_genron_00045_ Re_ 「価値の切目」と「生産過程の流通過程化」 †送信者 : taaosai@ybb.ne.jp 本文 †from 青才@信大経済です。 ◆青才ゼミ:前回(11月5日)の問題点を,HPに挙げておきました。 ◆以下,小幡さんの,「小生産者も資本家」という説に対して,検討します。 ☆なお,以下の文書,東大大学院HPにも挙げておきます。 ☆小幡説 Date: Sat, 6 Nov 2004 09:56:08 +0900 From: 小幡 道昭 <obata@e.u-tokyo.ac.jp> Subject: [genron:00041] 「価値の切目」と「生産過程の流通過程化」 To: genron@georg.e.u-tokyo.ac.jp ☆同文のもの, HP obata > 論文コメント > 勝村務? > 「価値の切目」について ◆まず,小生産者も資本家という小幡説の再掲 「-が、なかなか、決断がつかなかったのは、いわゆる小生産者の位置づけです。労働 力商品を購入することなく、自己労働で生産をおこなうような、街の靴屋 とかパン屋とかは資本ではない、というのは、呪縛だったのではないか、という気が してきました。マニュファクチュアだって立派な資本主義だというのは、 最近とくに分業論などやりながら、考えてきたのですが、小生産者は資本ではない、 という固定観念にまでは、なかなか反省が及びませんでした。昨日も賛成 する人は皆無でしたが、私自身はここまで資本に含めていいということになりそうで す。演繹的にそうなるという意味ですが、その理論的な含意も説明で[き]そう です。要するに、資本の一般的定式を基準に考えると、流通形態としての資本とその 外部に広がる世界との<重合>形式には、少なくとも<変容論>的アプ ローチなら<理論的に>多様な形態が分析可能になる、というように思っています。 aosaiさん、どうでしょうか?」 ◆以下,検討,批判 最後の「aosaiさん、どうでしょうか?」の挑発に乗り,私の考えを述べます。 (1)まずは,形式的なことから。 小幡氏は,「流通形態としての資本とその外部に広がる世界[当該部分では,生産]との <重合>形式」の一つとして,小生産があり,その意味で,小生産も,資本の運動だと言 われています。ですが,その展開自身,自説解体的とはなっていないでしょうか。 1.流通形態としての資本の範式は,資本の一般的定式は,G――W――G’です。 そして,マニュファクチュアが産業資本であることは当然のこととして,問屋制工業 も,資本です。だが,小生産は,資本と言えるでしょうか。 問屋制は, G−−W−−W’−−G’ であり,Wを買い,それと使用価値が異なる W’を売って,剰余価値を獲得しているのだから,G――W――G’という資本の運動 の変形に過ぎません。勝村氏的に言うと,Wの内の「切れ目」にWのW’への転換過程 が「狭込」された,と言ってよいでしょう。 なお,この場合のWは,生産手段(原料等)と,「加工という有用効果」からなります。 問屋は,投入としてのWと産出としてのW’との価格差を,剰余価値として取得してい る訳です。そして,WもW’も,G−−W−−W’−−G’という運動の内にある訳で す。 2.小生産の場合にはどうでしょうか。 そこでは,商品生産がなされています。そして,生産手段は,外部から商品として購入 されるでしょう。その点だけを見ると,小生産も,G−−W−−W’−−G’であるか のように,また,W…………W’は,生産なので,G−−W−P−W’−−G’であるか のように見えるでしょう。だが,小生産の場合には,Wは,生産手段のみであり,労働力 商品の購入はなされていません。労働力は,そして,労働は,G――W――G’の運動の そとにある訳です。問屋制の場合には,生産それ自体は資本の運動の外にある(農家の 家内工業として等)としても,加工という有用効果の購入という形で,生産手段の生産物 への加工過程を資本の運動の内に包摂しています。