技術の深化:情報通信技術の意味
はじめに
前回は、現代資本主義における労働の変容と拡大について考えてみました。労働とよばれてきたものの内容が大きく変化し境界線が拡張されている現実を捉えるには、人間に特徴的な合目的的活動という根本に立ちかえり、それを構成する諸契機を分析し組み立てなおす必要があるという話をしました。数量化された後の世界をもっぱら対象としてきた既存の経済学の理論では扱いにくい構造変化ですが、これを与件として理論の外に押しだすのではなく、迂遠なようでも変容の基本原理を扱いうる方向に理論のほうをつくりかえてゆくべきだと考え、私なりにいろいろ試してきたのですが、いまだ道半ばです。
こうした変容を理論的に考えようとするとき、技術は資本主義の構造変化を引きおこす要因の代表です。第1講でふれた例の唯物史観の公式では、生産様式の転換を促す要因として生産力の上昇があげられていました。この場合、生産力は連続的な量的変化であり、これがある極値に達すると生産様式の不連続な質的変化を引きおこすという対比になっていました。外部の変化が内部の変化を引きおこすという説明のしかたはたしかにそうなのですが、資本主義そのものの歴史的発展に目を向けてみると、この要因は生産力一般というより明確に技術といったほうがよいように思われます。そして技術という観点から捉えかえすと、それが、生産力のように量的に漸増するものではなく、それ自身、独自の構造をもち、不連続に発展する性質をもっていることがわかります。この講義のテーマは現代資本主義でしたし、この「現代」が何かは第2講でお話ししました。この現代資本主義を規定している一つの大きな要因は、情報通信技術における不連続な発展です。ということで、今回はこの情報通信技術の革新が、今日の資本主義に与えたインパクトについて考えてみたいと思います。
そのため、またかと思われるかもしれませんが、(1)最初に、技術とはそもそも何か、という原理的な問題について考えてみます。(2)次に、情報通信技術とはどのような特徴をもつ技術なのか、歴史を遡って生産技術一般との性格の違いを明らかにしたいと思います。インターネットとコンピュータサイエンスのもつ特殊性にも踏みこんでみたいと思います。(3)最後に、とくに2020年代にはいって、急激な発展を遂げた技術、生成AIのもつ意味について論じてみたいと思います。まだ未知なところが多いのですが、厳密な学問領域での講義とは性格が違いますから、私が実際に利用してみて“こういうことになるのかな”と感じたあたりをそのままお話ししてみます。
技術とは
言葉の問題
この項は読み飛ばしてもかまいませんが、この講義でいちばんお伝えしたい点です。ということで…
“技術が現代資本主義の変容を引きおこしているという場合の、その技術とはいったい何なのでしょうか?”と尋ねると、技術という言葉の意味をきかれているのだなと思い、すぐに辞書をひく人がいます。「物事を取り扱ったり処理したりする際の方法や手段。また、それを行うわざ。」とか書いてあります。「…たり…たり」とか「または」とか「の一種」とか、とにかく辞書はぼかすことが得意で、挙げ句の果ては類語を並べて「…のようなもの」とゴマ化します。多少とも理論をやる人間なら“こりゃダメだ”とすぐにすぐに破り捨てたくなるような代物ばかりです。
ちゃんとした推論をするためには、技術でないものとの間に明確な境界線が引けるような定義を与えないといけないのです。この「でない」という否定形が使えることが、理論たるための必須要件です。「Xが技術である」が真なら「Xが技術でない」は偽にならないと、論理的な推論ができないからです。これを排中律 law of exclude middle といいます。平行線の公理を公理と認めない非ユークリッド幾何学があるように、実はこれを認めない論理学もあるにはあるのですが、そうすることの効果が明らかでないかぎり、排中律はやはり守るべきルールです。技術であるようなないような、そういう中間的な存在を許すと厳密な推論はむずかしくなります。自然科学に比して、経済学をはじめ、社会科学の場合、学問的な用語の定義を与えずに、日常の言葉づかいをなんとなく援用してきたところに根本的な問題があるように私は思っています。
とはいえ、人間の社会現象を扱うとなると、日常の言語活動と隔絶した別空間を設定して、その内部で厳密な推論ができればよいと簡単にすませぬこともたしかです。技術か、技術でないか、の間に不変の一本の境界線を引こうとしても無理です。なぜなら、技術ということが指そうとしている「何か」が不動不変なものではなく、歴史的に姿を変えてくるかです。アルキメデスの時代の「重さ」が指す対象が歴史的に発展するといったことはないでしょう。変わったとすれば、それは「重さ」そのものではなく「重さ」に対する認識でしょう。ところが「技術」のような社会現象となるとこうはいいきれないのです。対象が変わるから、それを含めようとすると「…たり…たり」となってしまうのです。困りましたね。
というわけで、「技術」のように不変不動の境界線で区切るのがむずかしい言葉を、理論的な推論に使えるようにするなにかよい手はないものか?…ということで、私がよく使う手を紹介しましょう。それは「対概念」をたてるという方法です。明度0パーセントの黒に対する明度100パーセントの白です。間には無数の灰色があり、一本の境界線では区切れません。じゃ、境界線が引けないから、世の中すべて灰色、黒とか白という概念は存在しない、といえるかいえばそうではありません。両極にはちゃんと純粋な黒と白が存在するのです。…って、むずかしい、と思う人は、そんなものか、ともかく、辞書をひいてハイ終わり、じゃすまないがなんとなくわかればOKです。
ただこういうと、よく誤解されることがあるのでちょっとだけ注意しておきます。“簡単な辞書じゃダメ、そりゃそうだ、だったら、もっといろいろ技術について書いてある権威ある書物をようなくっちゃ”と万巻の書物を猟歩しようとする人がいます。根が真面目なのでしょう、でも、アリストテレスによれば…であり、マルクスによれば…であり、などと、依存症は悪化の一途をたどるばかり、そうではなく、自分のアタマでシンプルに定義すること、そしてこの定義にしたがって、その言葉を一貫して使うこと、これが論理的に考えるための第一歩だ、と私は信じています。
熟練と技術
