設定して、その構造と運動を特徴づけるという点が、マルクス経済学のレゾンデートルだということになります。そこで今回はとりあえずこの始まりのほうを考えてみたいと思います。

「起源は行方を照らす」とよくいいます。将来について論じるのはイデオロギーが絡んで難しいのですが、過去についてはそれに比べれば客観的に議論できます。そして資本主義なるものがどのようにして誕生したのかを知ることは、これからどう変わってゆくのかを考えてゆくヒントになることはたしかでしょう。すでに述べたように「資本主義」という言葉は『資本論』由来のものではないですが、この講義で《資本主義》(以下《》は省きます)とよぶ約束にした社会構成体を明確な対象に据えたのは『資本論』が最初だといってよいでしょう。

そこでみなさんにお尋ねします。「資本主義は産業革命を通じて成立した」「資本主義は市民革命を通じて成立した」、さてこれは正しいでしょうか。まったく誤りかというとそうとはいいがたい面もあるのですが、これは『資本論』における起源論の本筋ではありません。序でですから『資本論』第一部の粗筋も簡単に紹介しながら、説明してみます。

搾取論と窮乏化論

『資本論』は第一部初版が1867年に刊行された後、二版、三版、フランス語版と手が加えられたのですが、著者マルクスが1883年に没してしまい、第二部は残された草稿をもとにエンゲルス編で1885年に、第三部は1894年にやっと刊行されました。これだけ間が空くとリアルアイムで『資本論』を読んだ人々は、『資本論』は全三巻だと捉えることは難しかったのではないでしょうか。おまけに、第一部は起承転結がしっかりしており、それ自身で完結した著作として読める内容になっているのです。第一部完結型、第二・三部補足型の読み方が自然なのです。これは次回でふれる日本における『資本論』の読み方と決定的に異なります。日本のマルクス経済学のメリットを知るうえでこの点は看過できません。

さて、問題はこの第一部の内容です。ごくごく大雑把にいえば、前半は搾取論、後半は窮乏化論ということになります。搾取論というのは、労働生産物と同じ等価交換の原則が労働力にも適用されれば、資本のもとに必然的に剰余価値が形成されるという話です。搾取は市場のルールが破られるからではなく、その貫徹の結果だというのです。これはプルードンらの「市場社会主義」に対する理論的批判になっています。「市場社会主義」というと、ソビエト型の計画経済が行き詰まるなかで現れた市場と計画を混合させた社会主義を思い浮かべるかもしれませんが、『資本論』の時代の社会主義の主流はむしろ、小生産者が市場を利用して対等に結びつく「政府なき社会主義」、つまり無政府主義(アナーキズム)的な社会主義でした。これに対して『資本論』は、搾取は不等価交換ではなく等価交換の結果だ、等価交換の市場を残して搾取を廃絶するというのは虫のいい話だ、と批判したわけです。二十世紀のマルクス主義者は、この理論で他の社会主義者を論破し、市場廃絶型計画経済という基本路線を推し進めていったわけです。

この議論は一見したところ、資本による搾取を容認してしまっているようで奇妙に思えるかもしれません。しかし、搾取は不正だといった倫理的・道徳的批判から『資本論』の唯物論は絶縁しています。搾取を暴露し労働者を覚醒させれば資本主義は廃棄されるというそういう単純な話にはなりません。この種の啓蒙主義は『ドイツイデオロギー』の唯物史観でとっくに乗りこえたわけです。

前半の搾取論で合理的に形成された剰余価値は、資本によって自己目的的に蓄積されてゆきます。資本の規模は加速度的に増大してゆきますが、同時に生産力を高めるためにより多くの機械が導入され職ジョブの数が累積的に減少してゆきます。こうして資本の規模に対して相対的に過剰な労働人口が、つまり失業者の群が累増すると同時に、大資本が小資本を打ち負かしますます巨大化してゆきます。資本主義を特徴づける生産力の急速な発展は、一方における産業予備軍の累積、他方における資本の集中集積という状態を生みだし、その矛盾の激化を通じて自己を「破壊」する。これが後半体系の結論ともいうべき「窮乏化 Verarmung 法則」(armen:poor, lenden:misery)です。第一部は「資本主義的私的所有の弔鐘が鳴る Die Stunde des kapitalistischen Privateigentums schlägt.」(D.K.,I,S.791)という結論で文字通り終わっているのです。

