世田谷市民大学2024第4講


労働の世界:その奥行き

はじめに

前回は、現代の貨幣に関して、貨幣の正体を柔軟に見なおし、それをもとに日銀券と預金通貨の関係や、その背後にある国債の問題について考えてみました。金融政策で不況から脱却しようとしても無理だという保守的な結論で、がっかりしたかもしれません。高度成長期には福祉国家を理想とする社会民主主義は、事実上、積極財政を支えるものとしてケインズ経済学を拠り所としていました。現代の左派のうちにも同じような傾向は受け継がれており、赤字国債を発行しても財政破綻の心配などないという「新しい貨幣理論」を支持する人たちも少なからずいます。そうした人たちには大いに不満であろうと思います。とはいえ、イデオロギーに牽引された理論が、結果的に大きな弊害をもたらしてきた経験を忘れるべきではないでしょう。

今回は現代資本主義における労働について考えてみます。労働の問題は、ただその現状を記述するだけではなく、今どのように変わりつつあるのか、これからさき、どのようになってゆくのか、という展望と深く結びついています。ここでは、どう変わるのかは、どう変えるかという価値判断、イデオロギーと不可分なところがあるのですが、ただそうした側面は極力避けることにします。そうした論争の前提となる共通認識のようなものを準備するのが、学問の第一の使命であると考えるからです。私はかつて、こんなふうに「科学とイデオロギーの分離」を説く宇野弘蔵には馴染めなかったのですが、長いこと教師をやっているうちに、いつの間にか同じことをいうようになっていました。環境が意識を規定するというべきか…桑原くわばら。

前置きが長くなりましたが、今回もまず第一に、労働とはそもそも何か、という原理的な問題に立ちいってみたいと思います。現代の労働を捉えるためには、資本主義のもとでの賃金労働に還元できない労働概念の拡張が不可欠だからです。この拡張を基礎に、第二に、現代資本主義のもとで労働の多様化について考えてます。いわば労働の質的な変容、労働世界の深まりがテーマです。これに対して、第三に賃労働が覆う領域の拡大について考えてゆきます。ここでは、今日の日本における資本と労働の関係を数字で記述してみます。資本主義における分配関係を捉えるうえで労働時間が有効な尺度たりうることも示してみたいと思います。

労働とは

合目的的活動

マルクスはまだ20代に書いた草稿などのなかで、おそらくヘーゲルの影響をうけてでしょう、「自己疎外」Selbstentfremdung の概念を軸に労働について多く論じています。この草稿は戦前に解読がはじまったものの、その後もなお長いこと埋もれていたのですが、戦後、とくにスターリン批判、ソ連型社会主義批判の一つの基礎として広く読まれるようになりました。私が最初に読んだマルクスの著作も『経済学・哲学草稿』でしたし、その訳者である城塚登先生が自著『若きマルクスの思想』をもとに講義された「社会思想史」を駒場で受講した覚えがあります。ただ『資本論』になると、搾取論が前面に押しだされ、商品の価値はその生産に必要な労働量によってきまるという労働価値説の影に、疎外論にみられたような労働そのものに対する哲学的考察は隠れてしまうのですが、それでも『資本論』第1部第5章第1節「労働過程」を読むと、労働をただ労働時間に還元するのとはひと味違う深い洞察が展開されています。

ここでは、人間の労働を特徴づける合目的的性格が次のように印象的に語られています。

クモは織布者の作業に似た作業を行なうし、ミツバチはその蟻の小室の建築によって多くの人間建築師を赤面させる。しかし、もっとも拙劣な建築師でももっとも優れたミツバチより最初から卓越している点は、建築師は小室をで建築する以前に自分の頭のなかでそれを建築しているということである。(Werke,23,S.193)

『国富論』では、犬どうしが骨と肉を交換したのはみたことがないが、人間どうしはお互いに相手の利己心に訴えて give and take ができるというレトリックで交換性向を人間の本性だと印象づけたのですが、『資本論』は目的と手段を分離して合理的に行動するところに人間の本性があると捉え、この行動様式を労働と規定するのです。

