2015年度/冬学期

本題に入るまえに、誤解を避けるため、いくつか断っておきたいことがある。一つ目 は、異なるタイプの経済学の併存についてである。この併存現象は、基本的には「理論」 をめぐって生じるものである。経済学は社会科学のなかでも、演繹性の強い理論を具えて いることで知られている。そしてこの種の理論では、前提のおき方で異なる体系が生みだ される。幾何学は平行線の公理の採否でユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学に別 れる。形式論理学も排中律を認めるか否かで古典理論と直観論理学に別れる。ただ数学や 論理学では、諸理論のなかで標準的と見なされる体系が一つ存在し、これから学びはじめ るのに対して、経済理論の場合には簡単にそうはゆかない。それはおそらく、体系の出発 点をなす約束事が純粋な前提というより、現実の複雑な現象の極限られた一面を拡大した ものであるためであろう。たとえば、リカードの任意加増財の想定も、ワルラスの模索過 程も、マルクスの価値の内在性も、多面体の一側面のようなもので、どれも出発点として 一般性を欠く。また、経済学では、天動説から地動説に代表されるような劇的なパラダイ ム・チェンジが当てはまらないのも、これによる。そこでは、表面上は演繹的推論に純化 した客観的で首尾一貫した体系性で覆われているが、その背後で、基礎とされる約束事 に、よく言えば理論的関心、悪くいえば社会的価値観(イデオロギー)が紛れこむ。

こうした体系間の関係を理解するためには、同一平面上にある中心のズレた二つの円を イメージしてみるとよい。ある一つの円の半径をどんどん拡大してゆけば、他の円はその うちに包含される。しかし、その包含関係は相対的なものであり、中心に着目するかぎ り、やはりいずれも別の円なのである。この中心のズレを知るためには、初等の教科書の レベルで比較してみるのが簡便である。半径を充分小さくとれば違いははっきりする。そ して、その中心点を構成するのは、価値ないし価格に関する理論である。多少とも体系性 を具えた経済理論であれば、それは必ず競争的な市場で商品価格がどのように決まるのか を説明する理論を基礎にもつ。これをベースに、所得の決定や景気循環といった、より複 雑な現象も理論的に説明可能となり、そこから異なる市場像、経済社会像が構成されるも のといってよい。むろん、価値ないし価格理論ですべてがわかるという還元説を唱えてい るのではない。全体からみれば、それはあくまで理論構成の手段であり、それ自体が目的 となるわけではない。ただ、ここに理論体系の特徴が凝縮されて現れることもたしかであ る。以下ではマルクス経済学の価値論にウェートをおき、これをミクロ経済学の価格理論 と対比して特徴づけてゆくが、これはけっして価値論にすべて還元されるという意味では ないことを断っておく。

二つ目の注意点は、「マルクス経済学」と「マルクスの経済学」の関連である。これはあ る意味では、マルクス経済学内部の中心点の取り方の問題になる。ケインズ以降のケイン ズ経済学もケインズ自身の経済学とは異なるといわれているが、それ以上に 19 世紀の資 本主義を対象とした『資本論』の経済学は、マルクス没後に生じた資本主義の変貌をター ゲットに展開されたした「マルクス経済学」とは異なる。この歴史的発展の理論的解明に シフトした独自のマルクス経済学が、ここで積極的に考えてみたい対象なのである。た だ、この「マルクス経済学」と「マルクスの経済学」の断層は地表に露呈することはない し、観察されても強調されることはない。マルクスの真意を突き止めることが、同時に資 本主義の真理につながるとみる立場が支配してきたのである。たしかに、如上の意味でイ デオロギー的負荷が強く作用しやすい経済理論の環境にのもとで、『資本論』が繰り返し 誤った解釈に基づく非難をうけてきただけでなく、逆に誤った解釈によって権威づけに利 用されてきたのは事実である。その意味で、テキストの的確な解釈は重要な意味をもつ。 とはいえどのように鋭利な解釈も、解釈された命題が真であることを保証するものではな い。解釈が蔑ろにされてよいわけではないが、肝心なのは解釈された命題の批判的吟味な のである。このような批判的方法を自覚的に導入することではじめて、マルクス経済学の 中心点を定めうると私は考えている。したがって、マルクスはそんなことをいっていない という素朴な解釈主義で以下の議論を片付けぬよう予めお願いしておく。