本源的蓄積

資本主義は倫理的にどう評価するかとは関係なく、生産力を上昇させるというそれ自身の歴史的使命を全うする結果、内的必然的に行き詰まり自己を破壊するという一方向の発展を遂げるわけですが、こうした資本主義はどのように誕生したのか、その秘密を『資本論』は第一部末尾の「いわゆる本源的 ursprüngliche 蓄積」の章で解き明かします。昔は「原始的蓄積」と訳されており、これを縮めて「原蓄」とよんだりする人もいます。

ポイントは、賃金労働者を雇うことなく、自分の資金で原料を買い自らはたらいてその生産物を売る「独立小商品生産者」が貨幣をコツコツと貯めて資本家になったのではないという点にあります。対等な独立小商品生産者が市場における競争を通じて両極分解し資本家と労働者に分かれたという説もあるのですが、『資本論』の本源的蓄積は違います。大量の賃金労働者は、市場の内部から自然発生したのではなく、暴力的な土地収奪を通じて農村民を「鳥のように自由な」プロレタリアートに変えることで外的に形成されたのだというのです。この賃金労働者は「二重の意味で自由な」労働者ともいいます。封建的な身分的制約から自由 free from であるとともに、土地という生産手段からも自由 free of であるというのが二重の意味です。

暴力的に土地を収奪され、追放され、浮浪人にされた農村民は、グロテスクで凶暴な法律によって、鞭打たれ、烙印を押され、拷問されて、賃労働制度に必要な訓練をほどこされた。

一方の極には労働諸条件が資本として現われ、他方の極には自分の労働力以外に売るものがなにもない人間が現われるというだけでは十分ではない。このような人間が自発的に自分を売るように余儀なくされるだけでも、まだ十分ではない。資本主義的生産が進むにつれ、教育、伝統、慣習によって、この生産様式の諸要求を自明の自然法則として承認するような、労働者階級が発展する。十分に発達した資本主義的生産過程の組織はあらゆる抵抗を打破し、相対的過剰人口の絶え間ない生産は労働の需要供給の法則を、それゆえ労賃を、資本の増殖欲求に照応する軌道内に保ち、経済的諸関係の暗黙の強制 stumme Zwang は労働者にたいする資本家の支配を確定する。直接的な暴力 Außerökonomische, unmittelbare Gewalt も相変わらず用いられはするが、しかしそれはただ例外的であるにすぎない。ものごとが普通に進行する場合には、労働者は「生産の自然法則」に、すなわち、生産諸条件そのものから発生し、それらによって保証され永久化される資本への労働者の従属に、まかせておくことができる。資本主義的生産の歴史的創生記中では、事情は違っていた。勃興しつつあるブルジョアジーは、労賃を「調節する」ために — すなわち、貨殖に適合する制限内に労賃を押し込めるために — また労働日を延長して労働者自身を標準的な従属度に維持するために、国家権力を必要とし、利用する。これこそは、いわゆる本源的蓄積の本質的な一契機である。(Werke,I, S.765-6)

ちょっと長い引用になってしまいましたが、① 馴化された労働者階級がひとたび形成されれば、資本主義は stumme Zwang つまり mute compulsion だけで等価交換の原理に基づき半ば自動的に拡張する(第1部の本論)が、②その形成自体には非商品経済的な Gewalt が不可欠なのだというコントラストがはっきりと示されている箇所ではないかと思います。

長期一国説

ではこのような資本の本源的蓄積は、いつどこではじまったのでしょうか。『資本論』の説明を逐一追えばいろいろな面がでてきますが、これも大雑把にいえば、一六世紀のイングランドの農村で、ということになります。

資本主義的生産の発端は、すでに一四世紀および一五世紀に地中海沿岸のいくつかの都市で散在的に見られるとはいえ、資本主義時代 kapitalistische Ära が始まるのは、ようやく一六世紀からである。資本主義時代が現われるところでは、農奴制の廃止はとっくに実現されており、中世の頂点をなす自治都市の存立もずっと以前から色あせてきている。