労働と生産

このように定義すると労働という概念がカバーする範囲は、通常考えられているものより、ずっと広い範囲を覆うことになります。どのように広がるのか、ざっとみておきましょう。

まず第一に、労働の結果は「生産」だとは限らないことになります。「生産」という概念は、厳密に定義しようとするとけっこう厄介です。「何か」が増えるか減るかという基準で、「消費」と対をなす「生産」という概念は定義されます。この「何か」は量として客観的には「はかる」ことができなくてなりません。ここではこの「はかれる何か」をカタカナで「モノ」と呼ぶことにします。「はかる」とはどういうことかという問題は、深入りするとむずかしくなりますが、少なくとも、取り替え可能であるモノ、混ぜたらわからなくなるモノが無数にあることが前提になります。こういう性質を英語では fungible というようです。ダビンチのモナリザは non-fungible ですが、その写真なら fungble になるわけです。モノは計測計量できればよいので、民法でいう「有体物」である必要はありません。「無体物」でもはかれればモノです。ミクロ経済学では「財・サービス」という区別をして「サービス」も交換対象となるといいます。『国富論』など19世紀の経済学が「財」のみを生産物としてきたのに対して「財・サービス」というのだと思いますが無意味な区別です。この区別を前提にして、現代の経済では財からサービスに重心が大きくシフトして、経済の「サービス化」が進んだというような議論は理論的基礎が薄弱な現象の記述です。マルクス経済学でもサービス労働は価値を形成するかといった論争がいまでもなされていますが、定義をめぐる混乱で終わるだけです。少し横道に逸れましたが、「モノ」は来週お話しする「情報」の問題を考える基礎になるので、アタマの片隅にメモしておいてください。

さて、生産というのは代替可能性をもつモノを増やすことであり、消費とは減らすことだと定義すると、労働は生産という面だけではなく消費という面ももちます。パンの生産は小麦粉の消費を伴います。むろん小麦粉がパンになることはありません。だれかが小麦粉をこねて発酵させ焼かないかぎり、パンという人工物は存在しないでしょう。その意味で労働はなされているのですが、それはパンを生産すると同時に小麦粉を消費しているのです。小麦粉をパンにするというというのは「作る」make に当たります。日本語では「作る」と「生産する」が同義に使われており、そのため「労働」=「作る」=「生産する」と一緒くたに考えてしまうが、最初の等号は成り立っても後の等号は成り立たない。労働はあるモノを別のモノに「する」がモノの量を増やすとはかぎりません。むずかしい話になってしまったが、ともかく、労働=生産という固定観念を払拭しておくことが、今日の労働を考えるうえでは不可欠になります。労働がおこなわれているのは会社や工場、家に帰れば労働などおこなわれていないというわけではないことを確認しておきましょう。

労働の三契機

労働という概念を人間に特有な目的意識的活動一般と広く規定するなら、そこには少なくとも

  1. 目的を定める

  2. 手段を整える

  3. 目的に向けて手段を操る

という三つの契機を考える必要があります。契機というのは、一つの全体構造を構成する要素のことです。バラバラな部品に分解できない有機的な性格を強調したいとき、要素要因といわずに契機といいます。

目的意識的に行動するには、まず何を実現するのか、目的をハッキリさせ、そのための手順をしっかり組み立てたうえで、実行に移る必要があります。なんとなく晩ご飯を作ろうではなく、何をどれだけと何をどれだけと… 数えられる、はかれるかたちできめる必要があります。家ではこんな面倒なことはしないでしょうが、レストランではたらくときはこうするでしょう。

手順というのは、目的から逆算して手段をきめることです。コンピュータのプログラムを書くときには、手順をどう組み立てるのか、昔はフローチャートを書いたりしたのですが、今風のオブジェクト指向言語でも考え方は同じです。レシピというのは一種のプログラムです。

