第1篇 第1章 商品

「財」省略の隙

19-20頁の「〔使用〕価値」のところで、「モノ」対「商品」のかたちで議論が進められている。「モノ」:計量可能性、「財」:有用性、「商品」:他人のための使用価値、という三層で規定すべきである。モノ、財、商品をベン図で示せば、三重の円になる。

間に「財」の規定を入れる効果は、ミクロ理論との違いが浮き彫りになる点。ミクロ理論の基本スタンスは、「手持ちの財が多くなれば効用が連続的にだんだん低下する。だから財どうしの交換で満足度を最大にする」というもの。自分にとっても、相手にとっても、財は財であり、ある程度は役にたつという想定のもとで、財と財が「交換」(ただし直接的な物々交換ではなく、間接的な物々交換ですが、ともかく財と財の交換)される市場の理論である。

これに対して、マルクス経済学の基本は、(財と財の)「交換」という考え方一般をとらない点にある。商品は、百パーセント「他人のための使用価値」になっている点で、財と決定的に違う。区分線をハッキリさせる必要があるのは、「財」と「商品」の間。『これからの経済原論』を読むと「モノ」と「商品」の間の違い(だけ)が論じられている。これも重要だが、ミクロ理論との対峙においては、「財」と「商品」の切断が第一の必須要件である。

これによって、商品は「交換」ではなく「売買」される点が学生にも理解できる。ときどきマルクス経済学でも「商品交換」といった用語を使う人がいるが、これは禁句。『資本論』の第2章「交換過程」というタイトルはミスリーディングで、ときどき、実際に(広い意味でなら)交換過程が存在すると考えている人もいるが、この章の内容は「交換過程は、無理だ、ありえない」と読むべき。宇野理論の支持者のなかには、第2章で「商品所有者」が登場することにひっぱられて、宇野の価値形態論は『資本論』の「価値形態論」(ここでは商品を主語とした記述で、意識的に主体は排除されている)に、第2章の「交換過程」を統合したものとして評価する人がいる。宇野の書いたものにこのように読めるものがあるかもしれないが、『これからの経済原論』ならはこうした傾向からは手を切るべきだ。いずれにせよ、財概念を導入することで、「ミクロ理論:財の交換」 対 「マルクス経済学:商品の売買」という対比がハッキリする。

なお、教科書では触れる必要はないが、ミクロ理論では「財・サービス」という。「サービス」概念はマルクス経済学でも、今なお、というか、最近、とみに論じられるが、有体物か否か、みたまんまで、財とサービスを分けるのは浅はか。「サービス労働」論のような浅薄な現象論に対して、「計量(計測)可能であればすべてモノだ」「サービスもはかれればモノだ」という基本原理の意義を「モノ」概念のところで強調しておくとよい。「商品体」という誤解を生む用語(商品に固有でない「モノ」の属性として物量=「体」を「商品」という語を附して「商品体」とよぶ錯綜)は避けるべきである。23頁には昔の教科書同様の「商品としてのモノのことを商品体とよぶ」という定義が維持されている。「商品」に先だって「商品体」は定義されるべきで、「商品」を前提に「商品体」が定義される分けでない。

これとの関係で、従来から「価値」を「(全面的)交換(可能)性」としてきたのも反省が必要である。「交換」の語にあまりこだわるべきではないかもしれないが、商品と商品の「交換」を暗に示唆してしまう懸念がある。ただどういう用語をあてるか、成案はない。

「交換過程」的「価値形態」の難

すでに述べてきたように、物々交換は「できない」という否定的規定である「交換過程」を、商品には価値があるなら、それは必ずその「表現様式」ないし「現象形態」をもつことになるという肯定的規定である「価値形態」に重ねることはできない。簡単にいえば、論理的な前後関係であれ、まずなにかしら「交換過程」らしきものが先行して、ここから貨幣が「発生」するという着想は捨てたほうがよいのである。

その意味で「交換を求める形態」を「価値形態」の出発におく『これからの経済原論』は、なお宇野理論の旧弊を引きずっている。「価値形態」の代わりに「交換を求める形態」というタームを用いたのは、価値形態論の外部で(ということは「先だって」になるが)、価値とは何かを「抽象的人間労働が価値の実体である」と独立に与えて、価値「形態」を価値「実体」の現象、多少のぶれはあっても現象としてしまう通説への反発であった。商品所有者を導入し、利得追求活動を自由におこなわせれば、結果的に貨幣形態が生成するという行動論的アプローチが、宇野理論の新しい展開「方法」として注目されたこともそこには影響していた。これが恣意的な推論を斥ける「思考実験」として評価されたこともあるが、「実験」の名のもとに都合のよい事例を一般化する危険がある。