本源的蓄積の歴史において歴史的に画期的なものといえば、形成されつつある資本家階級のために槓杆として役立つ変革がすべてそうであるが、しかしわけても画期的なのは、人間の大群が突如としてかつ暴力的にその生活維持手段から引き離され、鳥のように自由な vogelfrei プロレタリアとして労働市場に投げ出される瞬間である。農村の生産者である農民からの土地収奪が、この全過程の基礎をなしている。この収奪の歴史は国が違えば違った色合いをもっており、この歴史がさまざまな段階を通る順序も歴史上の時代も国によってさまざまである。それはイギリスにおいてのみ典型的な形態をとっており、それゆえわれわれはイギリスを例にとるのである。(Werke,I, S.743-4)

十六世紀といえば、大航海時代がはじまったばかり、ずいぶん昔の話です。もしマンチェスターが先端的な綿工業で「世界の工場」とよばれるようになった十八世紀前半からふりかえると、ざっと三百年あまりを、資本主義はその成立のために要したということになります。しかも、それはイングランド国内の農村で進んでいった過程だということになります。繰り返しになりますが、歴史的事実はそれほど単純ではなく、『資本論』の論述も複雑でこんなふうに単純化すれば当然誤解だ誤読だといわれると思いますが、理論家としては「アアでもありコウでもある」という複雑な総合より「アアとコウとはどこがどう対立するのか」といった純粋な分析のほうを選びたくなります。歴史的事実は多様に多様であるとしても、『資本論』はいわば長期一国説とでもいうべき起源説が基本だ、とひとまず読みとっておくことにします。「起源は行方を照らす」という観点で、現代とその先にある将来を考えるヒントを探るという目的には、思いきった単純化が必要だからです。そして、すでにみたようにそれはまた自己分解=自生説ではなくゲバルト=強制説という面ももっています。このような起源説をもとに考えると、どのような資本主義の行方が浮かび上がるのか、これが今回の基本問題なのですが、そこに進むまえにもう少し、『資本論』の起源説の問題点について検討しておきましょう。

異なる起源論

農業資本主義

ここでは詳細にはふれませんが、『資本論』の「本源的蓄積」はちょっときいただけでも気になるところがでてきます。歴史的な事実に関する疑問というより、ロジック上の疑問です。暴力的な土地収奪で生まれた「鳥のように自由なプロレタリアート」の形成は十六世紀からという非常に長い期間を要した。近代的な賃金労働者として雇傭されるようになるのは、『資本論』第一部の本論の対象となる19世紀の話です。だとすると、この長い期間、彼らはどのように生活を維持できたのかという素朴な疑問が生じるのです。それに先立つ長い期間、まだ産業資本が登場する以前、どうしていたのかがどうもはっきりしないのです。「群をなして乞食になり、盗賊になり、浮浪者になった」「ワークハウスで強制労働させられた」「都市に流れ込んで下層貧民として雑業に従事していた」といっても、それらはいずれも部分的なもので、何世紀にもわたる安定した存続様式にはなりません。

この点で興味深いのが「農業資本主義」です。「ブレナーは,イングランドにおいて,工業化に先行して農業で資本家的経営が発生したことを重視し、それを農業資本義 agrarian capitalism と呼んだ」(沖公祐「書評」)とのこと、私はこれを、エレン・メイクシンス・ウッド『資本主義の起源』(1999)で知りました。櫻井毅『資本主義の農業的起源と経済学』(2009)によると、McNally, David, Political Economy and the Rise of Capitalism : A Reinterpretation, University of California Press, 1988.が本格的な研究だそうですが、そこでは次のような説明がなされているようです。

初期の囲い込みでは、土地から放り出された無産民の大部分は、もっぱら農村にとどまっていたように見える。

無産民が工業プロレタリアートとしてまだ登場する機会はなくても、農民の一部はすでに農業プロレタリアートに変わったのである。事実、そういう中から農村での地主、借地農業者、農業労働者からなる三肢構造が形成され、労働力の生み出す剰余を土地所有者と資本家とで分け合う農業の資本家的経営が次第に普及してくるのである。(343頁)