ということで、さて「技術」の正反対の言葉は何でしょうか。「技術」の対極に位置する概念です。それは熟練でしょう。もしふんだん使う「熟練」という言葉が名人芸のような特殊な業をイメージさせるなら、もう少しハードルをさげて「技能」とか、カタカナ語であやふやに膨らまして「スキル」とか、いろいろ言い換えてみてください。肝心なのはこうしたふだん使う言葉の背後に共通する中味のほうです。「技術」対「熟練」…というセットを生みだす「対」のほうが問題なのです。そこには対極的な性格を与える決定的な一要素があるはずです。この判別基準を示せば、両方がセットで定義されるわけです。何が両者を分けているのでしょうか。
ひと言でいえば、“だれにでもできるかどうか”でしょう。だれにでもできるようになっていれば、そこには「技術」があるといい、特定の人たちにしかできなければ「熟練」がいる、というのです。カギを回せばだれでも開けられるドアは「技術」の成果ですが、カギをなくしたときドアを開けるには錠前屋さんの「熟練」がいるのです。自動車のアクセルはだれが踏んでもエンジンの回転数はあがりますから、この操作は「技術」が支配しています。しかし、だれでも自動車が運転できるかというとそうはゆきません。一定の練習をしたあとでないと危なくてしょうがないでしょう。運転・操縦には「熟練」が必要なのです。「技術」と「熟練」は、概念としてはっきり区別することはできますが、現実には両者は結びついており、その境界は基本的に「熟練」の領域が「技術」の領域に取りこまれてゆく方向にシフトしてゆきます。
ただ注意する必要があるのは、これは「熟練」が消滅するということを意味しません。前回「労働とは」ということで、労働の概念を見なおし、ただ与えられた手段を操作する活動だけではなく、目的を設定し、手段を組み立てるという目的意識的活動全体を覆う内容に拡張しておきました。このような拡張において、未知の何かを手探りで探し求めることになるわけで、「技術」に還元できない「熟練」がつねに必要となるわけです。人間労働には本質的にスキルが要素として含まれているのであり、そうしたものをすべて取りさった「単純労働」こそが「本来の労働力」で、これに後から「熟練」が追加されるのだというマルクス経済学の通説は捨てるべきです。こうすることで、「熟練」が一方で「技術」に侵食されながら、他方で新たなかたちで絶えず生成されてゆく関係が浮かびあがってきます。こうした変わりゆく技術と熟練の動態こそが、資本主義の変容の基底をなすのです。こうした関係のうちに現代資本主義の特徴の一端も、技術の発展と労働の変容として、はじめて理論的に捉えることができるのです。
科学と技術
例によって抽象的な議論ばかりが続くので“いい加減勘弁して”という声が聞こえそうですが、もう一点だけ付け加えさせてください。この後述べる「情報通信技術」を理解するうえで必要なことです。
いま技術の本質を“だれがやっても同じ結果になる”点に求めました。これは「客観性がある」「確定的である」と言い換えてもいいでしょう。これは科学の基本要件です。ちょっと古めかしい言い方になるかもしれませんが、昔、宇野弘蔵がよく「何人たりとも疑い得ない」ものがあり、「マルクス経済学」も社会科学としてこの客観的な法則を明らかにするものだとよくいっていました。その意味で特定の価値観を積極的に表明する「マルクス主義」とは違うというのです。前回「はじめに」でふれたように、私は若いころ、この科学とイデオロギーの峻別論に対して最初は違和感を覚えたのですが、大学教師を何十年もやっているうちに、いつの間にか同じようなことをいうようになっていたのでした。とはいえ、これとはちょっと別の意味で、「科学」あるいは「理論」のもつ「客観性」「確定性」を宇野弘蔵のようにストレートに信じることには、やはりちょっと躊躇を覚えます。それは「科学」と「技術」の関係にも表れてきます。
“だれがやっても同じ結果になる”という客観性は、論理的必然性があると言い換えてもよいでしょう。ピッタリ同じではないかもしれませんが、もしズレなら、後のほうの論理的必然性のほうが強くって、その結果が客観性となって現れると考えてよいでしょう。力と加速度の関係を表す運動方程式 f = ma は、君には当てはまるが僕には通用しないなどとだれもいえない客観法則であり、この一般理論に基づいて、たとえば振り子には、いって戻ってくる時間が揺れ幅に関係なく一定であるという客観性が説明されるわけです。とはいえ、実際の振り子の周期をちゃんと測ってみると理論値からのズレが観測されるものです。ピッタリ理論どおりにはゆかないけれども、しかし、およそ理論どおりの値になる、その意味で客観性というものは存在するわけです。
ピッタリになるのは数学の世界です。どこまでいっても交わらない平行線の公理を認めれば「三角形の内角の和は180度になる」という定理はつねに成りたちます。例外なき論理必然性です。ところが、実際に直角三角や二等辺三角や潰れたのや尖ったのや、いろんな三角形を紙に書いて分度器で測って合計すると180度からズレてくるでしょう。五感でわかる世界、知覚可能な世界では、数学や理論物理学のような論理必然性はそのまま通用することはありません。しかし、ほぼほぼそれが当てはまる、という意味での客観性は保証されているので、こちらは「必然性」に対して「蓋然性」というようです。真か偽か、1か0か、が必然性であるとすれば、180度から前後1度のズレに99パーセントが収まるというのが蓋然性です。蓋然性は英語の probablity の訳でこれは確率とも訳されます。
ちょっと回りくどい話をしてしまいましたが、要するに一口に「客観性」といっても「必然性」と「蓋然性」があるわけで、「科学」が対象としているのが「客観性」であるのに対して「技術」が対象としているのは「蓋然性」のほうなのです。「科学技術」といいますが、基本は確率的にズレを含んだ現象を、目的に沿って、モノとモノの関係としてコントロールするところに技術の本質があり、このズレを人間の知覚を通じてコントロールするのが熟練の本質がある,ということになるわけです。その意味で“何人たりとも疑い得ない”という宇野の「科学」と、“およそそのくらい”という「技術」はやはり別物だと考えるべきなのです。
そして、ここが肝心なのですが、この誤差をともなう蓋然性の世界を客観的に分析する方法が20世紀の後半に大きな発展をみたのです。確率論を基礎におく数理統計学であり、これにコンピュータサイエンスが物理装置的にバックアップするようになったわけです。これが第2節でお話しする情報通信技術の一方の流れ、すなわち情報処理技術の革新だったのです。このあともう少し具体的な説明をしてゆきますので、まだ抽象的な一般論ですが、必然性と蓋然性の問題はアタマの片隅にちょっとメモしておいてください。