ですが,小生産の場合には,そう なっていないのです。 小生産を,G――W――G’,と,見做すためには,以下の二つの過てる仮定が必要とな ります。 一つは,小生産者は,自己の労働力を自己自身に商品として売っているという擬制で す。この擬制は,資本・賃労働関係が支配的になれば,成立する「擬制」であるとして も,飽くまでも擬制にすぎません。このような擬制に依拠するとすれば,縄文時代の 人々も,自己の労働力を自己に商品として売っていた,とでも,新古典派的にいうことに なってしまうでしょう。 二つ目は,小生産者の生活手段を,小生産者はそれを商品として買うのだから,G−−W −P−W’−−G’のWのなかに入っていると,見る場合です。この見方は,産業資本 においても,労働力ではなく,労働者の生活手段をWのなかに入れることになるが故に, また,生活手段の購入→労働力の再生産,を,資本の運動の内に入れることになるが故 に,謬見と言わざるをえないでしょう。 3.資本の一般的定式は,G――W――G’である,資本は,「価値の形態変換(姿態変換メ タモルホーゼではなく,形態変換ホルムベクセル)を通じて,自己増殖する価値の運動体」である。 私は,この資本規定を固守すべきと思っています。 商人資本(私は,流通形態論では,同一商品価格差利用資本,といいますが)の場合には, 購入商品の価値が,最初の資本価値のなかに入っています。また,問屋制の場合にも,原 料などの生産手段と「加工という有用効果」の価値とが,最初の投下資本価値のなかに 入っています。だが,小生産の場合には,生活手段の価値が,Wの価値として問題になる だけで, あり,範式で表現すると, A…………−+ | G―― W………… −+ W――G’ であって,労働力はそして,労働も,G――W――G’の内に入っていない,と言わざる をえない。 小生産においても,剰余価値が得られることがあるでしょう。(生産手段の価値+労働 者の生活手段の価値)<生産物の価値,であれば,そうなります。ですが,それは,投下さ れた資本価値が増殖した訳ではないのです。 4.総じて,流通浸透視角に則ればそうであるように,G――W――G’が生産と重合す るという論点に依拠すればするほど,小生産は,資本の運動の内に生産を包摂・重合し たものではないことが,明らかになるのである。小生産の場合の労働は,そして生産は, 資本の「流通」に入っていないからである。 (2)参考のために,以下,私の信大での原論の講義ノート,をコピーする。 「?異種商品間の価格差を利用 さらに,資本は,異なる商品の間の価格差の取得を目指す。 (例えば,綿花と綿糸との間の,価格差から剰余価値を得ようとする) ・G−−W・W’−−G’ Wを買い,これをW’に変えて売る。 WとW’とは使用価値が異なるのだから,WをW’に変えるためには, 生産がなされなければならない。 その生産を,外で行う場合(問屋制家内工業) G−−W−−W’−−G’ W 生産手段(労働手段,原料,)+ 加工という有用効果(生産を委 託)) その生産を資本の運動の内で行う場合 ・G−−W−−P−−W’−−G’ [P−−Produktion] そのためには, Wの内に, 労働力と生産手段とを含まねばならない。 (労働者を雇う) ・ A G−−W{Pm−P−−W’−−G’ A−−Arbeitskraft Pm−− Produktionsmittel このような運動をする資本を産業資本という 産業資本とは,G−−W−−G’という運動の内に,生産を包摂したもの。 流通や,生産つかんで総過程 (◆註a)) 流通や,生産つかんで産業資本 流通形態としての資本,G−−W−−G’が,生産をつかむ 流通や,労働力つかんで産業資本(資本主義) 労働力の商品化−−資本主義の本質 特殊歴史的な「形態」としての「流通」が,あらゆる社会に共通な「実体」としての 「生産」を包摂した点に,資本主義の「本質」がある。