「借地農業者」というのは farmer のことで、これを「農民」と訳してしまうと本質を見失います。farmer というのは一種の経営者で、自分の資金で農具や種子などを買いそろえ、地主から土地を借り、労働者を雇い、自分の裁量で商品生産をおこなうとした資本家です。したがって「農業労働者」もただの「農民」ではなく「賃金労働者」ということになります。『資本論』では資本主義的農業は第一部第13章「機械と大工業」の最後の節「大工業と農業」のところではじめて本格的に論じられ、また第三部第6篇「超過利潤の地代への転化」も基本的に農業地代論を対象にしています。いずれも産業資本が確立したあとに、あるいはその影響下に農業資本家が登場するかたちになっており、いわば「工場」に先立ち「農場」で資本主義が発生したという観点はないといってよいでしょう。農業は工業に比べて資本主義に馴染みにくい、農業はできれば資本主義の外部に押し出してしまいたい厄介者という見方が、マルクス経済学では支配的になっていました。農業資本主義は通説を覆すアンチとしてインパクトがあったわけです。

ただこの正否は歴史的事実によってまず判定するべき問題です。ただ、この農業資本主義のアイデアは、たしかに資本主義像を考えるうえで重要な意味をもち、とりわけ、現代資本主義を捉えなおす手がかりになる面があります。つまり、資本主義の起源をたどると産業資本家と労働者だけではなく、農業地代を取得する土地所有者という第三の階級が存在すること、地代は農業地代に限らず、「再生産できない生産手段」一般に対する「価格」として、もっと抽象的なレントと考えると、実はここで時期を定めた「現代資本主義」を理解するうえで無視できない要素となる点です。「農業」にばかり気をとられると、それは資本主義の発展のなかでどんどん影響を弱めていったのではないか、なんで今さら …. とピンとこないと思いますが、「起源は行方を照らす」のです。このあと現代資本主義を特徴づける契機として、だがそれ自身は要素として、「知識・情報」や「環境」を捉えかえすなかでピンとさせたいと思います。ここでは、『資本論』の「本源的蓄積」が資本・賃労働関係に焦点を絞り込むものだったのに対して、「農業資本主義」の起源説は、これにもう一つ、再生産されない「土地」すなわち「自然力」の賃貸借が重要な契機として組み込まれていること、この点をアタマの片隅においていただければけっこうです。

「大分岐」

『資本論』の本源的蓄積=資本主義の起源論には、もう一つ気になる点があります。それは「商業」に対する取り扱い方です。先に引用したように「資本主義的生産の発端は、すでに一四世紀および一五世紀に地中海沿岸のいくつかの都市で散在的に見られるとはいえ、資本主義時代 kapitalistische Ära が始まるのは、ようやく一六世紀からである。」と記されていましたが、これとよく似た規定は第一部の第4章「貨幣の資本への転化」の冒頭にもでてきます。

商品流通は資本の出発点である。商品生産、および発達した商品流通 — 商業 — は、資本が成立する歴史的諸前提をなす。世界商業および世界市場は、一六世紀に資本の近代的生活史を開く。(Werke 23:S 106)

ベネチアなど東方貿易で栄えた「一四世紀および一五世紀に地中海沿岸のいくつかの都市」から、いわゆる一六世紀の地理上の「発見を契機」にスペイン、ポルトガルによる「世界商業および世界市場」へと大変換するわけです。そしてさらに「世界商業および世界市場」の覇権は、このあとオランダ、さらにイギリスへと移ってゆきます。ところが発端とされた契機は、『資本論』の長期一国説的な「本源的蓄積」の展開には、この後の影に隠れ表にはでてきません。ここで「商業」とよばているものには二つの側面があります。①イギリス国内の「本源的蓄積」に対して、安く買って高く売るタイプの「商人資本」が果たした役割と、②1600年設立ですから一六世紀ではなく十七世紀になりますが、東インド会社などが担った国際貿易、この二つが果たした役割をどう評価するかという問題です。『資本論』は「商業」の発展を掲げながら、「本源的蓄積」では、その役割を意図的に無視しているように読めます。

当然ながらこの隠された意図をめぐって、その後論争が展開されることになります。私が生まれる前、だいぶ古い話になりますが、ドッブ=スウィージー論争というのが有名で、学部生のころ講義で聴いた覚えがあります。Dobb,Maurice,Studies in the Development of Capitalism(1946) に対する Sweezy,P.M, The Transitionfrom Feudalism to Capitalism : A Symposium(1954)の批判に代表される、封建制から資本主義への移行に関する一連の論争です。「内的要因」「生産様式」を重視するドッブに対して、スウィージーが「外的要因」「市場」を重視したといわれることがおおいのですが、もちろん中味は複雑で解説するには1回分の講義が必要になります。興味があればインターネットで例えば閲覧できる古松丈周「移行論争とポール・A・バラン」などをご覧ください。戦後の日本でも「局地的市場圏」における小生産者の両極分解を重視する論者(大塚久雄・高橋幸八郎など)と「重商主義段階」における支配的資本として「商人資本」の独自の役割を重視する論者(宇野弘蔵)の、私が学生時代にリアルに接した対立などがありましたが、これについては次回にふれます。