熟練の分析
以上のように「技術」の発展は「科学」の進歩を一つの源泉とするのですが、そればかりではありません。もう一つ、人間の労働が獲得する「熟練」の分析という源泉があります。人間の合目的的活動では、ぼんやりした欲求を実現可能なはっきりした目的にまとめ、目的実現のための手順をきめ、目的に向けて手段を操作する必要がありました。とりわけ、三番目の操作においては人間の身体が重要な役割を果たします。すでに述べたように、身体は単なる動力という意味ではありません。感覚器官を具え、状況に応じて、手足を動かし、声や目線で合図をおくたっりできる身体機能です。ふつうの人にはできないことができるという「熟練」は、この身体コントロールの能力にあるといってよいでしょう。
目でみた状態や音や匂いを総合して中華鍋を振りつつ調味料を加えるタイミングをはかるプロの料理人の動作を想起してみてください。料理一品が完成するまでの過程を観察し、それを全部隈無く記述しようとしたらけっこう面倒なことになります。しかし、複雑な作業も客観的に観察すれば、そのうちには繰り返される単純な動作もあれば、きまったタイミングでおこなわれる動作もあり、そうした要素や契機が分析できれば、合理的に組み立てなおすことができます。センサーとアクチュエータを具えたロボットでこれを再現することも可能かもしれません。しかし、一つ一つの料理に限定すれば、熟練に頼らずにある程度同じような料理を作ることができます。炊飯器とかホームベーカリーとか、マイコン制御の調理器はたくさんあります。
資本主義の歴史を振りかえってみると、人間の身体活動の分析から生みだされた道具や機械が重要な役割を果たしてきました。第1回目に「農業資本主義」の話をしました。産業革命に先立って、大規模農業において、地主、資本家、賃労働者からなる資本主義的生産が成立したという議論でした。そうかもしれません。ただ、多くの人が思うように、資本主義が資本主義らしい発展をするには、農業だけではなく工業に軸足を移す必要があったといってよいでしょう。農業に対する工業 industry という用語にはいろいろ問題があるので、正確にいえば製造業 manufacturing です。つまり、ここでは人間の「手」に象徴される作業で何かを「つくる」産業です。
産業革命の核心は、このマニュアルレーバーの熟練を分析し、それを機械装置に置き換えたところにありました。たしかに、それには蒸気機関のような動力機も重要な要因でしたが、資本主義という経済構造に決定的だったのは、人間の労働能力に直接影響する作業機の革新でした。糸車に紡錘を取り付けて繊維に縒りをかける手作業を分析し、それを紡績機に移すことで熟練を技術に置き換えていったのです。この機械化による熟練の解体が『資本論』では、工場制手工業を機械制大工業が凌駕する様子が、資本主義的生産の確立の過程として描かれていますが、そのメルクマールは自動機械による手工業的熟練の解体でした。
ただ、熟練の解体は必ずしも自動機械によるとはかぎりません。『資本論』では繊維産業の川上をなす紡績、織布における自動装置のみがクローズアップされすぎているように思われます。前回も述べたように川下の縫製はミシンを使ったとしてもそれを操縦する労働が大量に必要とされたのです。
熟練の解体は自動機械によるものばかりではありません。手作業を細分化し作業場内分業として再編成することによっても可能になります。かつてテーラー・システムに対する批判的研究がマルクス経済学では多くみられました。作業分析 motion studies によって労働者の個々の作業を計測し最適な作業時間を割り出し、一人の熟練労働を多数の不熟練労働によって実現し賃金コストを削減する「科学的管理法」は、機械化と異なるかたちで熟練を分解し再組織化するものでした。この意味では「技術」は物的な機械装置によるだけではなく、労働組織の編成という無形の技術としても開発されたのです。このことは、コンピュータによる労働の合理化を考えるうえでも重要に意味をもつと思います。
情報通信技術の特徴
大量生産の技術
情報通信技術の発達は現代資本主義を特徴づける一つの重要な契機となっています。ただこの技術は、これまで資本主義の発展を牽引してきた技術とは明らかに性格を異にしているようにみえます。このことは、資本主義のもとでの技術の歴史をザッと通観してみれば明らかでしょう。
産業革命以来の技術の中心は、モノの加工に関わるものでした。その代表は動植物の繊維のようなモノの形状を変えるものが中心でした。そこでは、回転運動を中心にそれを複雑な往復反復動作に変換することで、同一の製品を(半)自動的に大量につくりだす性質をもっていました。19世紀のマンチェスターを「世界の工場」に押し上げたような軽工業型の製造業の技術です。ただこの場合注意すべきは、前項でふれたように、加工系列の全体が一挙に自動機械化されたのではない点です。糸や布のような素材が大量生産される一方で、それを最終的に消費する衣服に加工するところでは手作業を必要としていました。縫製も一種の組み立て作業と見なせば、川上での大量生産が労働力を排出する一方で、川下での組み立てアセンブリがそれ以上の労働力を吸収する構造になっていたのです。
19世紀末以降になると、これとは少し別系統に属する技術が台頭してきます。巨大な装置のなかで熱化学反応を引きおこし新たな物質素材を大量に生産する重化学工業型の技術です。鉄鋼や化学肥料などからはじまり、多種多様なの石油製品プラスティックや合成繊維などの素材が大量生産されるようになったのです。この場合も、生産系列全体では、川上における新素材の大量生産は、川下におけるさまざまな組み立てアセンブリを広げるかたちになっていました。大量に生産される鉄鋼をそのまま消費するわけにはゆきません。たとえば鋼板鋼材を素材として鉄道やビルなどの構造物を建設したり大砲拳銃のような武器を生産したりする必要があったわけです。第一次世界大戦を引きおこしていった帝国主義的な資本主義経済の底流にこうした重化学工業化があることは、当時のマルクス経済学者が指摘した通りでしょう。
