労働力の使用と消費

K.,I, S.192 解釈

Der Gebrauch der Arbeitskraft ist die Arbeit selbst. Der K?ufer der Arbeitskraft konsumiert sie, indem er ihren Verk?ufer arbeiten l??t. Letztrer wird hierdurch actu <tats?chlich> sich bet?tigende Arbeitskraft, Arbeiter, was er fr?her nur potentia <dem Verm?gen nach> war. Um seine Arbeit in Waren darzustellen, mu? er sie vor allem in Gebrauchswerten darstellen, Sachen, die zur Befriedigung von Bed?rfnissen irgendeiner Art dienen. Es ist also ein besondrer Gebrauchtwert, ein bestimmter Artikel, den der Kapitalist vom Arbeiter anfertigen l??t. Die Produktion von Gebrauchswerten oder G?tern ?ndert ihre allgemeine Natur nicht dadurch, da? sie f?r den Kapitalisten und unter seiner Kontrolle vorgeht. Der Arbeitsproze? ist daher zun?chst unabh?ngig von jeder bestimmten gesellschaftlichen Form zu betrachten.

だれが労働力を使用Gebrauchするのか。労働者か、買い手である資本家を想定してか。資本家が使用するのだ、という解釈が多数であった。これでゆくと、資本家は労働力を使用する活動、資本家的労働をすることになるが、それで一貫するか。労働力を使用して労働するのは労働者で、資本主義のもとでも資本家は労働過程では、なにもしないという解釈もある。売買活動以外の買い手の活動は、労働過程で位置づくのか。

このパラグラフは、全体として、なお、買われた労働の話をしており、その末尾で、社会的形態から独立に労働過程は考察できるというかたちで、本来の超歴史的な労働過程の考察に移るというのが、通説。

労働者と労働者の関係

K.,S.198-99 解釈

Der Arbeitsprozess, wie wir ihn in seinen einfachen und abstrakten Momenten dargestellt haben, ist (1)zweckmaessige Taetigkeit zur Herstellung von Gebrauchswerten, Aneignung des Nat?rlichen f?r menschliche Bed?rfnisse, (2)allgemeine Bedingung des Stoffwechsels zwischen Mensch und Natur, (2')ewige Naturbedingung des menschlichen Lebens und daher unabh?ngig von jeder (3)Form dieses Lebens, vielmehr allen seinen (4)Gesellschaftsformen gleich gemeinsam. Wir hatten daher nicht n?tig, (5)den Arbeiter im Verh?ltnis zu andren Arbeitern darzustellen. Der Mensch und seine Arbeit auf der <199> einen, die Natur und ihre Stoffe auf der andren Seite gen?gten.

(1), (2),(2') ゆえ、(3)であるという論旨。そして、(3)と(4)は、言い換えであろうと解釈した。

したがって、(4)は、(3)と同様、封建制とか資本主義とかいう生産様式、あるいは生産手段の所有関係としての生産関係を意味している。(4)を協業とか分業とかいう生産組織の意味であると解するべきではない、したがってまた、(5)を、マルクスが協業とか分業とかいう労働編成様式を労働過程で説かなくてよい、説いてはならない、とここで明示的に言明した箇所と解釈するべきではない。

たしかに、マルクスが第5章で協業・分業的な労働者間の関係を説いていないのはたしかである。このように『資本論』を理解することに問題はない。しかし、結論は正しいとしても、ここでその理由が述べられえいる、と上記の箇所を解釈するのは誤りである。

労働をめぐるSmith-Hegelコネクション

生産物の立場

196> Betrachtet man den ganzen Prozess vom Standpunkt seines Resultats, des Produkts, so erscheinen beide, Arbeitsmittel und Arbeitsgegenstand, als Produktionsmittel und die Arbeit selbst als produktive Arbeit.

<結果を見ると、労働対象と労働手段がともに生産手段として現れる>、ということはどういう意味か、、たずねてみた。これは、<労働対象と労働手段がともに生産手段とよぶ(定義する)>、というのと、どう違うのか、という問題である。

綿布は綿糸なり

問題は用語の定義ではない。具体的に考えてみよう。

綿糸と紡錘は、綿布として現れるというのである。綿糸も紡錘も綿布でしかない。これらは対象において一体となっており、綿糸と紡錘は消えてなくっている。実は、綿糸もさかのぼれば、綿花等々であるが、そうしたさまざまな痕跡は消えて、綿糸としてしか現れない。綿布も次の「生産物の立場」からみれば(これを「生産過程」と言い換える。これは、用語の定義である)、それをつくる生産系列(=生産過程と生産過程の連鎖)の一時的なすがたであり、綿糸の生産過程という独立性は消滅する。

