資本の前貸概念について

  • 重商主義的な流れと重農主義的な流れがあるか?
  • スミス、リカードのケースはどうか。
  • J.S.ミルから、グレイなど、銀行創設にいたるなかで、前貸概念が用いられている可能性。
  • 投資 investment 概念がいつ頃から、前貸にかわっていったのか。

資本の誕生と商品経済の発達

K.,I, S.183-84

パラグラフA:Die Frage, warum dieser freie Arbeiter ihm in der Zirkulationssph?re gegen?bertritt, interessiert den Geldbesitzer nicht, der den Arbeitsmarkt als eine besondre Abteilung des Warenmarkts vorfindet. Und einstweilen interessiert sie uns ebensowenig. Wir halten theoretisch an der Tatsache fest, wie der Geldbesitzer praktisch. Eins jedoch ist klar. Die Natur produziert nicht auf der einen Seite Geld- oder Warenbesitzer und auf der andren blo?e Besitzer der eignen Arbeitskr?fte. Dies Verh?ltnis ist kein naturgeschichtliches und ebensowenig ein gesellschaftliches, das allen Geschichtsperioden gemein w?re. Es ist offenbar selbst das Resultat einer vorhergegangenen historischen Entwicklung, das Produkt vieler ?konomischen Umw?lzungen, des Untergangs einer ganzen Reihe ?lterer Formationen der gesellschaftlichen Produktion.

パラグラフB:Auch die ?konomischen Kategorien, die wir fr?her betrachtet, tragen ihre geschichtliche Spur. Im Dasein des Produkts als Ware sind bestimmte historische Bedingungen eingeh?llt. Um Ware zu werden, darf das Produkt nicht als unmittelbares Subsistenzmittel f?r den Produzenten selbst produziert werden. H?tten wir weiter geforscht: Unter welchen Umst?nden nehmen alle oder nimmt auch nur die Mehrzahl der Produkte die Form der <184> Ware an, so h?tte sich gefunden, da? dies nur auf Grundlage einer ganz spezifischen, der kapitalistischen Produktionsweise, geschieht. Eine solche Untersuchung lag jedoch der Analyse der Ware fern. Warenproduktion und Warenzirkulation k?nnen stattfinden, obgleich die weit ?berwiegende Produktenmasse, unmittelbar auf den Selbstbedarf gerichtet, sich nicht in Ware verwandelt, der gesellschaftliche Produktionsproze? also noch lange nicht in seiner ganzen Breite und Tiefe vom Tauschwert beherrscht ist. Die Darstellung des Produkts als Ware bedingt eine so weit entwickelte Teilung der Arbeit innerhalb der Gesellschaft, da? die Scheidung zwischen Gebrauchswert und Tauschwert, die im unmittelbaren Tauschhandel erst beginnt, bereits vollzogen ist. Eine solche Entwicklungsstufe ist aber den geschichtlich verschiedensten ?konomischen Gesellschaftsformationen gemein.

パラグラフC:Oder betrachten wir das Geld, so setzt es eine gewisse H?he des Warenaustausches voraus. Die besondren Geldformen, blo?es Waren?quivalent oder Zirkulationsmittel oder Zahlungsmittel, Schatz und Weltgeld, deuten, je nach dem verschiednen Umfang und dem relativen Vorwiegen einer oder der andren Funktion, auf sehr verschiedne Stufen des gesellschaftlichen Produktionsprozesses. Dennoch gen?gt erfahrungsm??ig eine relativ schwach entwickelte Warenzirkulation zur Bildung aller dieser Formen. Anders mit dem Kapital. Seine historischen Existenzbedingungen sind durchaus nicht da mit der Waren- und Geldzirkulation. Es entsteht nur, wo der Besitzer von Produktions- und Lebensmitteln den freien Arbeiter als Verk?ufer seiner Arbeitskraft auf dem Markt vorfindet, und diese eine historische Bedingung umschlie?t eine Weltgeschichte. Das Kapital k?ndigt daher von vornherein eine Epoche des gesellschaftlichen Produktionsprozesses an.(41)