第一次大戦後になると、こうした重化学工業で大量生産された素材の消費の民生化が進みます。自動車産業がその典型です。フォードの組立工場をみればわかりますが、これは手作業ベースの流れ作業による部品組み立てです。大量生産された布を衣服に「組み立てる」のに大量の手先の労働が必要であったように、大量の鋼板を自動車にするには多くの人手が必要だったのです。20世紀には、自動車にかぎらず、さまざまな素材を組合せて新種の日用品を生産するタイプの大量生産方式が広範に普及していったのです。戦後の日本の高度成長の時代に目撃した現実がすぐに思い浮かぶと思います。もう覚えている人はいないかもしれませんが「3C」などといって、ほぼ同じ機能をもった製品の値段をどんどん下げて消費を拡大する技術で成長したのです。値段を下げながらあれこれ新機能を付け足されたのですが、これはたいていは見せかけの機能で、高度成長が終わっり値段を下げられなくなった時代に、なおこうした新機能の個別的特化のみを追求し続けたその成れの果てがケイタイの「ガラパゴス化」だったのではないでしょうか。
最後の点はともかく、これまでの資本主義の技術の基本は、川上における加工素材の自動的な大量生産と川下における人手による組立型大量生産であり、上流における労働力の排出を下流における労働力の吸収でバランスさせる構造をもっていました。現代資本主義における技術の問題は、この基本構造が大きく変わってしまったことにあります。
組立の自動化
第二次大戦後、ベルトコンベアにそって人間の手作業で組立ててきたような現場にも多くの機械が導入されるようになります。フォークリフトがはいったり電動工具が普及したりして、素材に直接手を触れることは少なくなり、力仕事もみられなくなります。しかし、それらの機械は相変わらず人間が操縦操作するタイプのものでした。オートメーションといっても部分的な過程であり、過程が高速になればそれだけ、過程と過程をつなぐ局面では人手も多く必要とするものでした。
ところがこの関係が大きく崩れることになります。第2講で「現代資本主義」の「現代」を、わかりやすくするために、第一に1973年以降、もう少し絞って第二に1997年以降、といったのですが、この「現代」がはじまる1970年代になると、徐々にですが、コンピュータが生産過程に導入されてきました。オートメーションの基本は自動制御ですが、当初の制御装置は、たとえば蒸気機関の圧力弁やバイメタルのような物理的な仕掛けで、蒸気の圧縮・放出とか、電流の開通・遮断とか、といった切り替えを実現するものでした。こうした装置は、目的の応じた形状・機能に特化するかたちで高度なものが開発されてきました。これに対して、制御装置としてのコンピュータは汎用性を強くもつものでした。同じハードウェアでもプログラムを変えることでさまざまな目的に利用できる特徴をもっていたのです。物的装置と機能とが切り離せなかった従来の制御装置とは決定的に異なるものでした。
私と同じ頃大学を卒業して計器会社に就職した友人にきいたのですが、半年ほど製鉄会社に出向してやった仕事が、溶鉱炉のコンピュータによる制御で、今まで炉内の温度を調べながら最後は溶けた鉄の色などまでみて、熟練工がやっていた仕事をコンピュータにやらせるようなことだといっていたのを思いだしました。50年以上前の記憶なので違っているかもしれませんが。パンを焼くホームベーカリーという調理器具があります。粉をこねて寝かせ、イーストを入れて発酵させ、釜の温度を調整して焼き上げたりするのをマイコン micro computer で制御するのです。別のときに、溶鉱炉もホームベーカリーと似たようなものだろう、といったら、友人曰く“似てると同じは違うんだ。規模が大きくなると、制御の困難は指数的に増大するのだ。君は理論ばかりやっているから、必然性と蓋然性の違いに疎いのだ。数学では要素が2でも3でも…nでも等比級数の和は同じ一つの公式で求まる。だけれど、確率的な誤差を伴う世界では、要素が大きくなると誤差が誤差を生んで制御できなくなることもあるのだ。これが技術の世界さ。”といわれて“フムフム”と納得した覚えがあります。実際、コンピュータのプログラムを書いてみると、たとえば配列のサイズを10個にしてテストするとうまく動くのに、1000個に増やすと思う結果が得られないといったことがでてきます。銀行の送金システムが遅れたり駅で交通系カードが使えなくなったりするトラブルをみると、そんなに複雑なことをやっているわけでもないのに何で…という気がするのですが、10人しか利用しないシステムならバグはすぐにわかっても、何万人も使うシステムには固有の困難があるのでしょう。
産業用には当初、プログラムを一度書き込んだら変更できないタイプのマイコンが装着されることが多かったようですが、やがてプログラムを書き換えることでさまざまな仕事をさせることができる汎用型の小型コンピュータも普及してきます。私がこの種のいわゆるパソコンをはじめて買ったのは1982年の夏、最初のボーナスをもらったときでした。スイッチを入れても、Basic というコンピュータ言語のプロンプトが表示されるだけで、フロッピーディスクから別にCPMとかMSDOSとかいったOSを立ち上げ、そのうえではじめてワープロソフトや表計算ソフトが利用できるような代物でしたが、ともかく同じ装置でいろいろなことができるのだ、と実感しました。あれから40年あまり、毎日コンピュータをつかう生活を続け、端からずっと観察してきたコンピュータサイエンスについて語るとキリがありませんが、こうした汎用コンピュータが生産の現場に導入され、さらにUnixのようなネットワーク指向のOSによって個々のコンピュータが一つのシステムに統合され、工場全体が制御されるようにもなっていったわけです。いささか不正確なのところもありますが、ここではそういうコマイ話は端折ることにします。
要するに。こうしたコンピュータの導入は、センサやアクチュエータといった工学の発展にも支えられて、産業革命以来ずっと労働力を吸収してきた人間の身体能力に依存した組立型の労働を最終的に解体し自動化することが、ほぼほぼ可能になったのです。まだ工場の外にでれば、自動車の運転とかビルの建設とか、操作操縦型の労働は不可欠ですし、そもそも大量生産に向かない一品物の製作はつねに存在します。しかし、資本主義の基本的な労働の世界では手先の熟練はほぼ解体されたといってよいでしょう。
