_genron_00045_ Re_ 「価値の切目」と「生産過程の流通過程化」

送信者 : taaosai@ybb.ne.jp
送信日時 : 2004/11/14 01:15:34

本文

from  青才@信大経済です。

◆青才ゼミ:前回(11月5日)の問題点を,HPに挙げておきました。
◆以下,小幡さんの,「小生産者も資本家」という説に対して,検討します。
        ☆なお,以下の文書,東大大学院HPにも挙げておきます。

☆小幡説
Date: Sat, 6 Nov 2004 09:56:08 +0900
From: 小幡 道昭 <obata@e.u-tokyo.ac.jp>
Subject: [genron:00041] 「価値の切目」と「生産過程の流通過程化」
To: genron@georg.e.u-tokyo.ac.jp
☆同文のもの, HP obata > 論文コメント > 勝村務? > 「価値の切目」について

◆まず,小生産者も資本家という小幡説の再掲
「-が、なかなか、決断がつかなかったのは、いわゆる小生産者の位置づけです。労働
力商品を購入することなく、自己労働で生産をおこなうような、街の靴屋 
とかパン屋とかは資本ではない、というのは、呪縛だったのではないか、という気が
してきました。マニュファクチュアだって立派な資本主義だというのは、 
最近とくに分業論などやりながら、考えてきたのですが、小生産者は資本ではない、
という固定観念にまでは、なかなか反省が及びませんでした。昨日も賛成 
する人は皆無でしたが、私自身はここまで資本に含めていいということになりそうで
す。演繹的にそうなるという意味ですが、その理論的な含意も説明で[き]そう 
です。要するに、資本の一般的定式を基準に考えると、流通形態としての資本とその
外部に広がる世界との<重合>形式には、少なくとも<変容論>的アプ 
ローチなら<理論的に>多様な形態が分析可能になる、というように思っています。
aosaiさん、どうでしょうか?」

◆以下,検討,批判
最後の「aosaiさん、どうでしょうか?」の挑発に乗り,私の考えを述べます。

(1)まずは,形式的なことから。
小幡氏は,「流通形態としての資本とその外部に広がる世界[当該部分では,生産]との
<重合>形式」の一つとして,小生産があり,その意味で,小生産も,資本の運動だと言
われています。ですが,その展開自身,自説解体的とはなっていないでしょうか。
1.流通形態としての資本の範式は,資本の一般的定式は,G――W――G’です。
  そして,マニュファクチュアが産業資本であることは当然のこととして,問屋制工業
も,資本です。だが,小生産は,資本と言えるでしょうか。
問屋制は, G−−W−−W’−−G’  であり,Wを買い,それと使用価値が異なる
W’を売って,剰余価値を獲得しているのだから,G――W――G’という資本の運動
の変形に過ぎません。勝村氏的に言うと,Wの内の「切れ目」にWのW’への転換過程
が「狭込」された,と言ってよいでしょう。
なお,この場合のWは,生産手段(原料等)と,「加工という有用効果」からなります。
問屋は,投入としてのWと産出としてのW’との価格差を,剰余価値として取得してい
る訳です。そして,WもW’も,G−−W−−W’−−G’という運動の内にある訳で
す。
2.小生産の場合にはどうでしょうか。
  そこでは,商品生産がなされています。そして,生産手段は,外部から商品として購入
されるでしょう。その点だけを見ると,小生産も,G−−W−−W’−−G’であるか
のように,また,W…………W’は,生産なので,G−−W−P−W’−−G’であるか
のように見えるでしょう。だが,小生産の場合には,Wは,生産手段のみであり,労働力
商品の購入はなされていません。労働力は,そして,労働は,G――W――G’の運動の
そとにある訳です。問屋制の場合には,生産それ自体は資本の運動の外にある(農家の
家内工業として等)としても,加工という有用効果の購入という形で,生産手段の生産物
への加工過程を資本の運動の内に包摂しています。ですが,小生産の場合には,そう
なっていないのです。
小生産を,G――W――G’,と,見做すためには,以下の二つの過てる仮定が必要とな
ります。
一つは,小生産者は,自己の労働力を自己自身に商品として売っているという擬制で
す。この擬制は,資本・賃労働関係が支配的になれば,成立する「擬制」であるとして
も,飽くまでも擬制にすぎません。このような擬制に依拠するとすれば,縄文時代の
人々も,自己の労働力を自己に商品として売っていた,とでも,新古典派的にいうことに
なってしまうでしょう。
二つ目は,小生産者の生活手段を,小生産者はそれを商品として買うのだから,G−−W
−P−W’−−G’のWのなかに入っていると,見る場合です。この見方は,産業資本
においても,労働力ではなく,労働者の生活手段をWのなかに入れることになるが故に,
また,生活手段の購入→労働力の再生産,を,資本の運動の内に入れることになるが故
に,謬見と言わざるをえないでしょう。
3.資本の一般的定式は,G――W――G’である,資本は,「価値の形態変換(姿態変換メ
タモルホーゼではなく,形態変換ホルムベクセル)を通じて,自己増殖する価値の運動体」である。
私は,この資本規定を固守すべきと思っています。
商人資本(私は,流通形態論では,同一商品価格差利用資本,といいますが)の場合には,
購入商品の価値が,最初の資本価値のなかに入っています。また,問屋制の場合にも,原
料などの生産手段と「加工という有用効果」の価値とが,最初の投下資本価値のなかに
入っています。だが,小生産の場合には,生活手段の価値が,Wの価値として問題になる
だけで,
あり,範式で表現すると,
     A…………−+
           |
G――  W………… −+ W――G’       
であって,労働力はそして,労働も,G――W――G’の内に入っていない,と言わざる
をえない。
小生産においても,剰余価値が得られることがあるでしょう。(生産手段の価値+労働
者の生活手段の価値)<生産物の価値,であれば,そうなります。ですが,それは,投下さ
れた資本価値が増殖した訳ではないのです。
4.総じて,流通浸透視角に則ればそうであるように,G――W――G’が生産と重合す
るという論点に依拠すればするほど,小生産は,資本の運動の内に生産を包摂・重合し
たものではないことが,明らかになるのである。小生産の場合の労働は,そして生産は,
資本の「流通」に入っていないからである。