現象背景
パラグラフA自由な労働者古い諸構成体の没落の産物
des Untergangs einer ganzen
Reihe aelterer Formationen
der gesellschaftlichen Produktion
パラグラフB商品流通の発達社会的分業の一定程度の発達
パラグラフC資本の歴史的な実存諸条件
Seine historischen
Existenzbedingungen
最初から社会的生産過程の一時代を告知
  1. 三つの現象と三つの背景を、同時進行的なものと読むか(縦の区分)
  2. A,CとBとは、本質的に異なる事態であると読むか(横の区分)

宇野理論的な読み方は、横の区分を重視する。 しかし、商品流通の発展に商人資本としての資本の発生をも重視する。

別の見方は、商品の純粋な規定も含めて、全体として資本主義のもとで、本質規定は与えられるという立場をとる。 このとき、Bを物々交換に毛が生えたような、共同体と共同体の間で偶発するような交換は、商品流通の規定には不的確であると読む。 すると、全体として縦の区別を重視することになる。

このあたりは、このテキストをどう解読するのか、互いに力量が問われるところ。

弾力性問題

elasticity.png
弾力性α
一定の生活物資Bから、どれだけの生きた労働Tを引きだすことができるか、をめぐる弾力性 B -> T,T',....
弾力性β
一定の生きた労働Tを引きだすのに、どれだけの生活物資Bが必要か、をめぐる弾力性 T -> B,B',....
  • 「高賃金の経済」問題: 賃金率を引き上げると、より密度の高い労働が手に入る、逆に無理に賃金率を引き下げると、劣化した労働になり、かえって不経済である、といった類の議論。労働の質・密度を勘案した労働量をT、賃金率をwとすると、T/Wが1円でえられる労働の内容ということになる。Wをあげてもそれ以上にTが殖えれば、結果的には上がるという論理で、スミスにも見られるときく。これは生活物資が弾力的に変化し、それに応じて質を考えた労働量が  労働量が増大する、ということだと解釈することもできる。弾力性βに比例して、弾力性αも変化するというわけである。阿部さんの発言はこれに近いものだったのか。しかし、もし、弾力性βに弾力性αが正比例的に変化するとすると、実はここで考えている弾力性はないことになる。なぜなら、投入に比例して産出が変化する、という命題に帰着するからである。弾力性の議論の本質は、逆に、投入と産出に比例関係がない、つまり、投入を殖やさなくても産出は増大する可能性がある、ということを含意しているからである。
  • マルクスが第4章第3節で問題にしているのは、労働力商品の価値規定をめぐる弾力性βである。労働力の維持にどれだけの生活物資が必要か、これをめぐって、拡張を試みている。足立論文は、この弾力性をめぐって、
    単身拡散
    家族賃金収斂
    という、異説を展開。通常は家族の導入が労働力の価値規定を複雑にしているオーソドックスな原論では、ダメということか。ただし、足立説は、正確には、家族といっても特殊なかたち(近代家父長制ー家族賃金説)で、収斂するのだ、という条件付きでした。
  • 「本源的弾力性」(小幡)という場合には、弾力性αのほうを想定している。同じ生活物資を消費しながら、そこから引き出される労働量、労働内容、労働密度は、生産技術的な意味で一義的にきまらない、これが絶対的剰余価値=剰余価値の本質である、という立場。今回の弾力性とは別の意味で強調。

労働力の再生産

なぜ労働力について再生産という用語を使用するのか

労働力については、やはり、「生産」とはいいにくいから「再生産」というのだというニュアンスの応答が多かった。

頑迷なる原論屋としてこれには、反論せざるをえなかった。「曖昧にするために、再生産というのはなんたることか、「生産」でないのに、「再生産」である、というのは矛盾も甚だしい」と。

(反省)とはいってはみたものの
演習のときには、このことを一面的に強調しすぎたかもしれない。「再生産」という用語を異なる文脈でつかうことは可能だし、再生産表式などでいう再生産との相違さえ明確にすれば、それはそれでよいことだと考えている。世代間再生産とか、子どもが親に似るとか、同じような構造が再現するとか、そういう現象を、再生産ということもある。私個人は「再生」でもいいのではないかと思うが、ともかくreproductionを再生産というように訳すわけで、この場合には「生産」の意味はないのだろう。

