61-63草稿における「労働過程論」

「労働過程」が、ひとまず、独立したすがたで論じられるようになったのは、この草稿段階か。要綱では、貨幣の資本への転化に埋没している。『資本論』に匹敵する要素は、ほぼ、61-63草稿で出そろっている感じがする。しかし、合目的性に関する具体例、ミツバチと建築家の比較論はまだ見あたらない。

要綱における生産的労働論

「ピアノ制作者とピアニストの例」などをめぐって議論した。

労働時間の合算可能性

二つの立場がある

  1. 労働は抽象的な同質な量に還元できる。還元論的アプローチ
    1. 労働は単純労働に還元できる。
      1. 「労働過程」において
      2. 「機械制大工業」において
    2. 商品に表された労働の二重性における抽象的人間労働への還元できる。
  2. 労働は合目的的な活動として合算される。「生産物の立場」からの異種の労働が目的実現のための一過程を行使するものと見なされる(現れる)。目的論的アプローチ

演習のときに議論したように、

「ここから新宿に行くのに何分かかるか」

という問いに、

「30分かかる。三丁目まで歩いて10分、大江戸線に乗って20分だ。」

と答えるとき、歩行と乗車という異なる行為の時間を合算しているが、これは新宿に行くという合目的的な活動であり、主体がこの最終目的に沿って行動する能力をもつがゆえに、合算が可能なのである。

この合目的的な活動という契機を抜きに、このわけのわからないメモをつくるための10分と、電車に乗る20分を合算して30分かかるというのはナンセンスである。たしかに、どのような時間も合算できる。しかし、それは鉄1キロと小麦1キロを足して2キロだ、というように無意味な合算である。労働という概念のうちに、すでに合算の契機が内包されているのであり、合目的的であるということから、労働時間という概念を導出することができる。

この導出は、二段階の過程を経る。一人の主体のもとで、まずおこなわれる。次に、異なる主体の間に拡張される。この二段目が「生産物の立場」である。

人間労働から、合目的的な契機を抜きさって、人間労働は原則として同質である、それゆえ合算できる、という<還元論>的なアプローチでは、合算する論拠をこの還元された労働の外に求めるほかない。その論拠は、二つの還元論で異なる。

  1. 還元された労働力を結合させる資本家(「資本家が労働力を生産的に消費する」という前回ふれた「労働過程論」冒頭の段落に関する一つの解釈。)
  2. 商品流通の意図せざる結果としての均衡編成(マルクスの基本的な立場である。この意味で用いられた「抽象的人間労働」を労働過程で論じることがもたらす誤解と混乱。)

これに対して、<目的論>アプローチは労働という概念自体が、労働時間としての合算を本質とする、と考える。人間労働は、どのように単純化されよと、ある目的のもとに、異種の作業、活動を統括することにある。こうした統括作用抜きに、たとえ、一主体の行動でも継続時間として合算して捉えることはできない、ということになる。

マルクスの抽象的人間労働論というのは、労働時間が合算できるのはなぜか、青才さんが言っていたように、古典派は、価格として計算する日常の現象と、自らの基礎をなす労働時間の合算という理論とを無自覚に結びつけていた。マルクスは、このことを意識的に問い、それを商品に表された労働の二重性というかたちで、価値関係の背後に抽象的人間労働という概念を導きだし、整理した、ということになると思う。要するに、市場のおける費用計算の世界が、異種の労働の合算の背景だ、ということだとことになる。これをどこまで正確に説明するかが、マルクスの価値実体論である、と解釈すると、これはこれなりに賛否はともかく了解可能である。

私自身思うに、もっとも最悪な合算論は、単純労働=あらゆる社会に共通な実体、という論理である。このあらゆる社会に共通な人間労働は、フィクションであり、これに与しがたい。ただ、労働過程論で合算根拠論を説くという意味では、目的論的アプローチ、生産物の立場論と関連させられて、この第2に還元論が登場する。結果としては、この単純労働・還元論でよいのでははないか、という人が多いのが頭痛のタネです。似ていて異なるものに対して、その微妙な差異をビシッというのが理論だと思うのですが、一般にはそんな細かい、重箱の隅を突っつくような、ということになるのでしょう。まー、これは関心の違いということで、まずはここまで。


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Last-modified: 2021-02-20 (土) 17:32:13