インターネットのWeb会議の形式で講演のあと、さらにご質問をいただきました。可能な範囲で順にお答えいたします。
はじめに、主催者の方から。前半は細かい話。キラいな方は後半のみご覧ください。
(1)論文を読むことと、直接本人から口頭で話を聞くことでは、やはり、大きな違いがある。直接話を聞くと、何を主張したいのかが、伝わってくる。私の受け止め方では、小幡さんが主張したかったのは、二つ。一つは、不換銀行券を厳密に規定すること、もう一つは、資本主義分析において原理的規定と現象の叙述を混同してはならない、ということのようだ。不換銀行券も兌換銀行券と同じく信用貨幣である、という見方がある一方、不換銀行券と国家紙幣のちがいはいまやなくなりつつあるという見方もある。前者、つまり「不換銀行券も兌換銀行券と同じく信用貨幣である」という見方には、「金本位制から管理通貨制度への移行という歴史的過程の中で兌換銀行券から不換銀行券へと移行した」と歴史的発展としてみる見方がある(私=矢沢もそうだった)。
これに対して小幡さんは、歴史的発展を云々する前に、そもそも「信用貨幣」が、(金貨幣などの物品貨幣とともに)経済原理的に、商品から導出される商品貨幣の一種であることをはっきりさせなければならない、と主張する。金貨幣(物品貨幣)を商品から導出することは、どのマルクス経済学の教科書にも書いてある。金銀がそれ自体商品でありながら「一般等価物」として他の商品の「価値を表現する」ものとして貨幣になる…。
では、信用貨幣をどうやって商品から導出するのか?小幡さんは、信用貨幣を直接商品から導出するのではなく、商品から商品貨幣を導出し、商品貨幣が外的条件によって[開口部]、物品貨幣と信用貨幣のいずれかに分かれると、二段階で説明する。
小幡さんは、「信用貨幣」は、「(貨幣の貸借にともなう)債権」という商品が「一般等価物」として他の商品の「価値を表現する」ものとして貨幣になったものだという。[と私は読み取ったのだが、間違っていたら指摘してください。これ以上の、矢沢の個人的感想は「参加者アンケートへの回答」として別に記します]
では、他の商品の価値を表現する「一般的等価物」となり得る「債権」とは、何か?小幡『経済原論 基礎と演習』には、「商品価値は金銭債権のかたちで外化し自立することもある。商品価値が債権のかたちで自立した貨幣を信用貨幣とよぶ」と、ごくかんたんに述べて、本格的な議論は第三編機構論に譲っている。小幡さんは「債権」を、
賃料をともなう貸借⇒賃料が貨幣の場合⇒貨幣の用益としての「資金」の売買
という「貨幣の貸借」から導出している。こうした「債権」というかたちから出てくる「信用貨幣」と、第三編の
商業信用⇒銀行信用
の「信用」とは、どういう関係にあるのか?
「信用」は商品貨幣の貸借ではないのか?それとも「信用貨幣」の貸借か?
こうした疑問は、多くの参加者から提起された。小幡さん自身も、「商品の価値が債権でどのように表現できるのか、をめぐってはまだむずかしい問題が 山積している」と述べている。理論としては形成途上でも、「債権が商品の価 値を表す」という主張は、現代資本主義の貨幣を理解する貨幣論として、大きな一石を投じたのではないか。
真ん中あたりから、お答えしてみたいと思います。
「では、信用貨幣をどうやって商品から導出するのか? 」というのですが、「信用貨幣」を商品から「導出」しようとするのでは、金貨幣を商品から「導出」してきた「これまでの経済原論」の発想からから一歩も出られません。商品から「導出」できるのは、価値表現を可能にする「商品貨幣」という「仕様」であり、物品貨幣と信用貨幣は、このような「導出」型のロジックで同じようには説明できない、外的条件で分岐する「変容」として、ハッキリ区別して捉えよう、と繰り返しいってきたのですが、矢沢さんがこんな区別は無意味だから自分はしないというのであれば、それはそれでけっこうですが、私が「導出」していると読んだのでは、はじめのはじめのところで、もう何もわからなくなると思います。
「ごくかんたんに述べて」いるのは、「商品価値が債権のかたちで自立した貨幣を信用貨幣とよぶ」と、ここで抽象的に定義する必要があったからです。「本格的な議論は第三編機構論に譲っている」と矢沢さんはいうのですが、商業手形から銀行券を導出してきたこれまでの信用論(第三編機構論)は、どうがんばっても信用貨幣は先に規定された金貨幣の派生態になってしまう、この原論の構成から見なおさなければ、「本来の貨幣」ではない貨幣のもとで、一世紀以上も資本主義がワークしてきた事実がわからなくなる、だから信用論で導出される信用貨幣に先行して、その抽象的な規定を、そもそも貨幣とは何かを問う、冒頭の商品論、貨幣論ところで与える理論構成を開発しよう、というのが私の根本の発想です。抽象的なワケのわからない念仏は簡単にして、実際の信用貨幣に、あるいはもっと直截に量的規制緩和の理解に、どんな御利益があるのか、それが知りたいのだ、というのが、矢沢さんからいつも聴かされてきた話です。これは弱ったな、私の関心とはベクトルの向きがまったく逆、報告でも紹介しましたが、これまでさんざん研究されてきた信用論の議論を、商品論貨幣論の抽象レベルにどうやって差し戻し、貨幣の本質規定に組み入れるのか、私はこっちが知りたいので、それが不明のまま、現状分析と称して貨幣現象を追いかけるから、いまの貨幣は昔の貨幣とは違う、国債ベースでいくらでも自由に増加できるのだ、これを利用して社会主義的な政策だって追求できるんだ、といった議論に引っ張り込まれるのです。