生産とはなにか、再生産とはなにか、という基本概念

  • 生産とは、Input < Output
    • 生産概念は期間概念と独立に与えられるか。
    • 生産は物量レベルで規定できるか。(Ax > x s,t. x>0 となる非負の行列Aの存在を生産的であるという。個別の生産過程を一つひとつ切り離してとりだして、それが生産かどうかを規定することはできない。)
  • 再生産とは、Output --> Input というフィードバックの存在をいう。

という単純な規定に戻すべきである。投入と産出の関係に、明確な量関係が規定できない労働力に 生産という概念をもちこむのは混乱のもとだ、という異説あり。

労働力の「生産」と一般商品の生産とは、基本的に異なる。 労働力は、Cのみで「生産」されている。生きた労働なき「生産」概念を認めるのか。 綿花が自動的に綿糸になるようなかたちで、労働力の生産が考えられている、のではないか、 と思うのだが、どうしてこんなことになったのか、プルードン批判と結びついているのではないか。

2007-05-25 (金) 19:00:01 obata

前貸概念をめぐって

obata (2007-05-26 (土) 03:26:44)

期間概念と増殖概念

obata (2007-05-27 (日) 12:23:18)

「生産概念は期間概念と独立に与えられるか」という問題をだしてみました。ほぼ全員、期間という概念なしには増殖という概念は成りたたない、という結論でした。小幡はあえて、抽象的な概念としては、期間無き増殖は考えられるといいました。期間無き増殖概念がいえても、「だって現実には意味ないでしょう」はなしです。増殖という概念を考えるときには、原理的に期間が不可分だという考え方は、増殖には期間を要する、増殖の少なくとも一つの要因は期間であり、期間に基づく増殖分は利子であるという、増殖=利子論、オーストリア学派的資本観に与することになります。逆に、原理的に期間ゼロの増殖概念が抽出できるかどうかが、マルクス的な剰余価値論の基盤となる、というと、ちょっとオーバーススペックですが、まあ、このあたりに話は展開してゆくことはご了解ください。

さて、能書きはともかく、ほんとうに、期間ゼロの増殖なんてあるのか、一瞬のうちに増殖する、などということが可能なのか。

補論ですが、もちろん、価格の変動、のようなかたちでの評価値の変更による、一瞬の増加は考えられるのですが、これはここでの増殖の問題ではないので、除外します。実物的な増大です。生産における物量増大に限定します。

さて、手品は成功するか。いま工場に10の原材料を投入した、その瞬間に20の製品が産出された。同時にです。10は20に増殖した。このタネは、工場に完成まぎわの半製品が存在していたからです。そしてこの完成品に至るまでのステップを、いま投入した原材料に即して追跡すれば、10日かかるとします。この10日は、100のストックとしての資本に体現されている(正確には、加工過程で徐々に増えるとすると、その集計は100以上ということになるでしょうが、最後の一瞬に、産出されるときに20にボンと殖えるとしておきます。問題の本質には関係ありません)。もし、100の加工段階のストックがないとすれば、生産には10日という期間がかかる。100に資本ストックでこの期間がゼロになる、というのがここでの話ということになります。

要するに、期間はストックに変換できる、というのが、ここでの命題です。すべての期間がストックに還元できるか、あるいは、逆にすべてのストックが期間に還元できるか、この全称化については留保しますが、この関係がある範囲で存在する、ということまではいえると考えた次第です。これが、期間抜きという概念技法なのですが、いかがでしょうか。

こういう期間・ストック変換の技法は、すでにリカードが逆の命題として、ストックに還元できない期間がある、というかたちで論じていますし、『資本論』にでてくる「同時的労働日」(期間を人数に還元する、あるいは、期間を時間に転換する、労働時間100時間=労働期間10時間x10人)も類似した概念技法を用いていると思います。


添付ファイル: fileelasticity.png 253件 [詳細]

トップ   差分 バックアップ リロード   一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2021-02-20 (土) 17:32:13