(2)参考のために,以下,私の信大での原論の講義ノート,をコピーする。
「?異種商品間の価格差を利用
さらに,資本は,異なる商品の間の価格差の取得を目指す。
(例えば,綿花と綿糸との間の,価格差から剰余価値を得ようとする)
・G−−W・W’−−G’
 Wを買い,これをW’に変えて売る。

 WとW’とは使用価値が異なるのだから,WをW’に変えるためには,
 生産がなされなければならない。
  その生産を,外で行う場合(問屋制家内工業)
   G−−W−−W’−−G’
    W 生産手段(労働手段,原料,)+ 加工という有用効果(生産を委
託))
  その生産を資本の運動の内で行う場合
・G−−W−−P−−W’−−G’
    [P−−Produktion] 
  そのためには, Wの内に, 労働力と生産手段とを含まねばならない。
     (労働者を雇う) 
・     A
  G−−W{Pm−P−−W’−−G’

  A−−Arbeitskraft
    Pm−− Produktionsmittel
このような運動をする資本を産業資本という
産業資本とは,G−−W−−G’という運動の内に,生産を包摂したもの。
流通や,生産つかんで総過程  (◆註a))
 流通や,生産つかんで産業資本
  流通形態としての資本,G−−W−−G’が,生産をつかむ
 流通や,労働力つかんで産業資本(資本主義)
  労働力の商品化−−資本主義の本質
 特殊歴史的な「形態」としての「流通」が,あらゆる社会に共通な「実体」としての
「生産」を包摂した点に,資本主義の「本質」がある。(◆註b))    」

今日(2004.11.13)の追加
註a)この,「流通や,生産つかんで総過程」という俳句の著作権は,「や,」が「切れ
字」で,「流通や」で流通形態論と生産論とは「切れ」る,ということも含め,小幡氏に
あります。私も,講義の際,「私の友人が」と述べ,その著作権のありどころを表明して
おります。
註b)「形態」「実体」「本質」の関連は,宇野さんが,言っていることです。

◆元々は,詳論をと思っていたのですが,上記(1)で結構時間を使ったので,以下,問題点
の提起のみとします。
(3)流通浸透視角と,本源的蓄積論
   1.宇野さんの「歴史」把握は,大塚久雄氏の「中間層の競争による両極分解による
資本主義の成立」という,商品経済史観の批判にあった。本源的蓄積の強調ということ
もこの点に関連する。
   2.出自論にこだわっている訳ではないが,宇野さんと大塚さんとの,対立は,商人資
本の産業資本への転化への道と,小生産者の産業資本家への上昇の道との対立にあっ
た。
  3.上記2からは,宇野自身,流通浸透視角を有していたと言ってよい。問題は,流通浸
透視角は,即,本源的蓄積の重視の否定を意味するのか,という点にある。
   「流通浸透」としての,商人資本の問屋制としての展開が,その展開自身において,
産業資本の成立を意味するとすれば,「流通浸透視角」で問題は終われり,ということ
になる。ウェーバー,大塚のように,問屋制のもとでは職人は,「賃仕事」(加工という
有用効果の販売)で,次第に,職人は,労働手段を奪われ,労働力を売り「賃労働」をする
ようになる,労働手段からの生産手段の分離は,問屋制の下での加工委託者の賃労働者
への転化が主軸をなす,というのであれば,農奴(正確には隷農)からの生産手段(特に農
地)からの分離(従来問題にされてきた本源的蓄積)は,どうでもよいことになるだろ
う。だが,商人資本のマニュファクチュア経営,問屋制のマニュファクチュアへの転化
は,部分的に生じてきた労働力の商品化,本源的蓄積を「前提」するのであって,問屋制
から産業資本への自生的展開ではないように思える。
  4.「商人資本のマニュファクチュア経営,問屋制のマニュファクチュアへの転化は,
部分的に生じてきた労働力の商品化,本源的蓄積を「前提」する」という点に関連し
て。
私は,西洋経済史の通説では封建制の「確立」と位置づけられている,古典荘園(領主直
営地の比重大,領主直営地での耕作賦役の比重大)から純粋荘園(領主直営地の農奴への
分与,現物貢納・貨幣貢納の比重大,中世の農奴解放=農奴の隷農への転化)への移行
を,封建制の「解体」の開始,本源的蓄積の開始,「目立たないエンクロージャー」の開
始,と位置づけている。
 (4)流通浸透視角と,小生産
  「流通浸透視角」は,商人資本の問屋制を通じての生産との「重合」,さらには,労働
力商品化を「前提」しての商人資本の産業資本(マニュファクチュアも産業資本)への
転化という点にあるのであって,商人資本の小生産者への転化にあるのではないのでは
ないか。
  江戸時代の農民,職人が,商品経済の浸透・拡大とともに,商品生産者,小生産者とな
るのであって,また,その一部が,部分的な本源的蓄積を「前提」に産業資本に転化し,
他の一部が,流通に専業化し商人資本になるのであって,商人資本が,小生産者に――農
民に職人に――なる,ということは,基本的な筋ではないと,言わざるを得ない。
  商人資本の「自営業者」への転化の道は,純粋論理的な「演繹」としては仮想しうる
としても,現実の論理ではない気がする。

[☆青才高志 <aosai@econ.shinshu-u.ac.jp>
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