こうした準備をしてから、はじめて実行に移るのですが、そこでは人間の身体活動が不可欠です。フライパンに油をしき、加熱して、タマゴを割ってとき、多少油煙がたつギリギリのあたりで、ジュッと一気に注ぎ…. まだまだありますが、はじめてオムレツができるわけです。この過程では、タマゴを割ったり説いたりフライパンを揺すったり中味を返したり、といった力もたしかにいるのですが、タイミングを見計らうには目耳鼻さらには熱を感じる皮膚感覚も動員しなくてはなりません。労働力は単なる動力でもエネルギー源でもありません。センサとメモリ・プロセッサとアクチュエータが必要なのです。事前に手順をきめても、実際の過程がその通り煤とは限りません。さまざまなノイズで予期せぬ方向に進まぬように、ふんわり仕上がったオムレツをイメージしながら微調整を繰り返す注意力が必要です。

労働世界の深さ

商業労働

行動の目的をきめるというのは、特段むずかしいことには思えないかもしれません。それは自分で自分の目的をきめる場合を想定しているからです。しかし、人間は自分がそうしたくなくても、他人のために行動することができます。自分が空腹でなくてもオムレツはつくれるのです。アタリまえ!… ですが、このアタリまえのことができるのは、相手がしてほしいことを知る能力があるからです。「知る」というのは“その気持ち、わかるよ”といったレベルでは済みません。相手の空腹など自分が感じることはできないからです。「自分が空腹だ」と「彼が空腹だ」の違いは「他我問題」という哲学の立派なテーマだそうですが、それはさておき、他人のためにはたらくには、モヤモヤした相手の欲求を、実現可能なハッキリした目的にする作業が必要となります。

目的の設定には、人間のコミュニケーション能力を暗黙の前提にしているのです。労働はコミュニケーション活動を伴うのです。マルクス経済学には昔から“「商業労働」は価値を形成するのか”という論争問題があるのですが、そもそも「商業労働」とは何か、という中味の分析をせずに商業=売買に関わる活動をひとまとめにして議論されてきました。中味に立ちいってみれば、そこに他人のモヤモヤした欲求を労働の目的になるような明確なかたちにするという要素が含まれているのに気づきます。これは店のなかでモノを運んだりレジでキーを売ったりするのとは別です。接客というのは商業に限らず,実はいろいろなところで必要になります。

プログラミング

手段を整えるという第二の局面では、食材や道具に対する知識が必要になります。この準備作用をちゃんと進めておけば、手段を操作して目的を実現する第三の過程はスムースに進みます。逆に、これを充分におこなわずに実行すると、途中で何度も中断しやり直すといった試行錯誤が求められることになります。とはいえ逆に、ありそうなトラブルを全部避けるために不必要な時間をかけるのも無意味なので、でたところ勝負、人間には臨機応変に対処する力がありますから、この熟練を磨くほうが効率的であることも否定できません。いずれにせよ、労働そのものにはいくつかの局面、要素で構成されている点に留意しておくことは現代の労働を考えるうえで重要です。コミュニケーションも知識もいらない、臨機応変に対処するカンも発揮できない、限られた局面だけを「本来の労働」として切り取るのは、貨幣のところで話した「本来の貨幣」の場合と同様、異なる様相をもって現れる対象を捉えそこなうことになります。

コンピュータを扱う活動では、自分でプログラミングコードを書くかどうかはべつに、たえず順番を考えて、入力したり読みだだしたり、うまくゆかなければ、元に戻って、別の入力をしたり、といった試行錯誤をすると思います。何度も戻ったり、先に進んだりするところがでてくれば、こうなったら右、でなければ左、のような基準もつかめるようになります。つまり、アタマのなかで条件分岐のプログラムを書いているのです。これでうまくいっていたのに、イレギュラーな出力にでくわすと、また遡って見なおしたりもするでしょう。デバッグしているのです。カーナビを使ったり、Web検索をしたりする場合でも実は知らず知らずに事実上プログラミングしているのです。

コンピュータをつかうことで明確に意識されるこうした過程は、従来からずっと自然になされてきたことです。ただそれが明確なかたちで取りだされ意識されることがなかっただけです。コンピュータをつかうことが一般化した今日の労働では、こうした手順を設計する局面がますます重要な契機となりつつあります。プログラミングコードをかく作業だけが、コンピュータをつかう労働ではありません。生成AIの発達でコード自体をかく作業は、どんどんコンピュータサイドに移行してゆきそうです。ただ、どういうことが実現したのか、を生成AIに伝えるにはコンピュータに対する知識が不可欠です。これからの労働では、手段を設計する第二の局面が大きくクローズアップされることになるのかもしれません。