①についてはマルクス経済学者の間で古くから議論されてきたのですが、②についてはマルクス経済学者以外の歴史研究者が盛んに議論をしてきたテーマになります。とりわけ近年では、グローバルヒストリーとよばれる歴史研究の潮流がいろいろ興味深い事例をあげて論じています。西ヨーロッパ中心だった世界商業の理解に対して、文字通りグローバルな視点で捉えかえす試みには、資本主義の起源、さらには行方を考えるうえでやはり重要な論点が含まれていると思います。Kenneth L. Pomeranz, The great divergence: China, Europe, and the making of the modern world economy, Princeton University Press (2000)の訳『大分岐』が2015年にでたのも一つの契機となり、日本でもさまざまな議論がなされているようです。『資本論』をベースとしてきたマルクス経済学者が、グローバルヒストリーの研究とどう向かい合うのか、難しい問題があるのですが、私自身はもっとポジティブに取り組むべきだと考えています。これについても次回、プレート交替論について触れてみたいと思います。

資本主義の行方

話はまだまだ長くなりそうなのですが、ここでひとまず今回の話をまとめてみたいともいます。「起源は行方を照らす」という観点で、資本主義のはじまりについて考えてきました。「現代資本主義論」の「現代」とはまさに「行方が問われている今」なのです。

はじめに「資本主義」とはそもそもなにか、つまり「資本主義論」について考えてみました。明確な答をだしたのは『資本論』第一部で、搾取論+窮乏化論のかたちで完結した資本主義像を描きだしています。大量の賃金労働者から剰余価値を引きだしそれを蓄積し続ける社会です。自己目的的な蓄積は生産力を高める一方で、相対的過剰人口を累積させ資本の集中集積を加速することで、内的な矛盾を激化させやがて自己崩壊することになる。第一部完結型で『資本論』を読んだとき、クリアーに浮かびあがる資本主義像です。『資本論』の執筆された時点では、この崩壊は予兆はあってもその過程は将来の話になるので具体的に記されてはいないのですが、短期に一斉に進むと読者は受けとるでしょう。政治革命による資本主義から社会主義への転換ということになります。事実このようなかたちで、さまざまな二十世紀の社会主義は構想されその破綻をみたのです。

そこであらためて、こうした自己崩壊を遂げる資本主義がどのようにして誕生したのか、この起源を『資本論』に尋ねると、なんと三百有余年を要するきわめて長期の漸進的な準備期間がかかったという答が返ってきます。母体から誕生するまでには時間がかかるが死ぬのは一瞬だといえばそうかもしれませんが、老いた我が身は毎日少しづつ死んでゆく気もします。それはさておき、「現代」を考えるとき、超長期の起源は重要なヒントになります。『資本論』第一部はやはり結論を急ぎすぎたのではないか、この点は、次回、日本のマルクス経済学について考えるなかで詳しく述べますが、現代資本主義が直面している構造変化すなわち「変容」は百年単位の長期で考える必要があるように思います。今回引用した箇所にも「暗黙の強制 stumme Zwang」というのがでてきたと思います。私たちは、学校をでたら企業に就職する、朝起きたら定刻通り仕事にでかける、こうしたことを当たり前のことだと思うのですが、資本主義以前の時代に生きた人々には考えられない行動でしょう。経済社会の構造転換とともに進むこうした社会的価値観の内面化には時間がかかるのです。

