第10章 相対的剰余価値の概念
「『資本論』を第1巻を読む」という読書会ですが、3年目に入りました。今回は第4篇「相対的剰余価値の生産」に進み、第10章「相対的剰余価値の概念」を読んでみます。短い章で、相対的剰余価値の概念自体については解釈で意見が分かれるところはそれほどないと思います。ただ、「特別剰余価値」や「強められた労働」をめぐっては議論が必要でしょう。さらに、個別と総体の関係の処理については、『資本論』の方法に関わる問題があると思うので、ここらを議論してみたいと思います。
第10章 相対的剰余価値の概念
「『資本論』を第1巻を読む」という読書会ですが、3年目に入りました。今回は第4篇「相対的剰余価値の生産」に進み、第10章「相対的剰余価値の概念」を読んでみます。短い章で、相対的剰余価値の概念自体については解釈で意見が分かれるところはそれほどないと思います。ただ、「特別剰余価値」や「強められた労働」をめぐっては議論が必要でしょう。さらに、個別と総体の関係の処理については、『資本論』の方法に関わる問題があると思うので、ここらを議論してみたいと思います。
「自著を語る」というタイトルで原稿を依頼され、恥ずかしながら恥ずかしげもなく、『労働市場と景気循環 — 恐慌論批判』についてこんなこと(『変革のアソシエ』No.24,2016.4.)を書いてみました。なんで恥ずかしいのか、っていうと….
なんで恥ずかしいのか、っていうと、典型的な再帰パラドックスに陥るのがミエミエだからです。「かつて自著で語った《自分》と、これから自著について語る《自分》は、どういう関係にあるの?」って…
私はむかし、「おまえはXX先生のご著書を誤解誤読誤解釈しておるぞ、私は先生にその真意を伺っておる」とお叱りをうけたとき、「著書というものは、書かれた時点で客観的なテキストに確定されるのであり、このテキストに対しては、著者も他の読者と同じ位置にたつんだ、自著も他著も、真意もラッキョウもないでしょう」なんて、思わず見得を切った都合上、今さら「自著を語る」なんていうタイトルで書くわけにいかない身の上なのです。
少し真面目に取り組む気なら、「自著」の著者としてではなく、あらためて一人の読者として、その著書がどのように読めるか解釈し、読みとった命題の真偽当否を批判するべきなんでしょうが、残念ながらまだそこまで自分の研究は前進していません。やはり著者として、この本について解説めいたことしか語れません。すると、著書そのもの(P)と、この「自著を語る」で追加的に語ったこと(P’)とは、どのような関係にあるのか、第三者の目でみると、多分(P)と(P’)の間にズレがでてくるはずでが、当人の目には(P)も(P’)も一体のものであり、(P)を批判されると(P’)を読めばそんな批判は真意を誤解していることがわかるはずだ、といった話になります。
実は、マルクス経済学を長い間やってきて、この種のやりとりに、もうかなりウンザリしているのです。なにせ本家本元のマルクスがシコタマ草稿を残してくれたので…(草稿をたどってみるのが無意味だといっているのではありません。新しい理論を考える重要なヒントとなるでしょう。ただ、テキスト解釈で「それは誤解だ、ちゃんと理解してしていない…」と門前払いすることばかりが頭にあって、肝心の理論の真偽適否をトイメンで論じることを避ける、そういうタイプの議論のしかたにウンザリしているのです。こういっても、「やっぱり、あいつはマルクスをないがしろにしている」と反感をかうことは覚悟していますが。)
話が横道に逸れますが、その意味で、アダム・スミスが草稿や手紙を焼いちゃったのは卓見ですね。それでも、東京大学経済学部にはこのスミスの蔵書の一部があり、こんなものがあるだけで、「そこにある書込に、もしやスミス自身のものがありはせぬか、大部分は違うだろう….でもどっかにちょっとは、スミスの真意を示唆する書込が埋もれているんじゃないか」などとつまらぬ穿鑿をしてみたくなります。ただ私自身は、もっとアッサリと、理論は理論として論理を追求するのが第一で、それをだれがいおうと、真偽が変わらぬのが理論だと考えたいのです。もちろん、この「考えたい」というのは、論理的でてくる結論ではなく、ただのドグマ、あるいは私の好みにすぎないのですが…
さて、そんなわけで初々しい若者に「自著でちゃんと語れないから、あとで自著についてあれこれ語るんじゃないですか、それでまた、だれかに批判されると、実は私の真意はこうなんだ、なんて、弁明を繰り返す、そんなのアリですか?」なんて問い詰められると二の句が継げません。かといって、だから「ワタクシ(どんなクシだか?)は筋の通らぬ(この髪じゃムリだ)ことはキライです、自著を語るというタイトルじゃ、書きません」なんて苦虫噛みつぶしたような顔で断れば「まったく困った爺さんだ」ということになります。この種の頑固な爺さんたちに若いころ、さんざん苦労させられた私としては、この歳になっても、あんな爺さんだけにはなりたくない、とただただ願うのみ、ということで、恥ずかしながら語ってみた次第です。
第8章 労働日 –その2
今回は「労働日」の後半、第5節から第7節までを読んでみます。今回も細部には踏みこめませんが、この章のもつ意義、『資本論』という書物の性格について考えてみたいと思います。
第8章 労働日 –その1
今回は「労働日」の前半、第1節から第4節までを読んでみます。第5節以下では「工場法」の成立過程が対象になりますが、この前半は工場法の圏外におかれた職種の労働に関するレポートです。細部に踏みこむとおもしろい(踏みこまないと無味乾燥)と思いますが、そこは各自で楽しんでもらうこととして、ここでは『資本論』第1巻全体のなかで、このような記述は、どのように位置づけ評価したらよいのか、そもそもこの本はどういう性格の本なのか、できたら、そのあたりをみなさんと探ってみたいと思います。続きを読む →