経済原則と人口問題

obata (2006-05-27 (土) 04:51:26)

人口がいわゆる「経済原則」のなかでどのようにあつかわれてきたのか、という問題を議論してみた。両者の間には、いままでかならずしも明確にされてこなかったいくつかの問題がある。経済原則と人口動態とのギャップを理論上の段差を分解してみると次のようになる。

  1. 経済原則と雇用人口|資本構成の高度化の蓄積によって形成される相対的過剰人口の理論で、自然人口の動態と雇用量の間を切断
  2. 経済法則と労働力の「再生産」|労働力の再生産費に、養育費が含まれているが、
    1. <家族>を通じた「再生産」になっている。
    2. 生活物資の増減とと自然人口の増減は関係が薄い。
    3. 雇用された労働者について養育費は意味をもつが、失業者は家族はもとより自身の生存もどうなるのか、考えられていない。資本主義では、労働市場を市場として機能するために、産業予備軍の存在は不可欠であるが、この存在がどのように維持されるのか、これは原論では正面から論じられていない。
    4. 斉藤君の報告に引きつけていうと、<出産>と人口増とは直接につながらない。栄養状態や医療など、多くの媒介項がある。

経済原則とジェンダー

obata (2006-05-27 (土) 05:03:57)

「経済原則」という考え方を必ずしも積極的につかう立場ではないが、この考え方にはジェンダーの観点は組み込まれていない。ジェンダー論のひとつの方向は、資本主義なり社会のあり方が変われば解消するというかたちでジェンダーを論いることに反対すると思う。それは解消しがたい本源的なギャップであろう。これを特殊歴史的な環境が生みだすギャップだとするのは、近代的な啓蒙主義の浅薄さを示すものだ、ということになるのだろう。私はこの立場はとらないが、こういう立場もあることは諒解しておこないといけない。

経済原則も、ひろく原論もこのような問題に対して、今のところ、手がかりになるような導入口はない。やるのなら、多少がんばって、原論のどこに同口を開くか、この点から考えてゆく必要がある。市場はジェンダーフリーか、労働力の「再生産」はどうか、協業分業はどうか、といった具合である。いちばん通俗的なのは、例によって、原論はこうしたギャップ、差別には問題にできない、それは段階論の問題だ、として、問題のすべてを外に丸投げしてしまう立場である。この種の問題が、すべてが原論で説けるというわけではない、ということと、それはすべて段階論の問題だ、というのとは別のことである。

この区別がつかないものだから、ちょっとでも通俗的な原論に書いてない問題に直面するや、思考停止して、それは原論の問題ではない、といってしまうのでは真の理論的な発展は望めない。難しいのは当たり前で、難しいことを充分自覚して、しかし、外に丸投げしてしまわずに、どこまでどのように論理的に説明できるのか、分析してゆく必要があると思う。


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Last-modified: 2021-02-20 (土) 17:32:13