ただこの経済構造の変換に関しては、直接的なゲバルトの問題を考えておく必要があります。資本主義はいったん成立すれば「無言の強制」ですむかもしれませんが、その成立には強力な外的作用が必要だという認識が『資本論』の起源論には含まれていました。成熟した資本主義がやがて変質して別の社会に変わるのは、内的な要因が基本であり、徐々にだが自然に変質するのか、という問題です。1980年代にクリーピング・ソーシャリズムという議論が登場しました。もともとは1930年代のニューディール政策を新自由主義者のハイエクたちが揶揄した言葉だと聞いたことがありますが、日本では福祉国家型資本主義の一面をこうよんだのです。資本主義はほっておいても自然に社会主義に移行するようになっているというのです。こういうといかにも楽観主義、日和見主義にきこえるのですが、「豊かな社会」とか「過剰富裕化」、「一億総中流化」とか「社会主義ならぬ会社主義」等々、英米が停滞するなかで日本が相対的に活況を呈した1980年代、バブル以前には一定の説得力をもったように思います。これはさておき、資本主義は内部の力で変わるのか、外部の強制が必要なのか、これは政治革命の有無とはまた別次元で、資本主義の起源をヒントに考えてみる必要があるテーマです。

以上は長期一国説の「長期」のほうの問題でしたが「一国」のほうも再検討が必要です。後半で「商業」の役割についてみてきました。「商業」というのは「商品交換は、共同体の終わるところで、諸共同体が他の諸共同体または他の諸共同体の諸成員と接触する点で始まる。」(D.K.,S.102)という利潤なき「商品交換」ではありません。そもそも、これは財の交換であっても、商品の売買ではありません。「商品交換」という用語は問題含みで、私は使いません。「商品売買」といいいます。売買には必ず貨幣が付きもので、貨幣があれば、売買差額を求める活動、つまり資本も必ずでてきます。商品、貨幣、資本はワンセットになっているわけです。「商業」の主役は安く買って高く売り差額を求めるプロの「商人」です。

「商業」は「金融」を発達させます。遠く離れた地点間で大量の商品が売買されるようになると、商品の輸送に時間がかかりますから、商品が到着するまえに販売代金の請求権を表す手形債権を額面以下で買う(割引)とか、大量の同種商品が一箇所で定期的に取引されるようになりますから、そこでの将来価格を予約する(先物)とか、いろいろな金融取引の手法が発達するようになります。「金融」という言葉は定義しにくいのですが、単純な現金の貸借という含みをもたせて、貨幣の事実上の「融通」のことだといわれたりするようです。私のような理論家は「もっと厳密に定義すべきだ」などといっては、「融通の利かないやつだ」と蚊帳の外におかれたりするわけです。それはともかく、商品売買はいつも現金即払いとは限らないのですから、商品の売買に絡んで貨幣の「融通」が生じることはたしかです。そして、資本主義の起源について考えるときこの「金融」の発展をどう評価するかは興味深い問題になります。この後現代資本主義論として金融肥大化、資本主義の金融化というテーマで一回話をします。資本主義が立ち上がる時期に、やはり商業と金融の発展をみたことは、現代の金融化を理解する一つの手がかりになるかもしれません。19世紀の産業資本の時代に進むのには、15世紀からの長い助走の時代があったわけです。『資本論』の「本源的蓄積」は「鳥のように自由なプロレタリア」の形成が焦点になっていており、西ヨーロッパにおける商業戦争はこれを促進するせいぜい脇役です。「いわゆる本源的蓄積」では「産業資本家の創世記 Genesis」と題した節は「植民制度、国債、重税、保護貿易、商業戦争など、本来的マニュファクチュアは、大工業の幼年期中に巨大に繁茂する」(D.K.,S.785)と「商業戦争」もでてくるのですが one of them です。ルネサンス期のイタリア(フィレンツェ、ピサ、ヴェネツィア、ジェノヴァ)からフランドル、オランダ、そしてイングランドへと羊毛工業中心ですが、遠隔地貿易を伴う発展があり、このなかで金融のシステムが発達するのです。『資本論』を読むと産業資本の形成する剰余価値の分配として利子が説かれますから、産業資本が十分発達するなかでその補助機構として「金融」は発達するようにみえます。しかし、資本主義というのは、何層かのプレートから成りたっており、イギリス中心の19世紀の資本主義がのったプレートに先行して、商業的発展がのった別のプレートが存在したようにもみえます。前のプレートはまだ資本主義とはいえないといえばそうかもしれませんが、これはある意味で「資本主義」の定義の問題になります。私もこれを簡単にもう一つの資本主義だというつもりはありません。ただ、こうした多層的な視角は、現代の資本主義を捉えるうえでやはり重要な意味をもつのではないか、と考えています。この多層的視角の必要性については、このあと、労働、技術、貨幣、金融、環境といった個別のテーマに即して、詳しく述べてゆきたいと思います。

