2006-10-13

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#style2(end) 山口系一

青才先生から、学会報告の準備としてやってみてはどうかというご意見 がありましたが、小幡先生やゼミの皆さんがよろしければ担当させて いただければと思います。

ただ、私の報告する分科会の司会を担当されるのが小幡先生なので、 二度報告を聞かされる羽目になる小幡先生にはおつらいかもしれません。

また、学会前にゼミで報告すると、青才先生が参加される分科会の裏で 報告する私の参加する分科会には、人がますます集まらないのではないか、 という危惧を抱いてしまいますが…。

とにかく、他に担当をご希望される方がいないかぎりで冬学期1回目の ゼミで報告をさせていただきたいと思います。

ご意見、お待ちしております。

報告要旨

山口系一 (2006-10-10 (火) 02:25:15)

学会報告当日に配布予定のレジュメがもう少し時間がかかりますので、とりあえず報告要旨のほうを添付しておきます。これは第54回大会「報告要旨」として経済理論学会会員の方ならすでに郵送されているものです。

申し訳ありません

山口系一 (2006-10-12 (木) 16:43:31)

ゼミでのレジュメは明日(10/13)午前中までにはアップしますが、人数分のコピーは作っていきます。データなどの整理に手間取ってしまいました。明日はよろしくお願いします。

寸評

obata (2006-10-14 (土) 04:41:20)

エネルギー問題だけに、なかなか熱のこもった議論をうかがったので、ちょっとクールダウンしてみます。

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分散とは

分散というのはネットワークをつくるという意味になる。全体から切り離され、部分を隔離的に独立させるという意味ではない。

電力の場合、送電網は物理的にはすでに完成している。ただ、エネルギー=コンテンツは上流の巨大な電力プラントから、一方的に下流にむかって供給されるかたちになっていた。これは、テレビ・ラジオなどの従来のあり方と同じである。これがインターネットの普及で、逆に末端のほうからもコンテンツを流すことができるようになる。上流下流関係が相対化されるようになった。これと同じようなことが、送電線、配電系でもおこっているということでしょう。分散化という用語はいささか表層的かもしれません。電力エネルギーの場合、送電線網はくまなく張り巡らされているので、ネットワークの物理的な基盤としては完成しているといってもよい。最近は、光ファイバー網など新しくはらずに、コンセントから電力線にデジタル情報を流せばいい、という人もいるようです。いわんや、末端で発電ができるようになると、この末端どうしで、エネルギーの授受分配が自由にできるようになる、ということがポイントなのでしょう。

地域主義

だから、この関係を地域社会の自立とつなげて考えるというアイデアには、もう少し工夫がいるのではないでしょうか。語義的には、分散は地域化を連想させますが、分散の意味は統合、システム化、全体化です。末端の自立性は、全体につながることで確保される。世田谷区とか、東京都とか、そういう地理的な地域で閉じる、その意味で分離・独立する、という物理空間的な自立ではない。ネットワーク・システム(とか、こじゃれたことばをつかうと赤面してしまう質なので、書いていてちょっと困っているのですが)では、外部につながるということが、自立ということになる。アナーキズムの世界です。末端の個別の自立が、外部に、またその外部にと、多層的につながる階層化がなされる、という例の原理でしょう。

多層性

したがって、地域主義というのも、この種の多層性で捉えなおす必要がある。一種の相対主義です。インターネットの原理を考えると分かりやすいでしょう。フラットな個体の集合が、いきなり全体を構成するのではなく、末端があるといえばあるのですが、これも実はルーターでつないでやると、その下にネットワークをつくることができるので、どこかに最終端末があるというわけではない。ある末端は、外部のWANから見ると一点ですが、その下には、同じ構造のネットワークが広がっていることもある。家庭内LANがあるわけです。LANのなかにも、また無線LANでいろいろな端末をネットワークに構成していることもあり、原理的には、閉じていない192.168.1.1.といった階層構成の仕組みです。ネットワーク上のLocalというのは、切ってつなぐ切れ字的構造をもっているのです。

電力の分散化の場合、この意味でのインターネット的な構成が、果たしてどう構想されているのか、このあたりが基礎・技術的には決め手になるでしょう。外部につながるノードがあって、何層にも構造化されており、その点から下は、なにをしようと自由だ、というコントロールの権限が確保できる、その意味で自治が与えられる、というかたちが、送電システムに成りたつのかどうか、このあたりです。インターネットと同じように、電力エネルギーが階層に区切られて配送されていれば、この種のローカルの概念を考えることができるのですが、どうでしょうか。