マニュファル・レーバーの解体

とはいえ、資本主義の歴史を振りかえってみるかぎり、大多数の労働が第三の過程に、しかも同じ作業を繰り返す単純労働であったことは否定できません。『国富論』では、労働は labour は分娩であり、本来つらいもの、できれば避けたい toil and trouble だとされていますし、『資本論』をみても「機械と大工業」のなかでは機械の付属物に化した労働のすがたがクローズアップされています。

これは19世紀の出来事、過去の話だで済ますことはできません。H.ブレーヴァマンの『労働と独占資本:20世紀における労働の衰退』の翻訳が1978年に出版されました。この本では副題は、この単純化の過程が一貫して続いていると主張するものです。20世紀における労働の現場における豊富な事例をあげながら、労働に不可欠なスキルが次々に解体されてゆく衰退 degradation の過程が生き生きと描かれています。

コンピュータと労働

私も長い間ブレーヴァマンの説を受け容れてきました。「コンピュータと労働」という論文を書いたときも、“ブレーヴァマンのいう手先の労働 manual labour の解体はほぼ極限まで進んだが、それで人間の労働がなくなるわけではない、人間の知的活動だとずっと信じられてきた領域で、コンピュータという<道具>が登場し第2ラウンドの熟練の解体がはじまったのだ”と考えてきました。しかし、はたしてこの考えですむのか、直近のコンピュータサイエンスの急展開をみると、もう一度考えなおす必要がある気がしています。来週、情報について考えるなかでまたふれてみたいと思いますが、ともかく、20世紀における労働の大多数は、与えられた目的を実行する第三の局面が占めていました。とりわけ、そこで最後まで残った労働は、運転操縦型の労働だったと思います。このタイプの労働が今まさに、最後の自動化にさらされているように見えます。

ただ、これまでみてきたように、このことは「本来の労働」が消滅しつつあると捉えるのではなく、第三の局面に偏してきた労働のかたちが変容しつつあるのだと捉えるのが正解でしょう。問題は第一や第二の過程の労働は、資本主義の基礎にとなる「賃労働」の形式に馴染むのかどうかにあります。私はここに、現代資本主義がこの先変わらざるを得ない重要な契機が潜んでいるのではないかと考えています。

結合労働

最後にもう一つ、現代の労働について考えるとき留意すべきポイントがあります。それは労働の組織性の問題です。『資本論』では「協業」と「分業」というのがでてきます。英語でいえば Cooperation と Division of Labour です。明治時代に先に「分業」という訳語が固まって、これと調子を合わせるために『資本論』での訳語が「協業」となったのではないかと思います。「協業」という用語はマルクス経済学以外では長い間使われてこなかったのですが、最近では異業種のコラボを「協業」とかよぶそうです。『資本論』では労働者が同じ目的の実現のために、文字通り「協力」することを「協業」と呼んでいます。チームの労働です。雇われた労働者はバラバラに孤立してはたらくのではなく、たいていは組織のなかではたらくと思います。一人ではとてもできないようなことができたり(単純なのは重いモノのをみんなで押すケース)一人のときに比べてはるかに効率的にできたり(単純なのはバケツリレーなど)できるわけです。複雑な組織のなかでさまざまな労働をおこなう分業が進むのですが、資本主義的な生産組織の基礎にあるのは協業です。資本は多数の労働者を雇うだけで、このような集団力を自由にできるのです。

資本が目的は設定しますが、それに向かって労働者が協力するのは資本が逐一指図するからではありません。労働者同士が互いに連繋し一つのチームとして行動するのです。監督が一人一人の選手に指令をだすわけではありません。人間には目的に向かって互いに協力する能力が具わっています。これはその自由度において、集団で生活する他の生物に比してもダントツに優れています。言葉を自由に使えるというのが最大の理由かもしれませんが、指さしでも目線でもコミュニケーションはとれます。協業はこうした人間本来の広く柔軟なコミュニケーション能力を基礎にして、集団ではたらくことに効果をもたらすのです。資本は個々バラバラな労働力を賃労働として買うのですが、買った後はバラバラな労働力として使うのではなく、結合労働として使うのです。こうして、資本主義のもとではその集団力が資本のものとなるわけです。個々バラバラの労働者は、どんなに個人企業として対抗しようとしても、大量の労働力を買う資本に打ち勝つことはなかなかできないわけです。

