コメント:戦間期のフランス資本主義

obata --- 2007-01-13 (土) 22:01:29

ほとんど知らないフランス資本主義のはなしで勉強になりました。演習のときに原論がらみで議論したことをメモしておきます。

段階論という方法

宇野の段階論と唯物史観との関係

宇野自身もまた宇野派の論者も、下部構造を原理論が明らかにする、これに対して、上部構造的なも問題は段階論の対応すると考えている。

唯物史観下部構造が社会の基礎である上部構造は下部構造を反映する
宇野段階論原理論の自立性(純粋な資本主義)段階論は下部構造から独立
山口類型論原理論にはいくつかのブラック・ボックスがある段階論でさまざまな非市場的な要因が入る

マルクスと宇野では、下部構造と上部構造、原理路と段階論とを分離することは共通する。しかし、宇野の段階論の特徴は、それが純粋資本主義によって規定されるという観点はない。純粋資本主義の対象となる原理論では説明できない段階論的な要因を強調する。宇野は反映論にきわめて懐疑的であり、対象を模写する方法も対象に模写する、というわかるようでわからない措辞で終わっている。

宇野はときに経済学で唯物史観を基礎づけるというが、マルクスのような明確な規定関係を否定している点で、それは唯物史観とは決定的に異なる。山口類型論は違いを明示したものである。それは宇野のうちになお残っていた、純化・不純化論を清算する。宇野の場合、生成・発展・爛熟という歴史的な変化が段階論になお残存していたが、実質的にはこの移行過程は偶然的であり、変容は理論の射程外とされていた。山口類型論は、発展段階という歴史的系列を切り捨てることで、現実の資本主義はブラック・ボックスになにが入るかによって多様に多様なのだ、と宣言するものだった。

「国民性」とは

ブラック・ボックスの話がでたところで、またまた脱線した。フランス資本主義を考えるとやはり「国民性」というようなことを考えたくなる、これで説明するとなんとなく説得的で、逆にこういうものを完全に無視すると、特定の資本主義を説明するのにいろいろむずかしい問題がでてくる、という発現があった。マルクス主義の公式からいえば、存在が意識を規定するのであり、国民性で資本主義の差異を説明するのは観念論だ、ということになる。しかし、これには反論も多い。国民性というといかにも漠としていい加減だが、制度などといえば、たしかに制度が資本主義の差異を規定しているのだ、という主張は最近のはやりだし、宇野の段階論もある意味で、原理論では説明できない、つまりそれによって規定されない、制度的な要因を段階論で構成せいているといえばいえる。

ここにある本質的な問題は、時間差の問題だと思われる。国民性というにせよ、制度というにせよ、いずれにせよ普遍的なものではない。その歴史性を明確にした点はマルクスが正しい。しかし、ある段階で形成された制度は、次の段階の経済社会を規定する。そしてこの新たな段階の経済社会がまた、新たな制度を生む。つまり、ここには時間的なラグを伴う作用・反作用がはたらくのである。このように考えると、制度と経済過程とは時間差を伴う因果関係にはいるわけである。

このような関係はさらにふみこんで分析的に考えてみる必要がある。唯物史観は、上部構造と下部構造とは基本的に安定的な関係にあり、底では下部構造が上部構造を規定し、両者は整合性を保っている。ところが、生産力が高まるなかで、潜在的に「矛盾」が増大してゆき、ある点で突発的な、急激な、全面的な変化が集中的の起こり、不連続につぎの下部構造と上部構造が安定した状態に移行する、と考えられているように思われる。この不連続変化のアイディアは重要だと思うが、しかし、この変化の局面の内部構造は必ずしも充分に概念化されているとは思えない。深考に付したい。

いわゆる二重構造的特徴” 

「雇用者数で見た企業規模と、競争力は別のことではないか。中小零細企業が多いから、発展していないとは言えない。」という報告者の疑問点をうけて、原理論では二重構造の問題をどう考えるのですか、という鋭い質問に窮しつつ、つらつら考えるに......企業規模に関しては、原理的に分析的に深める必要がある、と自答した次第である。

生産規模の問題

協業論である。しかし、分業論が示す逆の性質がある。両者の理論的な関係は未解決である。

一般に生産単位の規模の増大が生産力を高くするという通念があるが、根拠は薄い。市場価値論なども、これを前提に、上・中・下の資本を想定しているが、このあたり、何とも論拠薄弱。

資本規模の問題

同じ規模の工場を多く抱えるというかたちで、資本規模が大きくなるということもある。単位的な生産規模という意味では、大資本も小資本もかわりはない。大資本は、ただ、多くの工場を有する、というだけである。しかし、実際にはこの側面が企業規模のもたらす本質であるかもしれない。それは、組織のための費用や市場に対する支配力など、いわゆる市場的な要因における規模のメリットを生みだす。流通費用や流通資本の問題として、原理論の世界では理論化されるところである。この領域を規模の問題として明示的に扱ってきたかというと、この点も心許ないところがある。今後の課題である。

二重構造論

これは産業によって、大企業が不可欠となる産業と、中小企業が支配的なる産業とが両極分解するという問題。にているが区別しなくてはならないのは、同じ産業のなかに、規模の異なる産業が併存するという問題である。市場価値論が問題にしているのは、こちらのほうである。もし、単純に、産業間に最適な資本規模があり、それらが技術的にきまるのであれば、原理的に考えると、生産価格論的な問題であり、資本規模の違いが利潤率の草をうむということにはならないはずである。

戦後の「計画」 フランスの特色は何か。

玉田フランス資本主義論は、大内力氏の国家独占資本主義論を念頭において、戦間期から戦後を論じている。しかし、大内氏の議論の特徴は、反計画的な国家独占資本主義論である。正統派が、独占と国家の計画的な介入とをむすびつけたのに対して、大内氏はほとんど原理論的な世界でただ金本位制を外したら、マイルドなインフレーションのもとで労賃投機が緩和され、高度星条旗のような状況が持続する、というかたちで、直接的案国家の介入を否定するところに特徴がある。この流れと、玉田氏のいうフランス資本主義が戦後に示した、官僚統制的なフランスの計画化の特徴はズレが大きい。

フランス革命がある意味でフランスに特有な官僚統制、理神論的な計画化を内包した面があり、フランス革命がロシア革命にコピーされるときにとくにエリートによる統制、党による指導という計画のアイデアが普遍化したのであり、ソビエトロシアで増幅された計画経済の理念が戦後のフランスに逆輸入された、というのが、フランスの「計画」の内実だったのではないか。


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Last-modified: 2021-02-20 (土) 17:32:13