貨幣を分化発生論で説き、価値形態論の結果として価値概念を与える、というかつての方法からは縁を切るときである。それは、財、商品というモノのあり方を厳密に説明し、価値の概念を(もちろん抽象的人間労働と実体とかいった要素から切り離して)理論的に定義するに戻るべきなのである。かつては、実体→形態という従属関係を断ち切るために、形態と実体を別々に説くという「次元の相違論」では物足りず、形態→価値というウルトラ・ラディカルなラインが追求された。しかし、これは価値実体論がともかくどこかに存在するということを前提にするものだった。しかし、実体という概念を原論のなかから完全に払拭してしまえば、逆に価値(概念)→(表現)形態とスッキリした説明が可能になる。「実体」「抽象的人間労働」というタームを原論のなかから抹消するというのはすぐに納得がゆくとは思わないが、突き詰めれば、こうした方向に進まざるを得ない研究段階に至っているのである。「交換を求める形態」を残してしまった(タームだけではなく、「主体」がどうするか、という記述が目立つ)ことは残念である。

なお、「種の属性としての価値」という規定は、「主体」の意図から相対的に自立したかたちで価値概念を規定しようというネライがある。説明するのは面倒であるが、同種大量の商品が存在するという「環境」「状況」のほうに価値概念の重心を置こうと言うことだろうということは、原論研究者の第一感で推察できるはず。個別主体を重視するために、主体と個々の商品が直結し、主体の意志で商品を自由に支配できる専制が強調されてきたのである。持ち前のラディカルに走る性癖故、逆ブレには注意しなくてはならないが、同種大量の商品種には、個別主体の意志から独立した価値が「内在する」という「種の属性」論を、『これまでの経済原論』の人たちのに伝えられなかったのは慚愧。

「複数商品による価値表現」は逆

ここが原論技術的にはいちばんおもしろく、またむずかしい点。結論から言うと、相対的価値形態にまず複数の商品バスケットをおくB’型は、信用貨幣の抽象化して貨幣論に取りこむ道ではない、ということになる。

信用貨幣を念頭において抽象レベルをあげ、一般的等価物の拡張を考える場合、

  1. 債権
  2. 合成商品 の二面を分ける必要がある。

債権のかたちをとると、合成商品が実装しやすいというのはそうかもしれない。しかし、「複数商品による価値表現」の内容は合成商品論に傾いている。後に述べるように、合成商品論の先だって、債権の存在がまず問題にされるべき。基本問題は、債権による商品の価値表現はそもそも可能か、可能だとすれば、どのように可能なのか、であろう。これは、等価形態サイドではじめて問われる問題である。ところが、『これからの経済原論』では、先に相対的価値形態サイドで、「複数商品の価値表現」が問題にされ、そこから「複数商品による価値表現」が導きだされている。

複数商品→証券εという「複数商品による価値表現」の説明は、この意味で合成商品に重きをおく立場と解す。これに続く、価値の安定性を一般的等価物の第一の必須要件だとする記述はこのことを物語る。これは逆関係から一般的等価物を説明する方法を暗に前提している。証券εをます価値表現を求める側におき、等価物に単一商品、豚をおくのは、「債権で商品価値を表現する」ことの特質、このかたちをとらざるを得なくする契機を明らかにしない。すでに商品として、他の商品と同じように証券εが存在しうる、としたのでは、価値表現のために債権(複数の合成債権)が登場する契機が理論化できなくなる。

これに対して、債権のほうを、等価物の拡張における第一要件ないし本質として先行させる展開方法も考えられる。これは価値形態論における一般的価値形態に先行する。簡単な価値形態の段階から等価物の債権性を考える立場である。一般的等価物の生成に絡めるのは、「交換過程的な価値形態」の残滓であり、「価値形態=価値の表現形態」という最近の考え方は、信用貨幣の本質を等価物=価値物の形成のレベルに遡って抽象化するように促す。私はこの立場であり、以下、いま考えられるかぎり、ギリギリの話をしてみる。