… と1992年に「コンピュータと労働」という論文で書いてしまったのですが浅はかでした。1995年、当時勤めていた経済学部のメンバーで中国を訪れる機会があったのですが、長江下りをしているとき、桟橋を天秤棒を担いでエッサエッサと石炭か何かを運ぶ労働者たちの列を間近にみたり、また別の機会にですが、中国の工場見学(といってもなかなか現場をみる機会はなかったのですが)をしたりして、日本国内のことしか自分は考えてこなかったのではないか、と大いに反省したのです。そう思ってみると、この時期、工場のなかからどんどん人がいなくなるようにみえたのは、実は新興諸国に組立型労働がシフトしたからだったのではないか、少なくともコンピュータの導入だけが決定的な原因だったわけではなかろう、と思うようになりました。第2講で「グローバリズムの底流」をなすのは新興資本主義諸国の台頭だという話をしたと思うのですが、あれは一つにはこのような反省の結果だったのです。
情報通信技術とは
例によって序論が長くなってしまい、なかなか肝心なところにたどりつけないのですが、時間がないので、あとは簡単に粗筋だけを書いておき、現場ではこちらに時間をとるようにします。
ポイントは、産業革命以来の生産技術の発達とはまったく別系列の独自の技術だという点です。コンピュータの導入は自動制御による生産管理をほぼ完成させましたが、コンピュータサイエンスとインターネットを核にする今日の情報通信技術のいわば副産物と考えるべきでしょう。このことは、情報通信技術の歴史を通観すればわかります。またいわせてもらえば、「そもそも情報通信技術とは」という話になるのですが、これも要点のみ話します。
まず押さえておく必要があるのは、今日いうところの「情報通信技術」は「情報技術」と「通信技術」が結合したものです。逆にいえば「情報技術」と「通信技術」は別々に別の経路で発展したもので、それがコンピュータの登場ではじめて結合したといえるのです。
通信技術の歴史
通信は英語でいえば communication です。日本語で「コミュニケーション」といえば、お互いに意志を疎通することを意味するでしょうが、そんなものにだれがやっても同じ結果になる技術などあろうはずがありません。ただ、日本語における「通信」ならだれがやっても同じ効果を生む技術がたしかにあります。直接赴いて対面で話す代わりに郵便で通信するというのも立派な技術です。この技術は住所という「制度」が技術の重要な要素となっています。これだけでも生産技術との違いは明らかでしょう。
他方、印刷技術の発展は、雑誌新聞という不特定多数に同じ情報を伝えるマスコミュニケーションを登場させることになります。郵便からはじまって、電信、電話などの電気通信が発達すると同時に、無線通信はマスコミュニケーションの領域を取り込み、新聞雑誌と競うことになります。今日の情報通信技術が登場するまえに、こうした通信技術の独自の発展があったことは、インターネットの新奇性のみに目を奪われぬた目にも重要なポイントになるでしょう。
情報技術の歴史
情報技術は情報処理技術のことで、この処理の基本にあるのは計算です。計算はアタマのなかでやるものと思いがちですが、指を使って足したりひいたりすることからはじめて、指の代わりにモノを使ってやったりするわけで、そうした計算の道具としてソロバンなどがでてくるわけです。こうした道具を使いこなしに熟練はいるでしょうが、ともかくだれがやってもソロバン玉の動きが違うわけではないという意味では技術がそこに現れるわけです。
計算の目的は、モノの量的な管理です。生産の場でもどれだけの原材料でどれだけのモノが生産できるかといった管理は重要ですが、とりわけ、商品売買においては利益を計算し資産の状態を把握するうえで計算は必須となります。江戸時代の商業労働者に求められたのは「読み書き算盤」でした。コンピュータはもともと電子計算機とよばれた時代もあったわけで、その出自は計算機です。
そこでちょっと質問してみます。ソロバンと電卓はどこが違うのでしょうか。モノの状態で離散的な数を表現し、その状態を変化させることで、いわばモノに計算させるという意味では、ソロバンだって電卓と変わりありません。もし、決定的な違いがあるとすれば、モノがソロバン玉ではなく、電荷のオンオフという二進法がベースになった点でしょう。電荷だって10段階に分けて10進法に対応させるということも考えられそうですが、こんな途を歩んだら、単純で高速で汎用的な計算機にはならなかったでしょう。実際、C.バベッジの構想した差分計算機では歯車のような機構で10進法を物理的に実現しようとしていたようです。ソロバンではなく計算尺という道具もありました。これは数を連続的なアナログ量で表現する装置であり、ソロバンのほうが曲がりなりにもデジタル量の計算である点で電卓に近いのかもしれません。要するに、電卓のレベルで、電荷で0/1
型の2進法の計算が導入されたわけです。
コンピュータとは
では、電卓とコンピュータはどこが違うのでしょうか。記憶装置
メモリに値を保存できるというだけなら、電卓だって具やっています。違うのは、処理する値だけではなく、処理する手順方法もメモリ上におくことで、一連の処理を自動的に進めることができる点でしょう。電卓で(3 + 4) × (5 + 6)を計算するとき、計算の順序は計算する人間が考えて進めなくてはなりませんが、コンピュータではa = 3 + 4, b = 5 + 6, a + bという手順をインプットすることで、人手を介さず自動的に計算できます。メモリ上にプログラムをおくことは、もう一つ、重要な違いをもたらします。それは条件分岐です。計算の結果をメモリにおくことで、値の大小によって次の処理先を変えることができるのです。
この条件分岐ができるということが、電子計算機が単なる計算機をこえて情報処理装置が変身しえた根本です。文字で記録されたデータも、文字も数値と一対一に対応させれば計算可能な値で表せます。これによって、アイウエオ順に文字列を並べ替えたり検索したりすることが可能になるわけです。文字も音声も画像も、一定のルール プロトコルを定めれば、すべて二進法のデータとしてオンオフで処理することができるようになるわけです。もう少し具体的にお話ししないといけないのでしょうが、キリがないのでやめておきます。いずれにせよ、単なる数値計算をやる装置が、あらゆる情報をデジタル形式のデータに対応させ処理する能力を獲得するにいたったことは、ちょっと不思議です。計算機を考えた人が、このようなかたちで情報処理機になることまでは予想していなかったのではないでしょうか。技術の進歩というのは、どこか意図せざる結果につながるところがあるのではないかと思います。まったく余談ですが、私も論文を書いていて始め意図したことと違う結論になってしまうことが間々あります。ここだけの話ですが….
