2012年度/夏学期

表現(評価)と交換 (10)

  1. 価値形態論で一般的等価物の単一化、統一性を説いたことと
  2. なにがこの空白の「一般的等価物」の素材になるか 

    は別の問題である。

後者には信用貨幣か、金貨幣か、という分岐がある。

琥珀金 --> 合成商品 --> 銀行券

価値の安定性 --> 貨幣

歴史過程的な共同体

商品流通の外面性 外来性 <-> 滲透力 分解作用

資本 G<--- P --- W --G'  => 生産の包摂

共同体と共同体の間で...というと、

この場合の商品流通は、単純商品生産者的な市場像になるのでは?

W --- G --- W'

貨幣形態の結晶:I 外来の交易品と II 家畜=資産・財産

貨幣のストック性:家畜:可動性

交換の媒介物という性質のものではない。Vgl. 土地を基礎にしたアシニア紙幣

貨幣形態は金に「結晶」するか?

貨幣は生まれながらにして von Natur 金

"obgleich Gold und Silber nicht von Natur Geld, Geld von Natur Gold und Silber ist"

表現の材料が問題にされているところ

発生論ではない。

媒介物としての貨幣という結晶説ではない。表現、評価が軸だ。

Double Coincidence

交換過程は欲望の相互不一致論ではない。媒介物的な貨幣観とは違う。

理論的必然性と現実的「必要性」=日高原論にある。shibazaki

商品世界における貨幣の意味(27-8ページ)
「商品はそれぞれ特定の使用価値をもちながらも、観念的には金のある量となる。 これは商品がその価値をそれ自身で表現できないからこそ、 こうした回り道 による表現を必要とするのであって、貨幣は、 この回り道による表現を必要とするすべての商品が共 同作業の結果生みだしたものである。 そのため金以外の一切の商品はもはや貨幣の位置を相互にれないことになり、単なる商品として貨幣に相対すことになる。 貨幣は貨幣の地位をしめるのである。 ところが逆に、貨幣が貨幣であるからこそ商品が単なる商品の ように考えられ、 あるいは貨幣が商品を価値物とするような錯覚が生じやすい。 それは商品の価値が 貨幣のある主に表現されることからくるものであろうが、 ヨリ規定的でヨリ根本的なものは、貨幣で はなしに商品である。貨幣は商品世界の全面的交換の結節点としてこの結 節点として、貨幣は商品に働きかけるのである。
(註〉 『資本論』では貨幣形態論のあとに商品の物神性論が説かれ、交換過程論が展開されている。だが本 書では価値の実体はまだ説かれていないのだから物神性を説くことはできないし、また論理の展開にと って物神性というイデオロギーを説く必要があるかどうかは疑問の余地があるように思われる。さらに 交換過程論は、 貨幣形態の必然性ではなしに貨幣の必要性 を、論理の展開としてよりもむしろ事実に即 して(それが本当の歴史的事実であるかどうかは別として〉説明する内容をもつものであり、その点で 価値形態論を補完する関係にあるようだ。けれどもそのようなものが商品から展開する論理の一環とし て必然的な位置づけをもちうるとは思われないのであり、また価値形態論としても、そうしたものを補 完的に必要とするものではあるまい。宇野『原論』の多くの功績の一つは、交換過程論を経済原論から 省いたことである。」

obata


大貫君 交換過程論冒頭の人格化

  • 人格化 persona <---> 所有者・資本家 「主体」の導入 欲望
  • 担い手論批判
    • 主体性論:梅本克己 反正統派
    • 単純明快な原理=欲望
    • 山口系一:「欲望の外在性」貨幣が先か、商品が先か?
  • 唯物史観 

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Last-modified: 2021-02-20 (土) 17:32:13