問題の再確認

説明すべきは、不換銀行券のような信用貨幣が、やはり商品価値をベースとした商品貨幣であり、価値の裏付けなしにいくらでも発行できるわけではないことにある。これは、途中を端折っていえば、商品の価値表現における等価物が、だだの上衣1着という商品体であるのではなく、上衣の価値と何らかのかたちで「結合(リンク)」した商品体であることを解き明かすことに帰着する。問題は、この「結合(リンク)」とはなにか、「何が、何と、どのように結びついているのか」を分析することである。

価値表現は、①「リンネルの価値が上衣で表現される」という契機と②「この上衣が価値物である」という契機で構成されてる。特に分析を要するのは②である。『資本論』の場合、②の「価値物」概念は抽象的人間労働の「凝固」という問題に引き寄せられ還元される傾向がある。これを差し引いて純粋に価値表現に絞れば、等価物サイドに内在する価値の役割をどう考えるか、という問題が最大のポイントになる。「リンネル20ヤールの価値を1着の上衣で表現する」というとき、たしかに直接触知できない価値は、触知できる1着の上衣として「現象する」のであるが、この1着の上衣はただの商品体ではない。①に先だって②で、上衣の商品体が上衣の価値と「結合(リンク)」している、つまり単なる商品体ではなく「価値物」になっている必要がある。①と②は順序が逆で、(1)まず上衣の商品体が「価値物」になり、(2)次にリンネルの価値がこの「価値物」で表現される。(1)における上衣の価値→商品体と(2)のリンネルの価値→上衣価値物のうち、未解決なのは(1)の価値物の生成のほうなのである。

行き止まりの「価値物」

『資本論』では「価値物」という究極の概念がでてくる。リンネルの価値表現における上衣は「価値物」だというのである。問題は「価値物」の概念である。まず用語の問題として、この価値物 Wertding はすでに一定のバイアスを負っている。リンネル20ヤールに内在する価値の大きさを、目に見える(だれがはかって同一である)上衣の商品体の量、つまり物量で表すという、簡単な価値形態における「等価物=価値物」概念は、「物」は金商品の商品体、つまり金の物量を念頭においたものである。

質的に等置された二つの商品は同じ役割を演じるのではない。リンネルの価値だけが表現される。では、どのようにしてか? リンネルが、その 「等価物」としての、またはそれと「交換されうるもの」としての上着にたいしてもつ関連によって、である。この関係のなかでは、上着は、 価値の実存形態として、価値物として、通用する。なぜなら、ただそのようなしてのみ、上着は リンネルと同じものだからである。K.,I,S.66

『資本論』では似た説明が繰り返され、「価値物」という用語が「価値鏡」「価値体」などにヨコに言い換えられることはあっても、タテに内部要素を分析する方向にこれ以上深化されることはない。『資本論』は「価値物」で行き止まりであり、あとは自分で考えるほかない。

債権というリンク

「何が、何と、どのように結びついているのか」の「何が」は、等価形態にある上衣の価値である。「何と」で最小限求められている要件は、知覚可能なモノの量である。ここで暗に物品貨幣だけを念頭において考えると、上衣の価値が上衣の商品体と結びつくという答えしかでてこない。しかし、この結合はもともと強い一体性を帯びており、実は(分離して+結合する)という関係を逆に隠してしまう。分離+結合はむしろ、上衣の価値が別の商品体と結合するとき、はじめて意識的におこなわれる。つまり、上衣1着を渡して、茶1キログラムの実物を受けとるのではなく、茶1キログラムを受けとる権利、つまり「債権」(後で述べるようにこれに債権という用語をあてる難は多大だが)にするとき、この債権はリンネル上衣の「価値」は茶の「物量」(商品体)に新たなかたちで「結合(リンク)」されるわけである。「リンネル20ヤール=茶1キログラムの債権」というのは、リンネルの価値を「茶債権という上衣価値(物)」で表現するものなのである。

債権化と証券化

ここでの「債権」はかなり特殊であり、ただ「債権」という用語で指示するは不適切である。そのポイントは、リンネルの価値が別の茶の物量にリンクする点にある。リンネルの価値がリンネル債権にリンクするのではない。リンネルを倉庫業者に預ければ、リンネルに対する請求権が発生する。そして、それを譲渡可能な証券にすることもできる。しかし、このような倉荷証券や船荷証券のようなものは、そのままここで問題にしている債権化の要件を満たしているわけではない。『これからの経済原論』の「複数商品による価値表現」にでてくるのは、「証券化」であって「債権化」(この用語はやはり適切でないかもしれないが)ではない。