コンピュータはさらに、計算機をこえたデータ処理装置となると同時に、電気通信のための装置となってゆきます。コンピュータの内部では、メモリとCPUの間でデータの移動がおこなわれるのですが、これが一種の電気通信になっているわけです。コンピュータはキーボード、ディスプレイ、ハードディスクなどさまざまな外部装置とデータのやり取りをおこないますが、これもオンオフ型のデジタルデータによる通信です。ということは、異なるCPUに統括されたコンピュータの間でも基本的に電気通信でデータのやり取りをすることが可能なはずです。原理的には…ということで、コンピュータとコンピュータを結ぶ電気通信の世界が広がるわけです。電話やラジオ・テレビなどと同じ電気通信装置という性格ももちうるわけです。このコンピュータ通信の仕組みはいろいろありうるのですが、今日それがTCP/IPでアドレスを指定するインターネットのかたちで定着したといってよいでしょう。
要するに、別系統で発展してきた通信技術と計算技術がコンピュータの登場で結合し、今日の情報通信技術が誕生したというのが結論です。そして、この点を強調しておきますが、これはまた、産業革命以降一貫して進んできた、手先の労働の自動化の技術とは別系統の技術だったのです。このように鳥瞰することで、細かなあれやこれやに惑わされることがなく、現代異本主義を特徴づける技術の本質を捉えることができると思います。
コンピュータと労働
さて、このようなコンピュータを中心とした情報通信技術の登場は、資本主義経済に対してどのような変容をもたらしたのでしょうか、あるいはもたらそうとしているのでしょうか。
第一の影響は、組立作業に代表されるマニュアルレーバーの解体消滅です。生産過程に導入されたコンピュータによる自動化の効果は決定的でした。こうして工場における労働が排出されたわけですが、これを労働の消滅だと勘違いしてはなりません。第4講で労働の構造を三つの契機に分けてみたのですが、分解されたのは第三の目的に向かって手段を操作操縦するマニュアルレーバーだったのであり、こうして排除された労働は、目的を定めるという第一の契機や、手段を組み立てるという第二の契機に移っていったと考えられるのです。広い意味での商業労働であり、これはもっと広い意味になりますが手順を考案するプログラミングの労働へのシフトです。
第二の影響は、こうした新たな労働の場におけるコンピュータの利用です。マニュファルレーバーの解体にはかれこれ300年くらいかかったといってよいのですが、それによって排除された労働が今日に直面しているのは、いわばアタマとココロを対象とする労働です。コンピュータを中心とする情報通信技術は、人間労働の第二のフェーズの手段を与えるものなのです。他人の欲求を明確な目的に定式化する基礎には通信技術があり、手段を合理的に組み立てる基礎には情報処理技術が欠かせません。
問題はこのような情報通信技術の発達は、やはり人間の労働をここでも分解し消滅させることになるのか、です。コンピュータが労働の第三の契機であるマニュアルレーバーの解体をほぼ完成させたということは、コンピュータが第一の目的設定や第二の手順の設計という契機に対しても、同じような解体作用を発揮するということと同義ではありません。これはコンピュータは道具か機械かと問うてみればわかります。機械装置に取り付けられたコンピュータは機械の一部ですが、それによって駆逐された労働者が使うコンピュータは機械というよりは道具の性質を強くもっています。人間がはたらきかけないとそれ自体は作動しません。端末があれば操作する人が必要なのであり、ひどく労働吸収的な道具です。ミシンがマシンを名のりながら、一台一台労働者を必要としたのと似ています。かつて自動機械の登場によって川上の素材生産から駆逐された労働者が、川下でこの半機械半道具の操作操縦に吸収されたように、労働の第三の契機から駆逐された労働は、現在、、労働の第一第二の契機のフェーズにシフトしており、そこではコンピュータという道具を使うことで、アタマの労働を対象とした分解がはじまったと考えることができます。このフェーズの分解には、マニュアルレーバーの解体が要した以上の時間がかかるかもしれません。ただ、このような第二のフェーズのはじまりが、この講義で考えている現代資本主義を特徴づけていることはたしかでしょう。
生成AIの衝撃
予期せぬ出来事
…というのが、数年前までの私の考えでした。しかし、いま、このように考えてよいのかどうか、生成AIを使うなかで、疑問に思うことが多くなりました。“コンピュータがそう簡単に複雑な人間の欲求の世界を理解することはできないだろう”“プログラマーがプログラムを書かなくてもコンピュータが自分でプログラムを書いて動くとしたら、それはコンピュータの暴走だ”“コンピュータが自分で問題をだして自分で答えたとしても、そんなものは人間にとって意味をもたないだろう”と高をくくっていたのですが、簡単にこういってよいかどうか、けっこう迷っています。
生成AIの「理解」
どういうことか、実例を挙げてみます。
chatGTPに次のように尋ねてみました。
技術と熟練とが対概念になるように定義してみてください。技術の本質は何であり、熟練の本質は何であり、それ故、技術であれば熟練にはならず、熟練であれば技術にならない、というような対概念にしてください。
するとつぎのような回答がかえってきました。
「技術」と「熟練」を対概念として定義するためには、それぞれの本質を明確にし、それが互いに補完しつつも対立する性質を持つように解釈する必要があります。以下に、その定義を試みます。
●技術の本質
