コメント:原理論の方法に関する一省察

4段階説と類型化論

3先生が事実上4段階論的な段階論を構成するようになった歴史的事実がある。 純化不純化論では、3段階と4段階は区別できない。 こうした事情もあり、原理論の構成も見なおされる。 純化・不純化論をこえた類型化論の基礎としての原理論が構想されるようになった。 こんなかんじかなとおもいます。

純粋資本主義の解剖

一枚岩的な概念ではない。

純粋化の過程は、自由主義段階に入るまえ(原始的蓄積の過程)か、自由主義段階の終演を 告げる逆転現象の発生するまで続くのか。

純粋資本主義の基本的契機

  1. 三大階級
  2. 周期的景気循環
  3. 商品経済化
三大階級重視周期的景気循環重視
純化=19世紀初頭まで
純化=19世紀末まで

純粋化論は無用か

静態的な純粋状態を想定するアプローチは無用だが、ただ単なる類型化論では、並列・羅列になる。類型と類型の間の関連を明確にする、もう少し積極的に関連づければ変容というかたちで関連づけるという意味で、純化不純化論には意義がある。

経済人とブラックボックス

経済人が主たる要因、陽の動力である。原理論を単一の論理関係として構成するということが目的である。これによって逆に、理論的にはそれ以上、説明できない壁がみえてくる。経済人的な行動だけでは演繹的に導出できない問題については、その存在を明示する。これが、ブラックボックスといったものを想定するとれば、その積極的意義である。19世紀の現実とか、その傾向とかいったかたちで安易に事実に頼らないというのが基本的な精神である。理論的に導きだされたものとそうではないものとを混在させ、それをを客観主義とか歴史的理論などと適当に事実を反映させたりしないというのは理論としては重要なことである。

しかし、山口ブラックボックス論には、こうした理論展開の崖としてのブラックボックスだけではなく、市場以外の要因を抛り込み羅列するといった意味のない、雑多なブラックボックスも存在する。原論の展開内容に直接影響がないか、あっても効果が複雑で一義的な理論的帰結が捉えられないものを雑多にまき散らすべきではない。

一般性とは

段階論に示される複数の資本主義の共通項ではない。外部から観察してどれが共通かを論じても、恣意的で決め手を欠く。原理論の意義は、論理展開で内部から一貫して説明可能な像を造ることで、一般性を与えるところにある。

これは、19世紀中葉のイギリス、あるいはそこにいたる過程をさらに延長した純粋資本主義の<事実>をもって、共通項のかわりにする場合も同じである。山口さんの議論はこの種の帰納主義的な取り込みをとことん避けたものである。これは1次的な接近であるともいう。なにが資本主義のとって一般的であるかは、論理的に検証するほかないというわけである。

論理だけで説明できない要素は、安易に原理にもちこまずに、明示する、というのが精神である。19世紀中葉でいいし、あるいはともかく現在までにらんでも、貨幣の単一性は<事実>であるが、それが理論的に説明しきれないところあるのであれば、事実に反しても一つになる力とともに、またそれを阻害する力がある、と明言するほうがよい。また、19世紀中葉に仮に支配的でなくても、株式資本は商品経済的な動力で出てくる面があるので、原理的に説くべし、という結論にもなる。

このあたりの、論理主義をふまえて、山口批判はやった方がよいと思う。一般性とは基準であり、尺度であり、したがって、共通部分だというような方向でまとめるのは、基本を外すことになる。



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Last-modified: 2021-02-20 (土) 17:32:13