さて、労働が組織性をもつこと、その基礎にあるのはコミュニケーションである点に注目すると、情報通信技術が現代の労働に対して与えるインパクトの一面が浮かび上がってきます。来週お話ししますが、通信は英語で Communication です。日本語の意思疎通という意味でのコミュニケーションは、通信の意味はありませんが、英語では両者に同じ語を当てています。たしかに、通信技術はコミュニケーションの様式を変える力をもっています。コンピュータサイエンスとインターネットのもつ底力は、労働組織のあり方をかえるこの変える力だといってようでしょう。その意味で、現代の労働を考えるとき、人間労働のもつ本質的な組織性が重要なポイントとなるのです。

労働世界の広がり

賃労働でない労働

以上は、労働概念を拡張することで、労働の世界のいわばタテの深化を考えてみたのですが、もう一つ、労働の世界のヨコの広がりの問題です。

すでに述べたように、労働概念を広く合目的的活動一般と捉えると、人間は眠っているとか、ボーとしているとか、そういうとき以外、ほとんど労働していることになります。これは、いくらなんでもちょっとばかり、概念の拡大のしすぎになるでしょう。目的をハッキリと定めた行動という意味であれば、もうその範囲は少し絞られるでしょう。とはいえこのように考えると、労働は会社や工場のなかでしかなされないわけではないことがわかります。要するに、貨幣を稼ぐ活動だけが労働だというわけではないのです。

合目的的な活動は、学校で勉強をしているときも、家で料理をしているときも、子供たちの通学路で見守りをしているときも、ボーっとやっているわけではないでしょう。こうした活動も歴とした労働です。世の中には賃労働の形式をとらないさまざまな姿の労働の世界が広く存在しているのです。現代の労働を考えるうえで、賃労働と非賃労働の境界線が組み換えられている点に注意する必要があります。I.イリイチの『シャドウ・ワーク: 生活のあり方を問う』の訳書がでたのが1982年で、シャドウ・ワークという用語が一時期氾濫したのですが、この種のカタカナ語はどうしても一過性のものになりやすく、今では使う人はあまりみませんが、言葉にこだわらなければずっと続いてきた問題です。

簡単な例

昔からよくいわれてきたことですが、実態はなにも変わらないのに、同じ労働が賃労働の形態をとることで国民所得が増大することはあります。たとえば300円の食材を買ってきて、30分間自分で調理してカツ丼をつくって食べる代わりに、時給1000円で30分間余計に残業して500円稼ぎ、カツ丼屋で一杯800円のカツ丼を食べたとします。このとき、私の所得が500円増えた分だけ国民所得もふえます。国民所得は文字通りある期間の国民の所得の合計だからです。

家でカツ丼をつくっても、それでは所得は増えません。ところが、残業してカツ丼を食べるようになるだけで、国民所得は増えるのです。もし自分の勤め先で残業する代わりに、カツ丼屋で30分アルバイトをして500円稼ぎ、800円のカツ丼1杯を食べると考えれば、この関係はもっとストレートに現れます。家でやってもカツ丼屋でやっても、カツ丼をつくるという活動に違いがなくても、国民所得は変わってくるのです。