1件のコメント

  1. 今回ちょっとふれた『資本論』の「いわゆる資本の原始的蓄積」の章にでてくる次の一節について解釈を求められましたので、お答えします。

    こんにちでは産業的覇権が商業的覇権をともなう。これに反し、本来的マニュファクチュア時代には、商業的覇権が産業上の優勢を与える。それゆえ、当時には植民制度が主要な役割を演じたのである。植民制度は、ヨ ー ロッパの古い神々と祭壇にならんでいたが、ある日これらの神々を残らず葬り去った「異国の神」であった。それは、貨殖こそ人類の最後で唯一の目的であると宣言した。 〔ディドロ『ラモーの甥』、本多喜代治・平岡田升訳、岩波文庫] (『資本論』第部第24章第6節)

    Heutzutage führt industrielle Suprematie die Handelssuprematie mit sich. In der eigentlichen Manufakturperiode dagegen ist es die Handelssuprematie, die die industrielle Vorherrschaft gibt. Daher die vorwiegende Rolle, die das Kolonialsystem damals spielte. Es war “der fremde Gott“, der sich neben die alten Götzen Europas auf den Altar stellte und sie eines schönen Tages mit einem Schub und Bautz sämtlich ber den Haufen warf. Es proklamierte die Plusmacherei als letzten und einzigen Zweck der Menschheit. (Marx-Engels Werke Bd.23, S,782)

    前半は、「本来的マニュファクチュア時代」には、世界的な商業(というのは対外貿易のことですが)を支配したものが毛織物産業で優位にたった。しかし、「こんにち」(綿工業でイギリスが支配的なった時代)には、逆に国内の製造業の優位性が世界貿易においても支配的になる、ということでしょう。そして、世界的な商業で中心的な役割を担うのは「植民制度」だとした上で、この「植民制度」について、比喩的な説明が続くわけです。

    解釈がちょっと面倒なのはこの後段です。

    「異国の神」が“der fremde Gott”の適訳かどうかわかりません。「馴染みのない神」「奇妙な神」くらいでよいのではないかと思います。fremde には「異国」とか「外国」という意味もありますが、ここは外国の神、植民地で信仰されている神、ととるとわからなくなります。因みに Entfremdung が「疎外」でフォイエルバッハが神を人間性の疎外態としていたことを想起させます。

    はっきり im Ausland とあれば「外国の」になりますが、fremdeは国境をこえた外国に限定されません。Es war “der fremde Gott” の Es が植民制度 das Kolonialsystem を指すとすると、植民制度はヨーロッパ起源の制度、つまり外国の制度ではありませんから、植民制度を外国の神とすると意味がとれなくなるでしょう。植民制度だから、外国と関係あるのではないか、と思って「異国の神」と訳したのかもしれませんが、植民地の神をわざわざ本国にもってきて祀ったとは考えられません。逆に、植民制度こそ、現地の神々を徹底して破壊しキリスト教への改宗を迫ったのではないかと思います。もっともディドロ『ラモーの甥』の出典は見ていないのであくまで推察です。ただこの註はマルクスがつけたものではなく、後世の編集者がこの言葉はここにあるよと補足しただけのもので、解釈するうえで決定的な意味をもつとは思えません。

    Götzen は「神々」でもよいのですが「偶像」のほうがピッタリでしょう。これまで見かけなかった「神」(単数)が「偶像」die Götzen (複数形)を破壊したのです。そして唯一の神 der Gottとして、貨殖こそが唯一の信仰の目的だと宣言したのだ、と読むべきでしょう。

    因みに次の英訳書では“der fremde Gott”が“the strange Gott”とちゃんと訳されています。

    Today industrial supremacy implies commercial supremacy. In the period of manufacture properly so called, it is, on the other hand, the commercial supremacy that gives industrial predominance. Hence the preponderant rle that the colonial system plays at that time. It was “the strange God” who perched himself on the altar cheek by jowl with the old Gods of Europe, and one fine day with a shove and a kick chucked them all of a heap. It proclaimed surplus-value making as the sole end and aim of humanity. (Translated: Samuel Moore and Edward Aveling, edited by Frederick Engels; 1887)

コメントする

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください