世田谷市民大学2024第3講

現代の貨幣:金融の膨脹

はじめに

前回は、一口に資本主義といっても、その資本主義は変わる、いろいろな資本主義があるのだという話をしました。今回からいろいろあるなかで、「現代資本主義」とはどんな資本主義なのか、その特徴を四つのトピックに絞って考えてゆきます。

まず貨幣と金融の問題からはじめましょう。与えられた時間は1時間半ですので、30分ずつに分けて、三つのトピックにまとめてみます。ちゃんとした厳密な説明をすることはできませんが、通説とは違う最新の内容をします。

第一のトピックは、現代の貨幣とはそもそも何なのか、という問題です。みなさんは貨幣なら日々使っているわけですから、貨幣ってコレでしょうと指さすことはできるでしょう。しかし、そのコレって何なのか、コレもアレもソレも貨幣だとしたら、それらはどう一般的に説明したらよいのか、という問題です。この種の問題に答えるのが理論の仕事です。第二のトピックは、いま指さしたその貨幣がどのようにそこに存在するようになったのか、その出所(でどころ)を分析してみたいと思います。人が受けとると思ったから受けとったといった話ではなく、どうやってこの世に現れるのか、という問題です。第三は貨幣と国債との関係です。これはまさに今現在の問題になります。

貨幣と金融の問題は複雑で体系的に論じるにはそれなりの準備が必要ですし、バラバラなトピックとして扱うにしても三つでは少なすぎます。たくさんの島々のうちの三島を訪れてエーゲ海を語るようのことになりますが、できるだけ現代の貨幣・金融の本質に近づきたいと思います。自分の専門に近い分野になると知らず知らずに「いい加減なことは言いたくない」というプレッシャーを感じ、難しい話になりがちなので、今回は「細かいことはさておき…」という逆プレッシャーをかけて話します。もしプロの方がいれば、細かいことはまた後で…ということでご勘弁ください。

貨幣の正体

どれがほんとの貨幣か

現代の貨幣を考える準備として、そもそも貨幣とはなにか、について述べておきます。「貨幣について、そもそも論など無意味だ。この問いがアレコレわけのわからない混乱をうむのだ。Money is Money. 人々が“貨幣だと思うもの”が貨幣なのだ。それ以上でもそれ以下でもない。終わり!」という人がけっこういます。

「まあいいでしょう。では、あなたが“貨幣だと思うもの”ってなんですか?」「1万円札?」「100円玉?」「銀行預金?」「クレジット・カード?」「交通系ICカード?」「いや現代じゃスマホのアプリ?」「ビットコイン?」いろいろなのがありますが、みんな、対等な Money is Money かというとちょっと違うのはすぐわかります。

クレジット・カードなどは、銀行預金から派生した支払のツールです。もとになる銀行預金は即座に引きだせるという意味で日銀券とほぼ同格です。銀行振り込みなどすると手数料をけっこうとられたり、振り込みまでに時間がかかったりします。万が一振り込み期間中にに銀行が倒産したりすると、振り込んだつもりでも支払は無効になったりするわけで、完全に同じかというといろいろ細かい違いはあるわけです。

ビットコインにいたっては、原油や小麦などと同様、商品取引所で売買される商品であって貨幣ではありません。ビットコインが現物取引なのに対して原油や小麦は先物取引だろうとか、細かいことをいいだせばキリがないのですが。たしかに「証券取引所や商品取引所で売買される商品は、そこで決まる価格でなら即座に売れるので銀行預金を引きだすのと変わりないじゃないか」といわれれば、そのかぎりでは同じです。商品といってもただの商品ではなく金融商品です。ただ銀行預金のような振り込み機能はついていなかったり、これもいろいろ細かい違いはあるでしょう。

100円玉は、法律上、20枚までしかまとめて支払に使えない補助貨幣です。こうした制限のない日銀券とは格が違います。端数を埋めるためのメダル、トークンにすぎません。今の日銀券は、法律上、どんな額の債務でも清算できる能力をもっています。たとえば100万円の債務を支払うには、100万円分のビットコインや100円玉1万枚なら拒否できますが、1万円札100枚を渡せばOKです。それでも相手が受取を拒否したら供託するという手もあります。借地、借家の場合など、地主、家主が値上げをしてきた場合にも、裁判期間中、地代家賃を供託しておけば債務不履行による立ち退きを免れることができます。日銀法46条に日銀券は「法貨として無制限に通用する」と規定されている通りです。

要するに、Money is Money といっても、みな同じMoneyなのではなく格が違うのだということになります。中心に位置するthe Moneyは、今日では日銀券、中央銀行券です。そしてこの日銀券を即座に引きだせる銀行預金もほぼ同格の貨幣とみなされ預金通貨とよばれたりします。これには利子が付くかどうかとか、いろいろ細かい違いもありますが、本質的には法貨とほぼ同格の貨幣群が取り巻いているのです。こうした格の違いを無視して、デジタル通貨とか仮想通貨とか、受渡の方法の新奇さに目を奪われ騒ぐのはあまりにチャイルディッシュです。

交換か売買か、いや値づけ

こうした最終支払能力をもつ、“ほんとの貨幣”の役割はなんでしょうか。

P君:「貨幣の役割でしょう、それは交換手段にきまっているじゃないですか。」
Q君:「交換手段って?」
P君:「商品Wと別の商品Wを直接交換しようと思っても、お互い欲しいものどうしの組合せにならないので、貨幣GW − G − WというようにWWを交換する手段になるのです。」
Q君:「でもWWと交換したのなら、相手からみればWWと交換したことになるはず。ところが、WWじゃなくて別のWに変わるのだから“交換”じゃないのではないですか?」
P君:「そういえば、小幡というひとがそういうことをいっていましたね。“『資本論』には「商品流通」W − G − Wっていう式がでてくるが、あれはおかしい、商品Wは買う商品Wがきまって、それを買うために売られるのはない。売られたところでW − G で終わるので、G − Wは別の過程なのだ”というのですよね。」
Q君:「“ドイツ語には売買という一単語がないから、交換といってしまったのだ。商品は売買されるもので、交換されるものではない”ともいっていました。私には正直、何がいいたいのか、わかりませんでした。」
P君:「無理に『資本論』を批判しているみたいな感じで、私も??でした。」
Q君:「…でしょう。私もよくわからなかったので、このまえちょっと会ったのでこの点について、“要するに何がいいたいのですか、結論は?”って直接質問してみたのです。そうしたら“貨幣を媒介物に還元してしまうのがマズいのだ。貨幣は、売ったあと、資産として保有される側面を第一に考えなくてはいけないのだ”という答でした。
P君:「それで、理解できましたか?」
Q君:「いや、さっぱり…だいたい“資産なのか、流通手段なのか、どっちが本質だ”みたいなことを理論の人はやかましくいうけれど、“両方だ”といっておけばよいのじゃないでしょうか。交換手段はマズいとしても、流通手段だけを重視するのじゃなく、貨幣には売らずにもっておく資産としての役割もある、現代の貨幣を理解するうえで、両方とも大事なのだ、という話でしょう。」
P君:「じつは、私も小幡さんとちょっと話すことがあり、“けっきょく、貨幣は流通手段中心にみるのではなく、蓄蔵手段中心にみるべきだ、ということなんですね”といったのです。そうした“いやいや貨幣には、流通手段や蓄蔵手段(資産としての)に先だって、もっと大事な役割がある”というのです。」
Q君:「なんですか。それは?」
P君:「商品に値段をつけられるようにする役割だ、といっていました。」
Q君:「値段って交換比率のことじゃないんですか?」
P君:「“いや違う、商品が他のすべての商品との間で同等である価値を表現したものだ”というのです。“価値を貨幣量で表現したものが価格、つまり値段で、価値のほうは値打というのだ”といっていました。」
Q君:「例の価値ですか?!その話はあまり深入りしたくありません…」
P君:「私もそういったのですが、“現代の貨幣を理解するヒントになるから、そういわずに付き合え”というのです。」
Q君:「どんなヒントになるというのです。」
P君:「“たとえば、リンゴの交換比率は、バナナとの比率、チーズとの比率、….と何種類もあるだろ、でも、価格はどの商品も共通で何円という一つだろ”というのです。“リンゴが他の商品と同等であるという性質が価値なのだそうで、この価値の量を表したものが何円という価格なのだ”というのです。」
Q君:「値段をつけるというのは、要するに、すべての商品と等しい潜在的な価値を貨幣で評価して表示することだといいたいのでしょうか?」
P君:「たぶん…ともかく“貨幣の第一機能はこの値づけを可能する役割で、これはほんとの貨幣にしかできない”というのです。“いろんなタイプの貨幣があるようにみえても、値づけの基準になれるのは一種類で、それが最終決済能力をもつ貨幣、つまり日銀券だけだ”というのです。“ビットコインじゃ値づけはできないだろう”といっていました。」
Q君:「納得できましたか?」
P君:「よくわからないといったら、小幡道昭『価値論批判』(2013)の第1章だけでよいから読んでみろ、といわれてちょっと覗いてみたのですがトホホでした。もっと若い人が書いた本ならと思って、勧められた江原慶『マルクス価値論を編みなおす』(2024)もみたのですが、もっとナンカイでした。」
Q君:「やはりね。ま〜数学にも整数論とかあって、そもそも数とはというような議論になると、アタリまえの足し算引き算がナンカイな理論になるということはありますから…」
P君:「“値づけに使える貨幣と使えない貨幣がある。現代の貨幣は、見た目、いろいろな種類のものが氾濫しているけれど、この値づけするという第一機能を果たせる中心貨幣は一つしか存在しないのだ。現代の貨幣でもこの原則は変わらないのだ。”と熱く語っていました。」
Q君:「自然数 0,1,2,3,…はこどもでもわかるが、ここに素数という不思議な並び方としている数が潜んでいる。価格という見える世界の背後に価値という見えない構造が潜んでいる、とか…」
P君:「それはどうかわかりませんが、ともかく、現代の貨幣を理解するには、目に見える新奇な現象を追い求めるのではなく、貨幣とはそもそもなにか、固定観念に縛られず、柔軟にその概念を広げてゆく必要があるのだろうな…という、そんな気がしてきました。」
Q君:「でも、それって、小幡にまたダマされたのかも….」

鋳貨か紙幣か

貨幣とはそもそも何か、という理論の話は一朝一夕で片が付くとは思いませんが、貨幣はコインか紙幣かといった歴史の話なら、もうちょっと見通しがよいでしょう。そこでみなさんにお聞きします。

  1. 本来の貨幣は金貨幣である。日銀券は不換銀行券であり、金と同格だった兌換銀行券とは異なり、不完全な貨幣である。

  2. 本来の貨幣は日本銀行券のような紙券である。金貨は、金に対するいわば迷信に由来する歴史の遺物である。

本来の貨幣は、金鋳貨か紙幣か、これは目に見える世界の話なのでむずかしくはないはず。さて、1.と2. どっちが正しいのでしょうか。

歴史的にみると

貨幣はもちろん古い時代から存在するわけですが、ここでは資本主義と貨幣の関係に絞って話します。『資本論』では「金銀は生まれながらにして貨幣ではないが、貨幣は生まれながらにして金銀である」(Werke,23,S.104)とか「私は、本書のどこでも、ことを簡単にするために、金を貨幣商品として前提する」(ibid,S.109)と述べられており、マルクス経済学では伝統的に、資本主義のもとで貨幣が本来とるべきすがたは金貨幣であると考えられてきました。しかし、第1講でみたように資本主義の成立が15世紀末にまでさかのぼるとすれば、金貨幣の成立史とのズレが目だちます。

歴史をさかのぼれば、金貨は銀貨や銅貨などとともに古くから存在してきたのですが、英国における制度としての金本位制(金鋳貨本位制)は、1816年の貨幣法で\(1oz\,tr = £
3.17s.10
\frac{1}{2}d.\)
の1ポンド金鋳貨を造幣し、自由鋳造を認め、唯一の無制限法貨としたことにはじまるといわれています。貨幣の単位名を金量で法定するという意味の金本位制は、1717に当時造幣局長官だったアイザック・ニュートンのもとで上記のように定められたといわれていますが、これは重さや長さの単位の法定と同じで、実際の法貨としての金鋳貨はそれからおよそ100年後ということになります。“oztr”はトロイオンスと読み貴金属の重量を表す単位で31gちょっと、金の比重が約19g/cm3といいますから1 oztrの金の体積は約1.5cm3つまり1センチ角のサイコロ1個半ということになります。Webで検索したらカナダの造幣局の1オンス メープルリーフ金貨が現在40万円ちょっとで売られているようです。

イングランド銀行の創立は1694年で兌換銀行券を発行していたのですが、ナポレオン戦争の時代に兌換停止があったりして、いろいろなことがあるのですが、1844年のピール条例で金準備制度が定められ、イングランド銀行券も法貨としての性格をもつようになったわけです。自由主義段階のイギリスが金本位制に根ざしていたといわれるのはこの19世紀中頃をイメージしてのことであり、『資本論』もこれを念頭に書かれています。ただこの時代、周辺諸国はなお銀本位だったり金銀複本位だったりいろいろだったようで、ドイツが金本位制に移行したのは普仏戦争に勝利した後の1871年、敗戦国のフランスも1876年にイギリス流の金本位制に移行し、日本も日清戦争後の1897年に実質的な金本位制を敷くことになります。国際金本位制の成立は、自由主義段階ではなく帝国主義段階にはいってからのことだといわれています。

周知のようにこの国際金本位制は、第一次大戦で中断された後再建されますが、すぐに大恐慌によって崩壊し、各国は管理通貨制に移行しながら第二次世界大戦に突入するわけです。大戦後は、各国通貨をドル為替に上下1パーセントの枠内に固定するブレトンウッズ体制として国際通貨体制が確立されることになります。1 oztr = $35で、たとえば邦貨なら$1 = ¥360と間接的に金量に固定されるわけです。金為替本位制というようです。そして1971年の金ドル交換停止、短命なスミソニアン体制をへて最終的に1973年からの変動相場制へと移行し現在にいたるのです。金本位制の歴史はWebで検索すれば多くの記事がでてきます。ともかく、ざっとふりかえってみても、国内で金鋳貨が流通していた期間は比較的短いのに対して、国際的にはかなり最近まで貨幣は金との結びつきを保ってきたことがわかります。

固定相場制の時代

ということで、あらためて、本来の貨幣は金鋳貨なのか、紙券なのか、どうでしょうか。

高度成長期になってもなお、本来の貨幣は金なのだという主張は、現代資本主義論を論じる一つの有力な立場として維持されていました。戦後の高度成長期、金鋳貨はもちろんはるか昔の話でしたが、国際的にはIMF体制の固定相場制がその好調な基盤を提供していたとみなすこともできたのです。そして、60年代後半にインフレーションが昂進しやがてポンド危機・ドル危機が生じるようになると、こうした通貨危機は辛うじて保たれた本来の貨幣との結びつきとで論じられたのです。間接的であれ金との結びつきがインフレーションに歯止めをかけてきたのだという主張もそれなりの説得力をもっていました。

大内力『国家独占資本主義論』(1970年)は私が大学に入学した年にでたのですが、実は高校生2年の時、東大駒場祭で大内先生がこの本の第7節の「腐朽化」について話すのを友達に誘われていって聴く機会がありました。20名くらいがやっと入れるゼミ室のようなところだったと朧気に記憶しています。それはともかく、本来の貨幣は金であり、これから逸脱した現代の貨幣は金融を膨脹させ不安定と混乱をもたらすのだというタイプの資本主義批判は、変動相場制に移った後も繰り返されることになります。本来の貨幣からの逸脱は資本主義がもはや資本主義であるギリギリのところまで追い込まれている証しだという論法で、資本主義の終焉論の一つの典型です。

変動相場制の時代

ところが変動相場制に移行して、かれこれ50年あまり、たしかに日本のバブルやリーマンショックなど、混乱は繰り返されるわけですが、それでも資本主義的発展は続いているわけで、金貨幣から離れたら資本主義は終わるといえないようにもみえます。逆に1929年の大恐慌からして、金貨幣にとらわれていたがために長い不況を招き戦争への道につながっていたのだといった主張が評価されるようになります。

こうした立場を徹底してゆけば、紙券のほうこそ本来の貨幣であり、金貨幣は未発達な貨幣であるという理解につながります。極端にいえば金貨幣はいわば未開社会のアニミズムの名残でしかない、あるいは昔の経済学者の誤った妄想にすぎない、ということにもなります。少なくとも、『資本論』は物々交換から貨幣が発生するといっているといった誤解ないし思い込みも含めて、金貨幣こそ本来の貨幣であるという「通説」を批判するさまざまな見解が簇生しているのが現状ではないかと思います。

こうした貨幣観にたって実際の経済政策のレベルでも、不況対策としてとくに国債に依拠した財政支出拡大が可能であるという主張が注目されるようになっています。この貨幣と国債の関係については後で述べることにします。中味に立ちいると、実は千差万別の観があり一口に語ることはできないのですが、ただいずれにせよ、本来の貨幣が金貨幣ではないという「ない」で一致する主張が強まっているのはたしかです。

変容する貨幣

しかし考えてみると、貨幣をめぐる歴史的現象に対して、「本来の貨幣」は金貨幣か、紙券か、どっちなのか、という問題の立て方にそもそも難点があったのではないでしょうか。歴史を遡れば、貨幣(的なもの)の使われ方は実に多種多様です。単一の起源 origin があるとは思えません。ある説をたてればいくらでも反例をあげることはできます。金貨幣、あるいは金属貨幣が、貨幣の起源だといえば、そうでない事例はいくらでもあげることができます。いや、租税のようなかたちの一種の債権債務関係が起源だといえば、そうでない事例は山ほどでてきます。金貨幣、金属貨幣と、紙幣、信用貨幣など、それ以外の貨幣と、そのいずれが先に発生したのか、という問いは解答不能で無意味なものです。

歴史的な現象をみるかぎり、使える貨幣、目に見える貨幣は、いろいろなかたちをとります。しかし、それでもそれらは、人それぞれに“貨幣だ”と漠然と考えられているのです。そうでなければ、どっちが「本来の貨幣」か、などという議論にはなりません。この漠然とした「貨幣らしきもの」を「貨幣なるもの」として、だれもがわかるように定義することが理論の仕事です。このように定義された「貨幣なるもの」が、それぞれの時代が課す条件によって、金貨幣となったり、現代の不換銀行券になったりするわけです。「本来の貨幣」というと歴史的な起源 origin を連想させるので、この「貨幣なるもの」を「コア貨幣」とよぶことにします。この抽象的な貨幣の概念はどのように組み立てたらよいのか、ともかくコア貨幣をもとにその変容として現代の貨幣を捉えようとする新たな試みが、たとえば前掲江原(2024)等など、少しずつ登場しはじめている状況です。ただ純粋な理論にこれ以上立ちいると難しくなるので、ここでは、「貨幣は変容する」という観点に立ったとき、目の前の日銀券がどのようにみえてくるのか、考えることで新しい理論を組み立てることの必要性を多少なりと感じてみたい思います。

日銀券を理解する

出口と入口

今日のコア貨幣は日本でいえば日銀券です。円で価格をつけるということは、日銀券をもってくればいつでも売ると宣言することです。値づけに使われているのは、支払債務の決済が無条件に可能となる日銀券で、日銀券の額面で商品の値打ちは表示されるわけです。この日銀券は、だれかの手からだれかの手に、日々、時々刻々、持ち手を変えてゆきます。私たちはたいていこのような持ち手変換の局面しかみていません。だから、人が受けとるから自分も受けとるのだ、といった程度のことしか考えつかないのです。

しかし日銀券のカレントはエンドレスではありません。このカレントは商品のサーキュレーションとは違います。日本語だと両方とも「流通」になってしまうのですが、実はここに大きな問題があります。詳しく知りたければ小幡『経済原論』56頁以下をご覧ください。しかし、カレントにもやはり、始めもあれば終わりもあるのです。日銀からでて日銀に戻るのです。

ばら撒けるのか

ではどうやって日銀からでるのでしょうか。「それは日銀が地下の輪転機で刷って…」(刷るのは独立行政法人印刷局です。出版社が自分で印刷しないのと同じです。それはともかく)「それから?」「ばら撒いた。」「そんなバカな!」「いや、たしかに日銀がばら撒くのじゃないけど政府がばら撒くのだ。」(実はここに飛躍があります。考えてみてください。)「どうやって?」「ウム….」こんな愚かなことは言わないとは思いますが、それでもなんとなく“ばら撒く”のだろうと思っている人は一定数います。

さらに質問してみましょう。「でもばら撒いている現場を見たわけではないでしょ?」「そりゃそうだが、ばら撒いているみたいなものだといっただけ、一種の比喩だ。杓子定規の石頭じゃ話にならない。」けっこう逃げ腰になってきました、もう一押し。「比喩…けっこうでしょう。でも比喩と錯誤は紙一重。“ばら撒く”というのは、紙一重の差で錯誤なのです。」追い詰めると苦し紛れにホンネを吐露します。「だってタダの紙切れなのだから…」。こうした人は、実は逆説的に「本来の貨幣は金貨幣だ」という観念に囚われているのです。「金貨幣は金がなければつくれない、だからばら撒くわけにはゆかない。でも紙幣はほとんどコストがかからないのだからタダ同然、だからばら撒いたも同然なんだ…」つまり比喩だ、同然だと杜撰な飛躍を繰り返して一生懸命思い込んでいるだけなのがわかります。(注意:日常の会話で相手をこんなふうに追い詰めるのはやめましょう。みなさんはオトナですから充分心得ていると思いますが人間関係を破壊します。老婆心ながら。)

バランスシート上の日銀券

正解を知るには日銀の毎旬営業報告をみるのが手っ取り早いでしょう。Webでアクセスしてみてください。昔は「資産」が大文字のTの左側に「負債・純資産」が右側にヨコに並べて表示されていたのですが、いつの頃からか、こんなタテのかたちに変わっていました。ちなみに「純資産」のところも昔々は「資本」だっと記憶しています。いわゆる貸借対照表、バランスシートです。会計学では、左側を「借方」「デビット」といい、右側を「貸方」「クレディット」というそうで、総額が左右で一致しているはずです。752, 846, 874, 490は約750です。最初のカンマが兆 trillion 円です。日銀券はどこにでてくるかというと負債のところで、「発行銀行券119, 337, 175, 498」です。約120兆円が市中に存在する日銀券の総額です。

日本の人口を1億2000万人とすれば一人あたり約100万円の日銀券をもっているということになります。4人家族なら400万円、銀行預金ならこのくらいあっても驚きませんが、ナマのかたちでとなるとちょっと???です。どこにあるのか?金庫を開けたら札束がびっしり、なんていう会社、あり得ません。

銀行だって日々の引出に応じる最低限の日銀券しかもっていません。必要以上の日銀券はどうするのかというと、すぐに日銀に預金します。それが「当座預金 549,420,727,599」千円です。当座預金といっていますが、リーマンショックのあと2008年でしたか、そのころから基本的に付利です。マイナス金利というのは、この当座預金の一部に適用されるものでした。銀行は利子を生まない日銀券を自分の金庫やATMに残しておくより、とりあえず僅かとはいえ利子が付く日銀に預金します。だから、民間企業も銀行も、こんな大量の日銀券をもっていないのです。

一万円札1枚の厚さが0.1mm として10万円で1cm, 100万円で10cm, 1000万円で1m, 1億円で10m, 100億円で1km, 1兆円で10km, 120兆円で1200km! 東京から大阪まで行って戻ってくる長さの120兆円、どこに実在しているのやら、だれがもっているのやら、ちょっと不思議です。

日銀に預金する

それはともかく、日銀券が出入りするのは市中銀行の預金の引出・預入でしょう。とはいっても、日銀券がそんなに頻繁に移動しているようではありません、ここを見張っていたかぎりでは。ただいずれにせよ、市中銀行は裏側で日銀とつながっていて、日銀による預金→市中銀行の日銀預金(+) → 発券残高 (−)、逆に、預金引出→市中銀行の日銀預金(−)→ 発見残高 (+)となるわけです。要するに、市中銀行は余分な日銀を預金するのです。

もちろん、市中銀行も日銀券をいくらかは手元に保有しているのですから、100万円引きだしたら、その100万円だけ日銀当座預金が取り崩されるとはかぎりません。100万円預金すれば日銀当座預金が同じ額だけ増加するわけでもありません。ただ、日銀券は日銀に対する直接の債権であるのに対して、市中銀行に対する預金は、市中銀行の日銀当座預金というかたちで、日銀に対する債権に– 間接的にですが!– つながっているとみなすことができるのです。日銀からみれば、日銀券も「市中銀行の日銀当座預金」も両方とも「負債」です。

市中銀行に預金する

民間企業も、最近では個人も、余計な日銀券があればとりあえず銀行に預金するのではないでしょうか。銀行預金が口座振り込みで支払に広く使えるようになったからです。利子は限りなくゼロでも、振り込みサービスがタダだったときはとくにそうでした。最近、このサービス料金が高くなり、銀行の収入源になっているようです。銀行も利鞘で稼ぐ時代から送金サービス業者になってしまったのか?と思うほどです。

こうして銀行預金が「預金通貨」としての性格を強めれば、預金から日銀券を引きだして手交し、またこの相手が銀行に預金するといった回り道をする必要はなくなり、高額取引では日銀券の出番はなくなってゆきます。これはここ二、三十年ほどでしょうか、私のように銀行におよそ縁のなかった者も、知らず知らずのうちに銀行振り込みに馴らされたにように思います(…なのに120兆円も日銀券が実在するのがどうも不思議?)。

いずれにせよ要するに、法貨は日銀券ですが、即座に銀行券になりうる預金も、ともに日銀に対する債権で支払=負債の決済をしているという点では区別する必要がない貨幣、つまりコア貨幣だということになります。

ここまでで日銀券は、人が受けとると思うから自分も受けとるといったかたちでぐるぐる回っているだけではなく、出口と入口があるという話をしました。日銀に戻ってきたクシャクシャの日銀券は裁断され廃棄されるはずです。まさか地球釜で再生するなんていうことはもうしていないでしょうが、日銀当座預金から市中銀行が引きだす日銀券の多くは刷り立てのピン札になっていると思います。以上は、すでに存在する日銀券の出入りの話です。

日銀と市中銀行

以上のことがわかれば、日銀券がどのように新たにこの世に生まれでるのか、つまりその量が増えるか、もわかります。日銀券と銀行預金は同格であり、その総量は市中銀行の貸付で増加します。貸付で預金が増えて、ここから先ほどみたルートで日銀券が引きだされるのです。

市中銀行のバランスシートは全銀協のホームページからダウンロードすることができます。基本は日銀のバランスシートと変わりありません。市中銀行の資産の部の「現金預け金」のうちの「預け金」の総計が、日銀の負債である当座預金になるかたちでつながっています。市中銀行が内部にもっている日銀券は、資産の部の「現金預け金」のうちの「現金」でしょう。いろいろ細かい話があるようでゴチャゴチャしていますが、全部無視して思い切り単純化してみます。

日本銀行(2023)

国債 580兆 日銀券 120兆
ETF等 50兆 日銀預金 550兆
貸付金 110兆 その他 67兆
その他 10兆 資本 13兆
資産 750兆 負債・資産 750兆

市中銀行のかたまり(2023)

日銀預金等 400兆
国債等 270兆 民間預金等 1100兆
貸付金 700兆 その他 340兆
その他 100兆 資本 60兆
資産 1500兆 負債・資産 1500兆

市中銀行の貸付

日銀券が市中に出入りするのは銀行の預金を通じてです。銀行の貸付は預金を設定することでおこなわれますから、日銀券が追加的に増えるのは銀行の貸付によることになります。このとき、貸付額が100万円でも預金は95万円にしかならず、この差額5万円が、もし100万円が期日にちゃんと返済されれば、銀行の利益になるわけです。タダでは貸さない、当然のことです。借り手が支払のために日銀券95万円が引きだされれば、すでにみたようにこの銀行の負債である預金が減ると同時に、資産である日銀券95万円が減り、さらにそれを補うためにその銀行が日銀当座預金から減った95万円の日銀券を引きだせば、発券残高が95万円増え日銀当座預金が95万円減少することになります。つまり、全体をとうしてみると、貸付をおこなった市中銀行の資産のなかで、日銀当座預金95万円が100万円の貸付債権に変換されたかたちになります。支払に使用された95万円の日銀券が別の銀行に預金されれば、その銀行では逆の過程を通って日銀に戻ってくるので、発券残高が95万円減りその銀行の当座預金が95万円増えるでしょう。

同じ銀行に預金したらどうなるか、とか預金されずに借り手・貸し手のもとに日銀券がとどまったときはどうかとか、細かい話はいろいろありますが、原理は単純です。貸出によって預金通貨が生まれる、預金通貨の引出によって日銀券は世の中にでてくる、これが基本です。

銀行はタダで貸しません。危ないところにももちろん貸しません。期日までに元本はもとより利子もちゃんと支払える相手に貸すのです。借りるほうは、いま手元に貨幣がないから借りるわけですが、期日には貨幣になる何かがあるから、つまり期日までには売れているはずの商品が存在するから、銀行は貸すわけです。これから商品の販売によって手に入るべき100万円を貸付債権(銀行からみれば「資産」)として、これに対応して95万円という預金(銀行からみれば負債)を設定するのです。バランスシートの左と右、借方と貸方、デビットとクレディット、債権と負債の両建てです。一方的に預金だけを与えるわけではありません。

預金の裏にあるもの

95万円の預金の裏側には100万円の確実な債権という資産があり、この債権の裏側には期日までに確実に売れるいま存在するか、あるいは少なくとも、借りた貨幣で生産され販売される商品が確実にあるか、が前提となります。これを無視して無謀な貸付をおこない、不良債権が銀行の資本(純資産)を超過するようになれば、銀行は自己の負債である預金が資産を上まわることになり、取付 bank run が発生し破綻します。確実な貸出先が増えないかぎり、貸出による預金は基本的に増加しません。

ただ、どこまでが不良債権かにはグレーゾーンがあることは、バブル崩壊後に目撃したとおりです。銀行が追加貸出を停止する不良債権が顕在化する、利払い分を追加で貸し出し、元本分の借り換えを許すかぎり、債権の焦げ付き(回収不能)は防げます。銀行が見放さないかぎり、相手は倒産しない。しかし、こうしてズルズル不良債権を抱えていると、銀行の利潤が減少し自分自身が経営悪化に陥り、やがては預金引出を招き、破綻しかねない結果になる。痛し痒しです。1990年代にみた長引く不良債権処理と大銀行の整理統合の悪夢です。

繰り返しますが、銀行券が“タダでばら撒かれる”という人は、この原理がわかっていないのです。日銀は民間に直接銀行券を渡すことはありません。市中銀行を通じて世の中にでてきます。

ただ注意!市中銀行は日銀券の単純な通路ではありません。日銀券を引きだすことができる預金を独自の貸付を通じてつくります。日銀券(をいつでも引きだせる日銀当座預金)を貸すのではありません。95万円の預金(負債)を負うことで、100万円の貸付(債権)を資産としてつくりだします。この新たにつくりだされた銀行預金が —日銀券として引きだされて使われようと振り込みに使われようと — 債務の支払というコア貨幣の役割を果たすのです。つまり、市中銀行も預金のかたちでコア貨幣をつくれるのです。

さらに注意!ただし、それはちゃんとした貸付をするかぎりにおいて、です。まともな借り手、利子が払えるだけの収益を確実にあげられる借り手がいなければ、貸付→預金 というかたちで、コア貨幣の量を増やすことはできません。ということは、コア貨幣を増やす潜在能力をもつのは借り手の資本のほうだ、ということもできます。むかし真正手形主義というのがありましたがそれに近いことになるのかも。

いくら銀行が日銀預金があまっているから、それを一般の借り手の貸付に転換しようとしても、危なっかしい借り手ばかりじゃ、やはりそれはできない相談だということになります。日銀券がばら撒けないのと同じで、市中銀行も勝手に貸付で預金を増やすわけにはゆかないのです。現代のコア貨幣である日本銀行券、あるいは銀行預金については、まだまだ、お話ししたいことはあるのですが、時間がないのでこの講義ではここまでとします。

膨脹する国債

日銀の国債保有

この10年あまりで日銀のバランスシートは大きな変貌を遂げました。最大の変化は、何といっても保有する国債が大きく増加し、ほぼこれに見合う額の市中銀行の当座預金が積み上がったことです。ここではこの現象だけに焦点をあてて、現代の貨幣について考えてみます。

参考までに、2012年のバランスシートを極端に単純化してつくってみました。2024年のものと比べてみてください。「資本」や「貸付金」は2014年を外挿したもので、全体としていい加減なものです。ごくごく大雑把に概数を抑えておきたかっただけです。ETF
や RIET などには立ちいりません。Webなどで調べてみてください。

日本銀行(2013)

国債 90兆 日銀券 87兆
ETF等 1.6兆 日銀預金 47兆
貸付金 26兆 その他 18兆
その他 40.4兆 資本 6兆
資産 158兆 負債・資産 158兆

市中銀行のかたまり(2013)

日銀預金/券 50兆
国債等 250兆 民間預金等 670兆
貸付金 500兆 その他 120兆
その他 240兆 資本 50兆
資産 940兆 負債・資産 940兆

国債の発行額は、ざっとみてこの期間、400兆円くらい増加するのですが、ほぼそれに対応する金額だけ、日銀の保有する国債が増加し、それに対応する額だけ市中銀行の当座預金も増加したのです。日銀が国債を直接引き受けることは禁止されているのですが、市中銀行を中心とする金融機関がいちおう競り落とした新規国債を間髪入れずに日銀が購入した結果です。現在市中銀行が保有する有価証券270兆中で国債は80兆円ほど、地方債が26兆円ほどです。要するに市中銀行が保有する分はほとんど変化がなく、10年間に発行された部分がほぼ日銀に吸収され、1000兆円強の国債累積額の半分以上を日銀が保有する結果となったわけです。

国債の償還と利払い

先ほどみた財務省のWebページは国債累積を印象づけ均衡財政策に誘導するためのものだと非難する人もいるわけですが、データとしては正しいと考えてよいでしょう。ざっと眺めてみてわかるように、1973年のオイルショック後の発行されたピンクの赤字国債は、1990年頃に一度なくなるのですが、1996年の住専国会で不良債権処理に7000億円の税金投入をきめたあたりから再び発行されるようになり、小泉政権のときには均衡財政の目標も利払い分を除いたレベルに引き下げられ、リーマンショック、東日本震災、コロナショックと「100年に一度」を連発するなかで毎年30兆、40兆円の国債発行が常態化することになったようです。財政均衡が達成されたとしても、国債が償還され累積額が消滅するには長期間を要するわけです。況んや均衡財政といっても、利払分は国債発行でまかなうかたちのものであれば、その分だけ国債は累積してゆきます。