債権化で明らかになること

債権による価値表現でハッキリするのは、価値表現における等価物が、同種大量の商品群が密集した「環境」に依存するものであること、言い換えれば、バラバラの主体と商品の個別的な関係ではないこと、である。商品所有者をもちだすことは、これまで繰り返し論じられたきた手垢に塗れた問題を持ちこみ、無用の混乱を生むおそれがあるが、わかりやすい(=誤解されやすい)説明が必要なら、次のように言っておこう。リンネル20ヤール=1着の上衣という価値表現に、リンネル所有者の個別的な欲望が影響する余地がある。上衣に対する欲望の程度で、リンネル10ヤールにも30ヤールにもなると考える人もいる。上衣の価値が上衣の商品体と癒合した等価物による価値表現には、こうした個別的な欲望の契機が付きまとう。このことを逆に評価して、価値形態論を価値実体論に先だって説く意義は、硬直的な投下労働価値説に、需要の契機を組み込んだ点にあるといまなお平気でいう人もいる。

上衣が価値物になるというのは、同種大量の商品群が存在する「環境」のもとで、上衣の側に種の属性としての価値がまず内在し、この価値が上衣の物量と結合するのであり、<del>リンネルの価値表現において、</del>個々の<del>上衣</del>リンネルの所有者の欲望で等価物である上衣の量が増減する余地はない。ただ等価形態のおかれた同じ商品の内部で、価値と物量の分離+結合が完結するかぎり、価値物の環境依存性(アフォーダンスのようなもの)はなかなか明瞭にならない。これに対して、茶債権というかたちでリンネル価値を外化する場合には、バラバラな主体の欲望などの個別的要因は断ち切られる。もし茶が上衣所有者の欲望の対象であれば、上衣は茶と交換され、茶債権など登場しない。上衣所有者が茶などほしくないから茶に対する請求権にするのである。この意味で、上衣1着によって生みだされた茶1キログラムを引き渡すという茶債権は、上衣の交換力を純粋に体現したものとなる。

異種連結型

ここでは、実際に上衣1着が手渡され、茶1キログラムに帯する債権が発生したというリアルな状況で説明した。これは、あくまで直感を効かせるための一次的仮作業である。こうした具象化をするとからなず、たとえば「債権なら、それが本当に支払われるのかが問題になる」とか「上衣と茶の交換を、事実上先取りしているのではないか」(これは無視すべきではない。だが、リンネルの価値表現が基本問題で、その枝問として、等価物の形成原理を探っているのであり、上衣が独立に茶と関係するのでも,況んや交換されるのでもない。)とか「債権が人に対する権利である点が看過されている」(必要なのは債権譲渡の可能性であり、これは証券化で解決される問題である。)とか、このレベルの反論がでてくる。リアルな債権債務関係そのものがここでの問題ではないのだ、といくらいっても、容易には納得してもらえないであろう。しかし、解き明かしたのは、

  • 等価物が価値と物量という要素の結合であり、
  • この結合様式には、単独一体型(上衣の価値+上衣の物量)のほかに、異種連結型(上衣の価値+茶の物量)があること、
  • 後者として債権という結合のしかたがあること、
  • つまり債権も立派な等価物の資格をもつこと、

なのである。リアルな債権債務に関わる諸問題は、債権型等価物を基礎に組み立てた理論のもっと上層の構造のなかで答えてゆくべき問題であり、商品の価値はどのように表現されるのか、という抽象次元にもちこんで、あれもこれもフラットに考えるべきではない。といっても納得しない人はいると思うが、あとは組立型原理論を認めるかどうか、という思考の好みの問題で、一義的な解は期待できない。

信用貨幣への道

完成態としての銀行券を思い浮かべてみよう。銀行券のバックには、銀行の債権がある。銀行の債権は、対応する債務を支払うにたる商品価値がある。銀行券で商品の価値が表現できる根源はここにある。このことを徹底的に抽象化してゆけば、簡単な価値形態の次元においてすでに、債権による価値表現ができること、すなわち債権が価値物になりうるという命題にゆきつく。

はたしてこの命題はなりたつのか。ここまで等価物の性格規定を分析することで、物品貨幣に直結していた従来の価値物が唯一のすがたではなく、債権というもう一つの等価物のすがたがあることに、ある程度の目星がついたように思うが、まだ道半ばの観がある。いずれにせよ、信用貨幣を物品貨幣とならぶ商品貨幣のもう一つの実装態と主張するには、こうした価値形態の根本にまで遡って考察を続けてゆく必要があるのである。


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Last-modified: 2021-02-20 (土) 17:32:13