最後の政策云々はともかく、いずれにせよこうした関心ベクトルの違いが、矢沢さんの疑問の底にはあるようです。たとえば矢沢さんが引用した私の二文は
- 等価物が物品のかたちだけではなく、債権のかたちでも構成できること
- この後のほうの実装方式を「信用貨幣」と名づけること
- この「信用貨幣」というの名称は、「商品価値は金銭債権のかたちで外化し自立することもあ」り、これを人々が信用貨幣と呼んでいるので、さしあたりこれを定義名に使ったこと
だいたい、以上のことを述べたものです。定義の内容を、定義名の由来とごっちゃにすることはないと思ったのですが、矢沢さんは信用貨幣といったのだから、それは目に見える銀行券や預金通貨そのものだと受けとったようです。もし二番目の定義文のなかで「金銭債権」といったら、それはすでに別種の貨幣の存在を前提にすることになり、物品貨幣と独立に「信用貨幣」を定義する方針は完全に破綻してしまいます。だから一番目の文にでてくる「金銭債権」というのは、定義の本体にでてくる「債権」のイラスト、いわば挿絵のようなものだとわかるはず。ここを逆に読んで、「金銭債権」なら「貨幣」の賃貸借があるはず、それなら、ほかの「貨幣」の存在を前提にしていることになる、つまり、小幡のいう「債権」は金貨幣の派生物にすぎないのだ、やっぱり破綻してるじゃないか、と追求するのは、いってみれば、やっつけるための議論です。黒板にグリグリとチョークで点を描いて、二点を通る直線は一本しかない、という話をしているときに、虫眼鏡をもってきて黒板の二点を通る直線なら二本でも三本でもひけるといわれているような感じで、この種の議論はどうかかんべんしてください。私はかつて、純粋資本主義のご店主の、ゴカイだロッカイだという議論にさんざんつきあわされた、あんまりうれしくない経験があるので、矢沢さんを誤解誤読だと批難する気は毛頭ありません。我をはらず「金銭債権」の「金銭」を削除すればすむこと、私はできれるだけ造語をさける方針で教科書を書いたのですが、ここでは「物品型貨幣」とか「債権型貨幣」とか名づけて、もともともちだすには早すぎる生身の信用貨幣という用語は — 少なくとも矢沢さんには — 伏せておいたほうがよかったようです。
とはいえ、私のみるところ、矢沢さんの疑問はほとんど、定義上の点の世界を、黒板上の点で理解しようとすることによるものです。抽象的に定義した「商品価値が債権のかたちで自立した貨幣」に関する議論が、いつのまにか「金銭債権」の話になったり、信用論で導出される銀行券の話になったり、挙げ句の果てには、私が「債権」を「貨幣の貸借」から「導出」しているという話になったりするのです。「貨幣」→「債権」となる最後の話に至っては、いかに愚かな私とはいえ、しらふで口にできることではありません。引用には「小幡さんは、『信用貨幣』は、『(貨幣の貸借にともなう)債権』という商品が『一般等価物』として他の商品の『価値を表現する』ものとして貨幣になったものだという 」と記されていますが、「『(貨幣の貸借にともなう)債権』という商品」という記述が、私の報告のどこかにありましたでしょうか。この括弧で括られた部分と「という商品」の二つが、私の記憶がないです。もしあれば私の誤りですが、これもおそらく矢沢さんの関心が投影された読み込みではないかと思うのです。
細かい話にもうウンザリしたころだと思うので、これ以上、深入りしません。ただ、「そんな抽象的な貨幣論なんて、現実に、実際に、現状分析にとって….. どんな意味があるんだ」という、モヤモヤには答えておきましょう。
- 今回は報告の冒頭で結論をハッキリ述べてみましたが、「変容とか多態化とのいうけど、そんな話はみんな段階論でやればいい」という人たちはきまって、金貨幣→兌換銀行券→不換銀行券→国家紙幣 とのんべんだらりと、歴史風の発展物語(実際の歴史分析ではなく)を語るのですが、これでは、いまの貨幣現象を完全に捉えそこなうこと
- つまり、不換銀行券を国家紙幣と峻別できず、国債発行によって貨幣量が自由に増加できるという謬論にズルズル引きずり込まれてしまうこと