なぜこうした生産系列的な転態が可能になるのか、というと、それは、生産物の立場からみて、投入が合理的になされているからである。もし、目的の綿布に対して過剰に綿糸が投下されていれば、その過剰な部分の綿糸は綿布としては現れない。綿布の生産系列において、綿布からふり返って合理的な割合で投入された諸々の労働対象、労働手段は、綿布という生産物として一括される、ということである。(p1,p2,....) 〜 P という投入物量のベクトルと、産出物量(ベクトル)との対応である。物量どうしを直接合算することはできないが、そのことは、この対応関係を否定することにはならない。ここでの投入と参集との関係は、生産技術を意味する。この生産技術の存在が、現れるということを可能にしている。この物量ベクトルは、合算の可能性を与える。しかし、どのように合算するのか、労働時間によるのか、価格によるのか、あるいは、piというその他の物財(pというと価格と間違えるかもしれませんが、ここはあくまで物量です。バナナ何本に相当するという集計です)に還元しておこなうのか、これは生産物の立場からはきまらない。

労働時間でこれを集計することの意味については、生産的労働との関連において、考察することができる。

ブランクボックス化・モジュール化

生産物の立場とはなにか、この概念分析をまとめておこう。

  1. 履歴の消去。複数の投入物がある(一つの)生産物として現れる。結果からみると、それがどのような投入物が反応してそうなったかというは消える。目的合理的に(=合目(的)的に)消費されたという条件のもとで(保証書つきで)、履歴の消去がなされる。これは、労働過程のブラック・ボックス化、投入物連鎖のモジュール化、パッケージ化である。
  2. 生産手段というのは、生産物の再投入を意味する概念である。「生産物の立場から」結果として現れる生産物が、次の生産過程に投入される。そのつかわれ方は、それを使用する労働主体の立場からは、労働対象、労働手段という規定を受ける。投入される局面でみると、生産手段として投入される。
  3. 分節化の契機。生産手段の投入に関しては、それがどのようにして生産されたか、過去の履歴を知る必要はない。労働過程では、綿糸がどのように生産されたかは問題にならない。また、生産手段は、それがその後、どのように使用するかも、制約しない。綿糸は綿布に加工されるかもしれないし、縫い糸として、縫製につかわれるかもしれない。鉄鋼など、より蒸留の原材料を考えれば、この分節化の契機の存在はより明確である。
  4. 合理的に組み合わされる(整合編成)という条件のもとで、物財の世界に、可換的な関係、複数の外観として存在する物財は、単一の物財として現れる。綿糸や紡錘や綿布等々は、単一の量に変換可能である。
    生産物の立場.png

目的と欲望

欲望と目的.png

「構想と実行の分離」といわれるが、この内実については議論されてこなかった。とくに構想とはなにか、という点が明確ではなかった。また、合目的的活動として人間労働を特徴づける場合にも、他人から与えられた目的に対しても、それを自己の目的として引き受け、主体的に遂行するところに力点をおくもの内容になっていた。この点を否定するわけではないが、このことから、遂行に先行する構想を労働という概念の外に置いてよい、という結論を引きだすべきかどうかについては、あらためて考えてみるべき問題がある。

構想の構造を捉える基礎的な観点

  1. 「欲望」を目的に形づくる。欲望というの用語が適切かどうかは、その概念はどう規定するか、この点はあらためて検討するとしても、ともかく、目的設定がなにかを対象にそれを明確な目的に設定する作業であることを示すために、対象となるものに何らかのラベルを貼る必要がある。とりあえず、「欲望」というラベルではどうか。
  2. 目的設定においても、他の労働の成果が手段としては使われる。たとえば、紙のうえに図を描くとか、文書化するとか、コンピュータを使うとか、といった側面である。構想というと、頭のなかで漠然となにかを思い描くというように捉えられるかもしれないが、それだけでは明確な目的設定には不充分であろう。
  3. 目的設定においても、他の主体との関係を考える必要がある。不定型な欲望を定型化するという作業は、他の主体の欲望を明確なかたちで示してみせるという過程が含まれる。商業労働の一面である。相手がなにを望んでいるのか、それは相手にも実は明確にはわからない。それを情報を与え、対話を通じて明確化するような過程がある。
  4. 目的の設定する主体とそれを遂行する主体との間に、コミュニケーションの過程がはいる。コミュニケーション活動を労働と考える必要がある。ここに一方的な伝達を強調するか、双方向性を加味するか、概念の作り方に分岐が生じるが、労働の構造を考えるうえで、無視できない面である。

添付ファイル: file生産物の立場.png 215件 [詳細] file欲望と目的.png 225件 [詳細]

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Last-modified: 2021-02-20 (土) 17:32:13