つまらない例でしたが、家事労働が国民所得の計算に入っていない点は、国民所得が豊かさの指標にならない理由とされたり、市場経済化が進んでいない国地域の国民所得を先進資本主義国とそのまま国民所得と単純に比較することはできない理由とされたりしてきました。こうした賃金形態をとらない労働は、家事労働にはかぎりません。賃金労働が支配的な経済では、賃金収入をベースにした家族単位で考えやすいのですが、地域社会は単純な家族の集まりではありません。そこではさまざまなボランティア活動によって支えられているのです。いままで賃金労働の形態をとってこなかったこうした労働が、賃労働の形態をとることで、国民経済の規模はかわって現れます。現代資本主義の一つの大きな特徴は、このような賃労働と非賃労働のボーダーがどんどん賃労働サイドに押しひろげられてきていることにあります。子供を産み育てることにも、老いて死にゆく者を労ることにも、利潤を追求する資本に浸食され賃労働の対象となっています。もちろんすべてが一様にそうなるというわけではありません。賃金労働に置き換えやすい周辺から、少しずつ少しずつ部分的な浸食が進むのです。

付加価値

また話が労働の質のほうにいってしまいましたが、ここでは量を問題にしたいのでした。と思ってふりかえってみると、実は、いまさっきのカツ丼屋の計算にはちょっとゴマかしがありました。コマいことですが、どこがヘンなのでしょうか?クイズです。ヒント:「私の所得が500円増えた分だけ国民所得も増えます」のところ、もう一度考えてみてください。

カツ丼屋を経営する立場で考えればわかります。原材料を300円で買いバイトに30分500円払ってカツ丼を800円で売る…って、“うちはボランティアじゃないんだ”といいたくなるでしょう。時給1000円で30分、自分の会社で残業で考えても基本は同じです。どこであっても時給1000円の賃労働は、30分なら500円の賃金所得をもたらすだけではなく、それを雇う資本の側にも追加の利潤所得をもたらします。だから雇うのです。時給1000円の賃労働1時間は1000円以上の付加価値(賃金+利益)を生みだすのです。さっきのクイズの正解は、30分間余計に残業すると「賃金プラス利益だけ国民所得も増えます」といったものになるでしょう。

どうして利益がでるのか

時給1000円の賃労働30分に500円払って雇うと、どうして追加の利益がでるのでしょうか?クイズです。「そりゃ、利益がでるのはカツ丼の値段があがるからでしょう。800円ではなくて1000円になるから200円の利益がでるのだ。」…って、ハズレ、これは零点です。値上げしないと利益がでないという人は、自分だけが値上げできると思っているからで、回り回って自分の原材料価格が上がることを考えていないからです。賃金も同じ率で上がれば、値上げで得られると思っていた利益はチャラになるのです。このあたり、視野を広げて全体を見渡すには、やはり最低限の経済学は必要でしょう。

30分のバイトを雇ってつくったカツ丼でも利益をだすには、なにも1000円に値上げする必要はないのです。800円でもちゃんと利益がでていたのですから、この値段でもバイトがカツ丼をどんどんつくってくれれば、それだけ利益の量は増えます。もちろん、一杯あたりの利益つまりマージンの販売価格に対するマージン・レートがアップするわけではありませんが。

利益がでるのは30分で1杯以上のカツ丼ができるからです。カツ丼屋では一人でカツ丼を始めから終わりまでつくるわけではないでしょう。何人も従業員がいて仕込みから何から分業でやっているはずで、何分で1杯できるかはこうした従業員全員の労働時間をつくったカツ丼の数でわった平均の値になります。10人が1日8時間、つまり10 × 8 × 60 = 4800
はたらいて320杯つくるなら、1杯つくるのは4800 ÷ 320 = 15という計算になります。

30分で雇ったあるバイト労働は、この計算でゆくと、1杯ではなく2杯のカツ丼をつくることになります。もちろん、このためには1杯あたり300円、2杯なら600円が必要になります。30分で2杯ででき、1杯800円なら1600円の売上になります。ここからコストを引けば利益が残ります。1600 − 600 − 500 = 500がでるわけです。これはもちろん架空の話で、単純な比例計算ができないとか、いろいろコマイ話をするとキリがないのですが、理論ではこのあたり「単純化のために…と仮定する」とハショってよいことになっています。これでゆくと、要するに1杯あたりで600 + 250 + 250 = 800が原理なのです。『資本論』では、これもコマイ話をするといろいろあるのですが、不変資本c 可変資本 v 剰余価値 m として、 = c + v + m に対応すると考えてよいでしょう。付加価値 はv ではなくv + mなのです。