山口報告では、IT産業と電力とが比較されているのですが、IT産業というのはかなり曖昧なところがあるので、私はインターネットを想定して、電話会社などと類似から考えたほうがよいかなと、思った次第です。もちろん、マイクロ・発電装置をパーソナルコンピュータに喩えれば、もっと広く、IT産業という内容を広げることもできるのですが、本質は切ってつなぐ、つなぐ方の原理でしょう。切ること自体は、孤立化であっても、けっして自立化ではない。パソコンで自立化というかというと、たしかに大型コンピュータでやっていた作業をPCでできるようになったから、バラバラに自立した、と見なすこともできるのですが、これは当たっていません。この辺はご承知だとは思いますが、IT産業というような茫洋とした捉え方をせずに、その内部を分析して、どんな構造をもっており、その核心部はなにか、というような分析を打ちだてもらうと議論が進むと思います。

コントロール

ということになると、けっきょく、山口報告の結論に当たる、地域主義的な価値観をこの問題に接合するとすれば、送電網がネットワーク的な構成をもちうるのか、がポイントになります。そして、それは物理的な意味でも、あるいは空間的な意味での地域ではなく、全体がフラットな個体の集合ではなく、中間に階層を形成してゆく構造になっている点が前提です。そして、このようなインターネット型の構造なら、どのようにローカルを形成するか、だれがどのような権限で管理するのか、管理権をめぐる闘争が生じるのです。送電線経由で、アナーキーに自由に電力を売り買いしてよいのか、しかし、このあたり送電網世界も、無抵抗のスペースではないでしょうから、いろいろな社会的問題を引きおこすはずです。どっかのノードが輻輳するとか、ピークで停電するとか、この種のフィジカルなレベルでの摩擦問題(技術レベル)をだれがどのような権限で処理するのか、このコントロール問題(社会レベル)が地域主義と結びつく、と考えるべきかと思います。ともかく、分散化、それなら地域の時代ね、といった情緒的連想を理論的に分析し抜かないと、地域主義との接点はでてこないでしょう。

送電線上のアリア

ならぬ、送電線上のイデオロギーなんですが、こっちはノイジーです。問題の構造は、こうなっているように思います。

  1. 電力エネルギーをめぐって新しい技術が発生した。新しい技術であるため、いくつかの方向で選択の余地がある(実際にはそんなにないのに、あったほうがいいと思うから、可能性としていろいろな願望を込めるのであるようにみえるのです)。この点に留意して、ともかく、技術面での基本的な選択肢、方向性を洗いだしてみる必要性がある。アリアを奏でる線の物理的分析です。
    1. 末端の発電能力
    2. 送電網の読替(送電からネットワークへ:インターネットたり得るのか、この点は?)
  2. 従来の国家型の管理、幾分社会主義的な傾向もある、巨大技術の優位と計画経済、これに連携した官僚的な福祉国家、公務員型社会主義などなど、この種の(そのうち分析します)イデオロギーが、攻撃されている。
  3. 民営化論者が、市場原理を送電線上に流している。
    1. 山口さんの意見では、民営化論者は送電網と電力「生産」との分離論が中心(電話回線のときと同じ)
    2. もっとアナーキーな民営化論者は、電力供給へどのような資本も参加できるようにして、私的競争をさせるのでしょう。道路交通網はだれでも利用できるのであるから、郵便事業や荷物の配送事業をだれにでも開放すべしといったノリの連中でしょう。
  4. これに社会主義者的な主張が、地域主義とか、共同体史観とか、といった主張をまとって参入する。

ともかく、新しい技術であるから、いろいろなイデオロギーで斯くあるべし、と思えば、都合のよい可能性を読みとることができます。技術とイデオロギーの問題を考えるうえでは、なかなかおもしろい劇場です。イデオロギー的な主張は、自らをイデオロギーだとはいわず、科学だ、技術だ、規定します。「電力独占は、いまやもう自然独占じゃない、それに拘泥するのは、客観的真理、新たな現実を無視した、時代遅れのイデオロギーだ」と非難すれば、「いやいや、それはあまりに浅薄な聞きかじりでしょう、そんなことだと、ピーク時で停電します、しっかり管理しないと国がダメだ」なとやりかえす。割って入って、「分散化のなのだから、国家はいらない、地方の自治を支える技術が登場したのだ、新たな社会主義は新しい技術がうみだすのだ」などと、わかったようなわからないような、唯物史観張りの蒸し返しをはじめる。御本人たちは、朗々とアリアを歌い上げているのでしょうが、送電線上は Possible World、ノイジーなこと限りなし、といった感じです。


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Last-modified: 2021-02-20 (土) 17:32:13