三つ目は「古典派」という参照軸の導入についてである。ここでいう古典派は、マルク スが、その後の俗流経済学と峻別したリカードを頂点とするオリジナルの古典派経済学で ある。このオリジナルの古典派経済学は、たしかに、今日の大学教育で、ミクロ経済学、 マクロ経済学、マルクス経済学などと並んで、独立した一つの科目として講じられること はないが、ただ P. スラッファによって再建された独自の価格理論として現代でも重要な 意義をもつ。そして、『資本論』における理論的批判の中心は、この古典派経済学に絞ら れており、その結果、意外なほど古典派の枠組みを引きついてでいる。それゆえ、マルク スの経済学とマルクス経済学を理論レベルで分かつ契機も、この古典派経済学との距離の 取り方に潜み、それはまた、スラッファ派と私の考えるマルクス経済学の分岐(価値重心 説の可否をめぐる)を知るカギともなるのである。

さらにこの参照軸の追加は、ミクロ理論とマクロ理論の関係を覗き見る踏台にもなる。 ケインズは、マルクスによる古典派の定義をわざとズラして『一般理論』の冒頭に掲げた 「古典派経済学の公準」は、現代のミクロ理論の価格理論を斥けているようにみえる。本 稿ではこの点には深入りせず、「ミクロ・マクロ理論」と一つの円に括り二つの大きな円 の対比を考えてゆくが、こちら円の特性を捉える補助線として、向こうの円がこちらの円 からどう見えるか、その内部構造にも多少ふれてみる。

以下、次にような順で考察を進めてゆく。(1)はじめに、マルクスの経済学の特徴に ついてまとめてみる。これはすでに述べたように、古典派を批判することで結果的にそこ から多くを継承したマルクス経済学の基礎を明らかにすることになる。これは同時にま た、マルクス経済学の通説的理解を確認することにつながる。(2)つぎに,この古典的 マルクスを、現代のミクロ理論と対比してみる。焦点となるのは、基礎の基礎となる価値 論ないし価格理論、商品の価値は市場にもちこまれるまえに与えられているとみる客観価 値説、すべての財において需要と供給が均等になる価格の存在を説明する一般均衡論の対 照性である。一般均衡論は必然的に貨幣の存在を否定する点で、貨幣の実在性の解明を中 心課題とするマルクス経済学と正面から対立することを明らかにする。(3)しかしこの ミクロ理論との対立点を理論的に鮮明するためには、マルクスの価値論とリカードに代表 される古典派の価値論を区別することが不可避となる。それは、リカードの価値論を現代 に蘇生させたスラッファの価値論を、今日のマルクス経済学がどう評価するか、という問 題につながる。スラッファも、現代のミクロ理論との対抗を鋭く意識したわけであるが、 マルクス経済学がミクロ理論に対して投げかける同じ批判を免れない。そして、貨幣の実 在する市場を理論的に捉えるためには、通説的なマルクス経済学も原点から見なおす必要 があるを明らかにする。

1 古典的マルクス

1.1 マルクス経済学の基礎条件

マルクス経済学といっても、その内容は人によってズレがある。まして、マルクス経済 学を、マルクスの経済学の発展型として区別するとなると、その含意は広がる。そこで、 話の筋道をはっきりさせるため、結論を先取りすることになるが、はじめに私がマルクス 経済学と考えてるメルクマールを列記しておこう。

1. 貨幣が実在する市場
2. 客観価値説(労働価値説)
3. 剰余価値の理論(搾取論)
4. 産業予備軍の存在(相対的過剰人口の累積論) 5. 再生産論
6. 競争機構論(信用論)
7. 恐慌論

各項目について、簡単に説明しておく。 古典派の人口法則論は、労賃が労働力の価値以下に下がることを認めている。このと き、失業は存在しないのか。賃金が下がることで、労働人口全体が雇用されるまで、賃金 が下がるのか。労賃が増減し、労働人口が増減することで、結果的に労働力の価値に労賃 は引き寄せされるという想定。古典派は、これは賃金基金説? 労働力に関しても需給説 をとったのかどうか? Dobb 『賃金』で調べてみること。


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Last-modified: 2021-02-20 (土) 17:32:13