- もういい加減、似てる、似てるの連発で、違うものを同じしてしまう「理論なき現状分析」からは卒業すべきこと
まだまだありますが「抽象的な貨幣論」にはさしあたり「こんな意味」があるのです。因みに、いま述べた自由にできる貨幣量というのは、日銀券だけではなく、むしろ大きな割合を占めるのは預金通貨のほうで、この点も「信用貨幣」(というとまた混乱するかもしれないので、「債権型貨幣」というべきか)を、経済理論のはじめのところで、思い切り抽象レベルをあげて定義することではじめて明らかになります。歴史モドキの貨幣の「発展」物語ですますのではなく、貨幣現象を生みだす「変容」や「多態化」のレイアをキッチリ原理論に作り込むことが、迂遠なようでも現象を理解するカギになると私は考えています。
(2)資本主義の原理論を資本主義の現象論から峻別することによって、原理論の発展が図られる反面、原理論と現象論が分離してしまう危険もある。岩田弘の「世界資本主義」の方法にこだわるつもりはないが、20世紀の世界資本主義を総括し、21世紀の世界資本主義を展望するためには、現象と理論を、世界資本主義の「歴史的過程(運動)、段階論」とそこに「内在する論理(運動の力学)、経済学原理論」の二つを、合わせて一つの世界資本主義像として描き出すことが問われているのではないか。
この世界資本主義フォーラムも、「経済学原理論」と「段階論」の両面から世界資本主義像に迫っていきたい。
一般論としてなら当たり障りのない総括かもしれません。しかし、私にはモヤモヤがつのるばかり。私は「二つを、合わせて一つ」という折衷をずっと批判してきたのです。発展段階論を「類型論」に変え、原理論を歴史的発展から切り離して再純化する「新純粋資本主義」論の「二つを、合わせて一つ」がダメな以上に、原理論の基本をなす「導出」型の説明が苦しくなると、外部から歴史的事実をもちこんで、解明すべき「変容」型の理論問題を糊塗してしまう「世界資本主義」論がもっとダメなことは報告のなかで述べたとおりです。純粋資本主義を斬り世界資本主義を斬り、右を斬り左を斬り、中央突破全面展開する覚悟がないと、「二つを、合わせて一つ」なんて都合のよいことはできないのだ、これが私の「変容論」だったのです。
(3)世界資本主義フォーラムは、経済学の専門的研究者と世界の変革にさまざまな場所で取り組んでいる者たちが、共に語り合う場と考えている。研究者と実践家の出会う広場(フォーラム)である。
今回のフォーラムの論議が、経済学の専門的研究者の間の論議に偏り、経済学専門家以外の一般の方々にとって発言しにくいかたちになってしまったのは、残念だった。
そうなった原因の一つは、貨幣論の原理論の側面にのみ話題が偏ってしまった。司会者として反省している。
小幡さんは、日銀の国債買い取り増大(日銀券の増発)は、それに見合った市中銀行の債権拡大に裏付けされているという。はたしてそうか?そこら辺の論議が足りなかった。
また細かい話に戻すつもりはありませんが最後の部分、私は「日銀の国債買い取り増大」は「日銀券の増発」にはならず、市中銀行の日銀当座預金の積み増しにおわり、「それに見合った市中銀行の債権拡大」にならなかったと述べたはずです。矢沢さんの「小幡さんは、…という」は、たいてい私の知らない「小幡さん」の発言で、「司会者は… が正しいと考えている」とすればわかる話です。それはともかく「今回のフォーラムの論議が、経済学の専門的研究者の間の論議に偏り、経済学専門家以外の一般の方々にとって発言しにくいかたちになってしまったのは、残念だった」、これは私も同じです。
私もフォーラム主催者からの要望に応え、少しムリして、国債累増やMMT、中央銀行デジタル通貨や仮想通貨もわかる範囲で話してみました。もう少し多くの方々に発言ねがえれば、2008年の金融危機をへても残存する新自由主義のイデオロギーに対して、国債の増発を通じて財政の規模を拡大し福祉国家の再建を指向する社会民主主義のイデオロギーと、貨幣論の関係などが話題になったはずです。この話題に対して私の用意した答えは、ひと言でいえば、
- 新しい福祉国家の可能性を追求することと
- それを貨幣論で基礎づけること
とは分けて考えるべきだ、ということでした。私は前者の意義を否定するものではありません。しかし、現代の貨幣は国家紙幣(に限りなく近いもの)だから — これが「似ている」を「同じ」にしてしまう没理論だと報告で批判したポイントです — 国債の増発に問題はないのだ、という誤った理論で根拠づけるべきではありません。国債増発のメリットとデメリットを明確にし、それでも財政を拡大して解決する意義を — これは社会的な価値観すなわちイデオロギーの問題になると思いますが — 正面から論じるべきです。誤った、あるいは曖昧な理論を隠れ蓑につかう悪癖から脱して、イデオロギーはイデオロギーとして自立すべきだ、というのが私の結論です。