くどいですがもう一度、30分のバイトについてみておくと、30分でカツ丼2杯をつくり500円の賃金を得る、カツ丼屋は売値から原材料費と賃金を差し引いて1杯あたりのマージン250円、2杯で500円の利益を得る、ということになります。原材料費も2倍になりますが、これは中間生産物のであり、売値から控除される額で、それが増えようと減ろうと、カツ丼屋の付加価値には影響しません。カツ丼屋における付加価値は、その内部で新たにつくりだされた所得の合計であり、賃金+利益なのです。

スミスのドグマ

ついでだから、まだ腑に落ちない人のために、少しサービスしておきます。カツ丼屋だけで考えれば、付加価値は賃金+利益 $v+m$ かもしれません。でも社会全体でみれば、原材料費もそれを生産している資本のもとでは原材料費+賃金+利益 $c’+v’+m’$ になるので $v’+m’$の付加価値を形成する。さらに$c’$も $c”+v”+m”$ に分解され $v”+m”$ の付加価値を付加価値を形成する。こんな具合に中間生産物の原材料費はどんどん付加価値に分解できるから、社会全体でいえば $c$ は$v+m$ に分解できるのだ、これが『資本論』で「スミスのV+Mのドグマ」と呼ばれた議論です。『資本論』は生産手段生産部門と消費手段生産部門の二部門で構成される「再生産表式」を使って、このドグマを批判しています。ある期間、例えば1年をとってみると、つねに今年消費される生産手段は、今年すでに生産手段生産部門で生産されているのであって、生産手段ゼロのところからV + Mが積み重ねられて最終生産物がつくられるわけではありません。社会全体でみたとき、資本は生活手段に相当するvだけに投じられるのではなく、生産手段に相当するcにも投じられているのであり、資本がどれくらいもうかったかは分配率(剰余価値率)v/mではなく、利潤率v/(c + v)によってきまるというのです。『資本論』の議論は、このあと、第1回でもみたように、この利潤率が生産力が上昇するなかで傾向的に低落してゆくというパラドックスを強調するかたちに展開されてゆきます。

日本経済で目の子算

また理論のほうに話がずれてしまいました。現代資本主義論というテーマなので、もう少し現実の現象に引きつけた説明をすることにします。カツ丼屋の話はあくまで問題をみやすくするための例解(イラスト)だったので、たくさんの企業で構成されている現在の日本経済がどのように見えるのか、リアルな数字をいれてみたいと思います。

まず、総労働時間です。日本の労働力人口はざっと7000万人ということにします。一人8時間で5日はたくとして週40時間労働、年50週はたらくとすると2000時間となります。総労働時間は大まかにいって7 × 107 × 2 × 103 = 14 × 1010 = 1400となります。

次に国民所得ですがフロー・ストックの概要のフローのほうです。5ページの「(2)国民所得」で2022年のところをみると、ザッといって $$\small
\def\arraystretch{1.2}
\begin{array}{ccccccc}
雇用者報酬 &+& 財産所得 &+& 企業所得 &=&
国民所得 \\
300兆円 &+& 30兆円 &+& 80兆円 &=& 410兆円
\end{array}$$

となっています。雇用者報酬には役員報酬とかいろいろ入っているようですがコマイ話はなしにして、これを賃金総額とみなすことにします。すると、平均時給は
$$\small 300\times 10^{12} \div
14\times10^{10} \fallingdotseq 2140 円$$
時間あたりの付加価値は
$$\small 410\times 10^{12} \div
14\times10^{10} \fallingdotseq 2929 円$$

といったところになります。細かい数字は意味がありませんが、1時間労働することで、3000円の付加価値を形成し、そのうち2000円を賃金として受けとっていることになります。残りの1000円が広い意味で資本の所得となり、『資本論』の剰余価値率にほぼ相当する分配率は2/3ということになります。

ストックのほうもみておきます。「一国経済の貸借対照表」というすごいのがあって
$$\small
\def\arraystretch{1.2}
\begin{array}{ccccccc}
固定資産 &+& 在庫 &=& 生産資産\\
2174兆円 &+& 86兆円 &=& 2260兆円
\end{array}$$

