• 2005年7月8日 演習報告

協業論の射程

obata (2005-07-02 11:38:54 (土))

演習で検討するという木村論文でも、労働の感情的な側面が一つの焦点になっていたと思います。このあたり、掘り下げてもらうとおもしろいと思います。obata/協業と感情労働ものぞいてみてください。

  • 「感情労働」というのはすでに特別の意味でつかわれているので、もうちょっと工夫した用語を考えます。 -- obata 2005-07-02 11:41:31 (土)

協業の構造

obata (2005-07-09 06:45:34 (土))
昨日の演習の終わりのころ、板書しつつとりあえずまとめた論点です。

結合の原理

競争心のように人が集まることで発生する活気が存在する。これは顔が見えること、相手を意識できること、が必要である。物理的な場でなくてもかまわないが、ともかく一カ所に集まる、ということである。
この側面は、たぶんに感性的な側面である。この側面では、コミュニケーションがとれるということが重要でとなる。指揮というのも、外部から統制するのではなく、こうした心理的な同期を生みだす側面がある。内発的な同期の調整のようなものである。マルクスの協業論の後半は、この指揮監督を論じたあたりから、それを資本家が担当する話に移り、この内発性の認識が後退しているように思われる。

規模の原理

これは端的に単純協業で論じられるような、集合力の理論である。一人では動かない物体を、複数の人間が押すことで動くという類のものである。規模の効果であろう。この原理は、大規模化が生みだす効果であり、『資本論』第1巻のなかで、基調として規模の拡大、集中・集積が一貫してテーマとなり、大規模なものが小規模なものを打ち破り、統合し拡大を続けるという原理が強調されている。宇野の場合にはこの側面が削られている(協業論も集中・集積論も)。しかし、マルクス経済学では、これがもっとも一般的な特徴であると考えられてきた。

協業と歴史性

木村論文をはじめ、一般に協業論には疎外論的色調が強い、というのが正上報告の基調だった。
たとえば

  • 協業一般はプラスに評価
  • 資本主義的協業は資本による指揮、支配の状態
  • この疎外態の止揚:協業は協力であり、将来社会の基礎となる労働様式

といったとらえ方が広くあるのではないかというのである。

これに対して、協業には指揮・監督をめぐる固有のディレンマがある。支配の原理から脱却したフラットな協業というのがあるのか、という疑問が正上報告には伏在しているようにみえる。

これは一種のアナーキズムだろう。アナーキストは一般に協業を低く評価し、分業の積極的意味を前面に押しだす。マルクス主義者は、相対的に協業の意義を強調する傾向にあるのではないかと思う(が、ちょっと脱線かも)。

ともかく、分業と協業との社会主義者の評価と関係づけについては、また、別に考えてみることにする。


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Last-modified: 2021-02-20 (土) 17:32:13