広義の… という罠

昨年の夏でした。ある研究会で新著の批評を頼まれ、こんなスライドを使って、拙い報告をしました。少し時間ができたので、ちょっと文章にしておこうとはじめたところ、またもや方法の問題に深入り。結果的にコメントを逸脱した安田均『生産的労働の再検討』へのコメントになってしました。最近、若い人たちが頻りに「狭義の何々、広義の何々」という論法をつかうのですが、私は昔からこれがシックリこなかったので、安田さんの狭義、広義の生産的労働という議論に託った広義化論一般の批判に逸れてしまった次第です。

近くて遠きは

もう何十年もまえからの間柄ではありますが、いくら読んでもわかるようでわからない、そんな論文がこんど大部の書物として刊行され、コメントを頼まれました。頼まれれば断らないという定めどおり引き受けたのはいいのですが、例の如く難渋しました。傍からみると、同じようなことをいっている近き仲にみえましょうが、近くて遠きは学者の仲、またまた、辛口の批評になりました、あしからず。大黒弘慈『模倣と権力の経済学』『マルクスと贋金づくりたち』を読む

『資本論』の読まれ方

「マルクス主義・社会主義・社会民主主義 — 『資本論』とドイツ修正主義論争 —」という演目で一席との依頼、請われればよほどのことなきかぎり引き受ける、これが当研究所のモットー。そこで俄に「 『資本論』とドイツ修正主義論争 — 『資本論』の読まれ方 — 」なる話をいたしました。帰りがけに会の名前を尋ぬれば「遊子会」とやら、さればかかる粋狂も、またむべなるかな、と納得した次第。

『資本論』第1巻を読む III 第10回

第13章 機械と大工業 その6

前回は第6節と第7節を読んでみました。これらの節は、相対的剰余価値の生産という枠には収まらない議論が展開されています。その意味で第13章の第2層を構成しています。中心になっているのは、機械の導入の過程で、旧生産方法が破壊され機械の導入が進むなかで(第6節は「マニュファクチュア時代」の話で、第7節はそれ以降の現実と了解しますが)、就業労働者数の動態が考察されています。その意味で、第7篇の資本蓄積論と重なります。ただ、その内容は両極分解、窮乏化といった第7篇の基調とはズレています。絶えざる分解が継続し、労働力の反発と同時に吸収の側面が重視され、よりダイナミックな資本主義の発展過程が読みとれます。これは続く第5篇「絶対的並びに相対的剰余価値の生産」の基底をなす、形式的・実質的包摂論に、より親和的です。したがって、『資本論』のこの部分には、資本構成の不断の高度化の行きつく先を論じる資本主義的発展の理論とは異なる、過程論的な、もう一つの資本主義的発展の理論が潜んでいるという私の解釈を話してみました。しかし、この第13章にはさらにもう一層、第3の層が含まれています。ということで、今回はその第8節から第10節を検討してみます。なお、今回最終回でとりあげる、第8.9.10節の概要は、第9回のページにすでに掲示してあります。