(◆註b)) 」 今日(2004.11.13)の追加 註a)この,「流通や,生産つかんで総過程」という俳句の著作権は,「や,」が「切れ 字」で,「流通や」で流通形態論と生産論とは「切れ」る,ということも含め,小幡氏に あります。私も,講義の際,「私の友人が」と述べ,その著作権のありどころを表明して おります。 註b)「形態」「実体」「本質」の関連は,宇野さんが,言っていることです。 ◆元々は,詳論をと思っていたのですが,上記(1)で結構時間を使ったので,以下,問題点 の提起のみとします。 (3)流通浸透視角と,本源的蓄積論 1.宇野さんの「歴史」把握は,大塚久雄氏の「中間層の競争による両極分解による 資本主義の成立」という,商品経済史観の批判にあった。本源的蓄積の強調ということ もこの点に関連する。 2.出自論にこだわっている訳ではないが,宇野さんと大塚さんとの,対立は,商人資 本の産業資本への転化への道と,小生産者の産業資本家への上昇の道との対立にあっ た。 3.上記2からは,宇野自身,流通浸透視角を有していたと言ってよい。問題は,流通浸 透視角は,即,本源的蓄積の重視の否定を意味するのか,という点にある。 「流通浸透」としての,商人資本の問屋制としての展開が,その展開自身において, 産業資本の成立を意味するとすれば,「流通浸透視角」で問題は終われり,ということ になる。ウェーバー,大塚のように,問屋制のもとでは職人は,「賃仕事」(加工という 有用効果の販売)で,次第に,職人は,労働手段を奪われ,労働力を売り「賃労働」をする ようになる,労働手段からの生産手段の分離は,問屋制の下での加工委託者の賃労働者 への転化が主軸をなす,というのであれば,農奴(正確には隷農)からの生産手段(特に農 地)からの分離(従来問題にされてきた本源的蓄積)は,どうでもよいことになるだろ う。だが,商人資本のマニュファクチュア経営,問屋制のマニュファクチュアへの転化 は,部分的に生じてきた労働力の商品化,本源的蓄積を「前提」するのであって,問屋制 から産業資本への自生的展開ではないように思える。 4.「商人資本のマニュファクチュア経営,問屋制のマニュファクチュアへの転化は, 部分的に生じてきた労働力の商品化,本源的蓄積を「前提」する」という点に関連し て。 私は,西洋経済史の通説では封建制の「確立」と位置づけられている,古典荘園(領主直 営地の比重大,領主直営地での耕作賦役の比重大)から純粋荘園(領主直営地の農奴への 分与,現物貢納・貨幣貢納の比重大,中世の農奴解放=農奴の隷農への転化)への移行 を,封建制の「解体」の開始,本源的蓄積の開始,「目立たないエンクロージャー」の開 始,と位置づけている。 (4)流通浸透視角と,小生産 「流通浸透視角」は,商人資本の問屋制を通じての生産との「重合」,さらには,労働 力商品化を「前提」しての商人資本の産業資本(マニュファクチュアも産業資本)への 転化という点にあるのであって,商人資本の小生産者への転化にあるのではないのでは ないか。 江戸時代の農民,職人が,商品経済の浸透・拡大とともに,商品生産者,小生産者とな るのであって,また,その一部が,部分的な本源的蓄積を「前提」に産業資本に転化し, 他の一部が,流通に専業化し商人資本になるのであって,商人資本が,小生産者に――農 民に職人に――なる,ということは,基本的な筋ではないと,言わざるを得ない。 商人資本の「自営業者」への転化の道は,純粋論理的な「演繹」としては仮想しうる としても,現実の論理ではない気がする。 [☆青才高志 <aosai@econ.shinshu-u.ac.jp> <taaosai@ybb.ne.jp> 〒390-0316 長野県松本市原219-6 電話&ファクス 0263-46-9143 電話 050-1023-9143 ◆旧E-mail address<aosai@econ.shinshu-u.ac.jp>に 送信されても受信できるよう設定しております。 ◆?,どちらにお掛けになっても受信できるように設定しております。] |