となっています。在庫86兆円が1年間に何度も売られ買われしてフローの原材料費総額になっていると考えればよいのでしょう。賃金は後払いでストックとしての資本には現れないとすると、マルクス経済学でいう利潤率は
$$\small
\def\arraystretch{1.2}
\begin{array}{ccccccc}
&資本の利益 &\div& 生産資産\\
\fallingdotseq &(410-300) &\div& 2260\\
\fallingdotseq &0.05
\end{array}$$
ですからおよそ5%くらいというところでしょうか。剰余価値率は30%くらいでしたが、利潤率はこれよりずっと小さな値になります。

フローとストックの関係がわかりにくいかもしれませんが、固定資本の毎年の償却分と新規建設分の差がストックの固定資本総額を増減させるとみればよいのでしょう。内閣府の「国民経済計算」の数値をみるとだいたいのことはわかります。そのフロー編の「国内総生産勘定」をみると2022年の固定資本減耗が1459871億円、総固定資本形成が1479686億円で差し引き1479686 − 1459871 = 19815 ≒ 2 がストックとしての総固定資本の増加分という計算になるのでしょう。一年間に145兆円ぐらいの機械設備などが老朽廃棄されほぼ同額の新しいものに入れ替わっているようです。このデータでみると、対外関係を度外視すると、国民所得 410兆円にこの固定資本の更新分145兆円を加えた560兆円ほどが国内総生産 GDP ということになります。国際比較や経済成長率で使われる560兆円の国内総生産のほうが一般によくでてくる数値です。

つくるのに必要な時間と買うのに必要な時間

労働時間に関しては、これまでカツ丼を生産するのに直接必要な労働時間だけを考えたのですが、原材料を生産するのに必要な時間、つまりカツ丼を生産するのに間接的に必要な労働時間というのも、理論上は計算できます。この両方を合わせて、ある商品を生産するのに直接・間接に必要な労働時間を、その商品に「投下された労働時間」とか「対象化された労働時間」とよびここでは $t$ で表すことにします。

つぎにもう一つ、カツ丼の価格を時給で割った値を計算してみます。売値は「円」が単位、時給は「円/時間」が単位ですから、 ÷ の単位は「時間」になります。カツ丼なら 800 ÷ 1000/ = 0.8 = 48になります。この時間は何を意味しているのでしょうか。…カツ丼を1杯食べるのに、何分はたらかなくてはならないか、その時間です。「48分はたらいて1杯800円のカツ丼を食べた」、それだけのことですが、ではこの800円のカツ丼をつくるのに直接間接何分かかったのでしょうか。カツ丼屋で直接調理する時間は15分だったかもしれませんが、豚肉をつくったり調味料をつくったり、またそのための設備をつくったりと、たどってゆくと際限がありませんが、ともかく何分かになるハズです。

もし48分以上かかっていたらどうなるでしょうか。カツ丼一杯を食べるのに48分はたらかなくてはならないが、そのカツ丼一杯をつくるのに48分以上かかるとすると、カツ丼のコストは時給が1000円の労働で計算すると800円以上になってしまいます。資本サイドが赤字になるわけです。ということは、カツ丼屋が利益を上げられるのは、逆にカツ丼1杯が直接間接に48分以下で生産できるからだということになります。48分以下で、例えば24分で生産できるカツ丼を、労働者が48分はたらいて食べてくれるから、カツ丼屋は24分に相当する利益が得られるわけです。

価格で考えると等価交換がなされているようにみえますが、価格 $p$ と時給 $w$ できまる買うために必要な時間 $p/w$という時間を考えると、$p/w > t$ という不等式が成りたっているのです。ちょっと難しい話になってしまいましたが、最近のマルクス経済学の労働価値説はこんな議論もしているのです。小幡『経済原論』第2編第2章「生産」の1節2節あたりを読むと、もう少しちゃんとした説明がなされています。いずれにせよ、円ではなく労働時間で集計すると、全部で何時間はたらき、何時間分の生産物を手に入れたのか、両方とも時間単位なので、付加価値総額の分配がよりリアルにつかめるはずです。

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