技術は、普遍的で体系化された知識や方法論、またはそれらを適用する能力を指します。技術は再現性を重視し、一般的には誰でも学べるように形式化されており、知識やスキルを習得すれば同じ結果を得られることを目指します。技術の本質は「方法の普遍性」にあります。例えば、機械設計におけるCADツールの使用方法やプログラミングにおける特定のアルゴリズムの実装手法などは技術にあたります。これらは、個人の経験に依存せず、知識の伝達によって多くの人が共有し得るものです。
●熟練の本質
熟練は、経験に基づく直観的な判断力や特定の状況での反射的な応用力を指し、個々の経験や長年の繰り返しによって得られる「個別の知恵」や「身体的感覚」の域に入ります。熟練の本質は「経験の蓄積」と「状況の文脈に依存する判断」にあります。例えば、大工が木材の種類や湿度に応じて微妙な調整を行う技や、熟練の医師が診察時に一瞬で病状の兆候を察知する能力は熟練の例です。これらは形式化しにくく、他者に完全に伝えることは難しい特徴があります。
●対概念としての技術と熟練
技術が「普遍的な方法」による再現性を追求するのに対して、熟練は「個別の経験」による独自性を重視します。このため、技術は万人に共有可能である一方、熟練は個人の長年の経験に根差しており、必ずしも他者に移転可能ではありません。技術が「手順を踏めば誰でも同様の結果が得られる」ことを目指すのに対し、熟練は「特定の人が特定の状況下でのみ発揮できる判断力」や「場の文脈に依存する特異な技」によって成り立ちます。
したがって、技術は熟練にはなり得ず、熟練は技術にはなり得ません。技術は体系化された方法論として普遍化を目指し、熟練は特定の状況や経験によって形成される独自の判断力としての個別性を重んじるからです。このように技術と熟練は、普遍性と個別性、伝達可能性と直感的経験という側面で対概念となり得るのです。
「対概念としての技術と熟練」という限定を加えずに「技術と熟練の違いを説明してください」と尋ねれば、このような期待通りの回答はかえってこないでしょう。その意味では、尋ねる側がある程度考えなければ、望む結果が得られないといえばその通りです。ですが、逆にいえば、こうした限定の意味を「理解している」ようにみえるのです。ただ、インターネット上のいろいろなサイトを検索して該当しそうな文書を選んでいるというレベルを超えているように「みえる」のです。
生成AIとの「対話」
さらに要望を追加してみましょう。
一般市民向けのカルチャー講座で「情報通信技術と現代経済」というタイトルの講演をします。その導入部で「そもそも技術とは」というテーマで、技術について話す導入部として、上の内容を1000字程度にまとめてください。受講者が普段使っているが「技術」という言葉の意味について、あらためて自分で考えてみようと思うように誘導してください。
すると次のような回答かかえってきました。
「技術」と聞いて、皆さんはどのようなイメージを持たれるでしょうか?スマートフォンやインターネット、人工知能など、現代社会を形作る数々のツールや仕組みがまず頭に浮かぶかもしれません。それらは確かに「技術」の成果ですが、そもそも「技術」という言葉はどのような意味を持つのでしょうか。今日の講座では「情報通信技術と現代経済」をテーマにお話ししますが、まずは「技術とは何か」という問いから始めてみましょう。
技術とは、一言でいえば「目的を達成するための知識や手段の集合」です。例えば、料理のレシピ、建物の設計図、コンピュータのプログラムなどは、すべて特定の目的に向かって技術が体系化されたものといえます。技術には、一貫した手順や再現可能な方法が求められ、これを学べば、ほとんど誰でも同じ成果を上げることができます。誰もが使えるスマートフォンや、生活に役立つインターネットは、まさに技術の力によって万人に共有可能なものとして提供されています。
しかし、技術とはすべてを解決できる万能の力でしょうか?ここで「熟練」という概念と比較することで、その本質を考えてみたいと思います。熟練とは、長年の経験と実践によって培われた「その場限りの判断力」や「個人に特有の直感」を含むスキルです。例えば、職人が木材を見ただけでその質を見極め、適切な道具で微調整を行う技術や、熟練の医師が患者の症状を一瞬で察知する洞察力は熟練の力です。これらは「技術」としては体系化しづらく、他者に完全に伝えることも困難です。技術が多くの人に共有可能で再現性を重視する一方、熟練は個別の経験に根ざしているため、同じ経験をしないとそのまま真似ることは難しいのです。
技術と熟練は、対立する性質を持つものですが、どちらも大切です。技術は多くの人に手軽に使える力をもたらし、効率化と進歩をもたらしますが、一方で熟練がなければ対応できない柔軟な判断や深い洞察も必要です。こうした視点で考えると、現代の情報通信技術がもたらす利便性や、私たちの生活や経済にどのような影響を与えているかも見えてくるのではないでしょうか。
この講演を通して、普段何気なく使っている技術という言葉が持つ深い意味について、少しでも皆さんと一緒に考えていければと思います。
今回の講義のはじめのところと読み比べてみてください。“こっちの方がずっとわかりやすいじゃないか”と思う人もいると思います。だまって「はじめに」のところにこれをコピーしたら、はたして何人の人がそれに気づくでしょうか。
また、chatGTPが返してきた回答に不満があれば、要望を追加することで、思うような文書にどんどん書き換えてゆくことができます。対話が成りたつ「ようにみえる」のです。自分一人で書くよりは、モヤッとした希望をハッキリした文書のかたちに仕上げられるかもしれません。こうなると単なるコピペとはいえません。次々に要望をだしているのは、あくまで私のほうなのですから。