2024年度の一般会計122.5兆のうち、国債による収入が35.4兆、これに対して、国債の償還に17.3兆、利払いに9.7兆が計上されています。つまり真水は35.4-17.3-9.7=8.4兆ほど、つまり35.4兆ほど国債残高が増えているのに、社会保障費や防衛費などの増額など使えるのは1/4ほどの8.4兆になっています。国債残高が累積しあるいは長期利子率が上昇すれば、真水をえるために必要な新規国債発行額はどんどんふえてゆきます。過去を無視すれば、赤字国債354兆が追加的に使えそうに見えますがそうはゆかないわけです。8.4兆円の真水をえるために35.4兆円の国債を新規に発行し、これをほぼ日銀が吸収するという関係が十数年続いているわけです。仮に利子率が変わらないとしても、来年はおなじ8.4兆円を確保するには,残高増にようる利払い額の増加+満期を迎えた国債額の増加によって、今年の35.4兆円を上まわる新規発行が必要になります。このどんどん増額するう新規国債を、いままでどおり、発行市場で消化した後すぐに日銀が買い取り続けることが可能だとは思えません。日銀に支払われる国債利子は、日銀の利潤となるので、その年の剰余金として国庫に還流させることはできるかもしれません。しかし、日銀の保有する国債が幾何級数的に膨らむとき、それとともに増加する日銀当座預金に支払われる利子部分は国庫に還流しなません。いずれにせよ、幾何級数的に増大する国債残高が金融市場全体に何の影響も与えないとは考えられません。

目詰まり

ただ、今回ここで考えてみたいのは、国債が限度なく発行できるかかどうかという問題ではありません。いちおうできると仮定しても生じる、現代の貨幣に与える影響です。この10年間、日銀は国債保有を増やしながら、同時にその当座預金を増やしてきました。銀行券のほうはせいぜい1.5倍ほどですが、当座預金のほうは5倍くらいにはなっています。ところが、全銀協のホームページを見ると、2013年12月の全国銀行116の貸出金はおよそ440兆円、2024年9月末の全国銀行110の貸出金は590兆円くらい、市中銀行の貸出金の増加にはほとんどつながらなかったようです。市中銀行は増加する負債側の民間預金を資産側の日銀当預の増加でバランスさせ、0.1パーセントの預金利子を稼いでいたのです。負債側の預金利子が0.01パーセントくらいですが、これで確実に利鞘がえられたので、コストをかけて優良な借り手をみつけるという銀行本来の役割がスポイルされたようにみえます。

「できること」と「できないこと」

日銀と市中銀行全体を一体のものとして、このザ銀行が銀行券と預金というかたちで、現代の貨幣を形成していると考えると、ザ銀行の内部でどんなに当座預金が膨らもうと、それが日銀券+預金の額を増加させないことに問題があるのです。こうなる理由はすでに述べました。市中銀行にとってちゃんとした借り手がいないからです。低金利にして貸せば、ちゃんとした借り手になるのだという人もいるのですが、それはちょっと甘いのです。バブルのときはこのような理屈は通ったのかもしれませんが、けっきょく高いツケを払わされたことは覚えておいたほうがよいでしょう。

旧いマル経と笑われるかもしれませんが、何度もすがたを変えてつぎつぎに登場する新規な理論のほうも10年とたないようです。高度成長期に隆盛を極めたケインズ経済学、それを批判して台頭したマネタリズムの貨幣理論、それを批判するでもなくいつの間にか定着したリフレ派の理論、さらに財政赤字を積極的意義を説くMMTの貨幣論、いずれもその時どきの政策イデオロギーの要請に応えた暫定的な「理論」という性格のものにみえます。つまらない結論になって申し訳ないのですが、金融は産業を補助するものであり、金融政策で産業をコントロールすることには自ずと限界があるのです。貨幣的な操作で景気を調整できるという主張は、選挙のときには“役に立つ経済学”として歓迎されるのですが、学問的にはどうも怪しいように思えます。

現代の貨幣に関しては、貨幣と資産の関係、市中銀行の資産の役割、預金額の増減と物価変動の関係などなど、まだまだお話ししたいことはあるのですが、時間が限られているので、本日はこれにて終わりということにいたします。

といいつつ、いかにも中途半端なので、ひと言付け加えておきます。中途半端というのは、「貨幣の正体」ということでかなり原理的な話をしながら、それが後半であまり活きていないからです。結論のみなのですが、こういうことになります。貨幣はずっと交換手段だ、流通手段だ、というように、商品のフローを媒介する手段として理論的には説明されてきました。「貨幣の正体」のところで強調したのは、貨幣は何よりもます手段ではなく目的であり、価値のある資産としてもたれるのだという点、そしてその資産の価値を表示する役割を第一の機能としてもつということでした。「日銀券を理解する」で強調したのは、日銀券あるいは銀行預金というかたちをとる現代の貨幣も資産としてもたれているのであり、これらの「債権」が資産たりうるのは日銀あるいは市中銀行のがわの「資産」がしっかりしているからだということです。「膨脹する国債」では実はこういう話をしたかったのです。日銀が累積する国債を次々に吸収し、それに対応して日銀当預が増大すると何が起こるのか。流通手段的な貨幣観をもつ人は、貨幣で買われる商品価格が上昇すると答えるのではないかと思います。しかし、貨幣が第一に資産だと考える者は、資産の価値が高く評価されるようになると考えるはずです。つまり、株式や土地のような転売される資産型商品の価格だけ上昇することになるのだと、この部分の話を本当はちゃんとしたかったのですが、機会があれば詳しくお話ししてみたいと思います。

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