学術論文を書くというのは、それなりのトレーニングを必要とする熟練労働であり、そう簡単にコンピュータが代行できるはずがないといいきれるかどうか、少なくとも、論文のなかのサーベイとか、基本的な用語の説明とか、だれがやっても大差がない部分については、逆に生成AIが代行する可能性も否定できません。人間の思考がまるごと全部コンピュータで置き換わるわけではありませんが、だれがやっても同じ部分は、理論上は、生成AIが担いうるはずです。私自身は、人からわかりずらいといわれることに慣れており、chatGTP的な多数派に与するつもりがもともとまったくないので、“おまえの「はじめに」よりchatGTPの「はじめに」のほうがずっとわかりやすよ”といわれても気になりません。むかしから「だれにでもわかることをだれよりもわかりやすく説明する」優等生をたくさんみてきたからです。とはいえ、生成AIを利用した論文が大量生産され、それを読まされる時代がくるのかと思うとウンザリします。ただ、事実は事実、どう対処すべきか、これにはchatGTPも答えられないでしょう、自分のアタマで考えてゆくしかないのです。
この30年間の情報通信技術の特徴について:
情報通信技術を利用した商品・サービスの特徴は、「大量生産の技術」「組立の自動化」という観点からは、従来型の商品、サービスとは異なっていると思います。まず、「大量生産の技術」に関しては、ファイルのコピーあるいは、ファイルを通信手段、たとえば、インターネットを使って転送することにより、量産化、複製は簡単に(安価)できます。つぎに「組立の自動化」に関しては、ソフトウェア開発には、莫大な開発費がかかりますが、一旦開発されたソフトウェアは、ファイルコピー、ファイル転送等によりたいそう安価に(ほとんど材料費、手間はいらない)複製(組立)ができます。デジタル技術は、言語の問題を除けば世界中で共通に使え、使いはじめると更新された製品(?)を使い続けることになりますから、長期的に莫大な富を創造し、また、寡占化が進みます。マイクロソフト、グーグル、アップル、アマゾンは巨大の富をもたらしています(我が国の年間輸入額、約6兆円)。情報通信・コンピュータ技術は、莫大な富をえる一方、空間的な(グローバルの)富の不平等化を増し、あるいは、同一地域内でも階層的な社会をつくり、先進諸国、発展途上国、また相互間で、大きな問題が生じています。
わが国行政、政治家には、そのような問題提起と解決に向けての見識・努力・対策が欠けているようにみえますが、いかがでしょうか?
これからの情報通信技術の活用について:
技術が発展すると、人間は仕事をロボット、コンピュータ、AI等、デジタル技術に委ねる社会、「労働のない世界」になると予測した書物があります。
“A World without Work“, Daniel Susskind、Penguin Books, 2020:日本語版、2022、みすず書房、上原裕美子訳
・米国では、所得は学歴に依存し、高学歴者(大学院卒)の所得の上昇が高い。
・欧米では、AI実用主義がボトムアップで進み、所得の不平等化が進んでいる。
・対策として教育(人的資本の充実)があるが、限界がある(スキルは習得できない:スキルのない人にリスキルはできない?)。
日本では、230万人のIT技術者が必要だ(2030年?)といわれていますが、わが国の教育機関(大学等)の現状からは、実現は困難でしょう。このような問題をどのように解決するかの議論(次世代に向けての対策)が日本ではほとんどないようにみえますが、いかがでしょうか?
コピーは生産か?
ご質問にありました件です。
コピーはメディア媒体を増やすという意味では「生産」ですが、内容コンテンツは同じなのです。ちっとも増えません。
新聞を何部刷っても中身は同じ記事、こういうのは中身の情報を生産したことにならないのです。よく、情報はコピーでいくらでも生産できるという人がいますが、メディアとコンテンツを区別しないと間違えることになると思います。
ご指導・ご教示ありがとうございます。
ところで、ソフトウェアには著作権があり(著作権法)、著作権者がその権利を多くの顧客に与える(複製?)と、多くの顧客が利用できますので、著作権者は多くの収入を得ることができます。もちろん、ソフトウェアの開発には、多額の開発費用が発生するでしょうが、ソフトウェアを形づくるプログラムの手直し、改善が容易である(文字どおりソフトウェア)ので、一旦開発されれば継続的に数多くの顧客に権利を利用させ、著作権者は莫大な利益を得ることができます。 ソフトウェアは、汎用性・拡張性を考慮して開発すれば、グローバルに利用される可能性が拡大します。我が国パーソナルコンピュータ(PC)の70%にはマイクロソフトのウィンドウズOSを搭載され、スマートフォンには、グーグルのアンドロイドOS(30%弱)か、アップルのアイフォンOS(70%強)が搭載され、アマゾンは書籍をはじめ種々の商品をインターネット販売するなど、この30年間で米国の新興IT企業はソフトウェアとインターネットを統合して世界的に発展しました。
「コピーはメディア媒体を増やすという意味では「生産」ですが、内容コンテンツは同じなのです。ちっとも増えません。」との先生のお言葉ですが、日本人のスマートフォン(契約数1億6百万件、2023年末)にはグーグルかアップルのOSが使われ、PCの70%にはマイクロソフトのOSが使用され、さらに、これらのOSのうえで関連アプリケーションソフトウェアが使用されています。これらのソフトウェアは「ちっとも増えません」どころか、増えに増えた結果、わが国ではほとんど独占・占領状態です。
日本国民ひとりひとりは、これらをただ利用するだけでなく、このような状況・功罪をじゅうぶんに考慮にいれて、これから将来に向けて我が国の対応策を考えることが肝要だと思います。
いかがでしょうか?