オフゼミ第1回 2005-2-25

前夜、雪が降ったりして、寒かったのですが、みなで連句を巻いてみました。

正上常雄:「労働力商品化の理論」

  • 労働力商品化に関して、本来商品ではない、さらには非商品経済的な要因が付帯しているというのではなく、主従関係が基本で、後から商品経済的な関係が付随した、等々の議論があり、宇野派のなかでも、労働力商品という概念を疑問視する動きがある。正上氏の議論は、この場合の商品概念、商品化というときの捉え方が、逆にあまりに狭められているからだ、商品概念を拡張することで、労働力商品化の概念を有効なものに発展させることが必要だ、という趣旨、のようでした。市場は商品経済の原理で、その外部の要因を取りこむ作用、<商品化>の力をもつので、このあたりを追求するのが手だと思います。形式的包摂、実質的包摂などに通じる、<化>の理論、変容作用のようなものを理論化するというのはアイデアかもしれません。射程を広げて、イデオロギー論=物象化論も考えてみる必要がありそうだ、と思いますね。良心の商品化とか、情報や知識の商品化なども、労働力商品化と通じる、<化>の理論でしょう。

泉正樹:「労働と交換価値」

  • 支配労働価値説をどう考えるか、異時点間の富の比較、成長をどうはかるか、このあたりに支配労働価値説の意味を見いだす動きは最近のトレンドでしょう。リカードやマルクスのスミス批判の意義は、相対化されています。ある時点での、搾取関係の解明には、投下労働価値説は意義をもちますが、異時点間の成長は小麦ではかる物量成長ですが、集計概念には投下労働価値説は有効ではないでしょう。生産力の上昇があって小麦は増大しても、雇用時間の増減しか、投下労働量の増減には反映されませんから。
  • そこで、成長の尺度としてみたときの支配労働価値説は、経済原論のなかで果たして意味をもつのか、というあたりが焦点だろうという話になります。原論では出る幕がないようにも思えるのですが、そうでもない、隠れている問題があるのだ、資本の増殖ということをどう量的に捉えるのか、このあたりに効きそうかな、という話をして考えてみました。

結城剛志:「アメリカにおける労働証券論の展開 -- ロバート・オウエンとジョサイア・ウォレン」

  • 事例としてはおもしろいかも。まだ、この種のネタはありそうですから、漁って(表現が悪いですね)みてください。対象がマイナーであればあるほど、それを大きな流れのなかに位置づける力が論文のできを左右するので、マイナーなものを掘り下げて、大きな流れに通じる論脈を読み解く作業をまとめにかけてやってみてください。
  • アメリカのアナーキズムは、どのあたりから伝わったのか、どういう特徴をもつのか、このあたりも隠れたおもしろ問題でしょう。オーウェン主義者は、ニューハーモニーでアメリカに足場をもったのでしょうか、このあたりは、学史学会で最近はやりの、シビック・ヒューマニズムとか、共和主義のルール論に通じる可能性もあります。合衆国のアナーキズムは、今日のグローバリズムの主張から逆算しても、おもしろいテーマでしょう。

服部滋「『国富論』から『道徳感情論』へ」

  • 『国富論』に関する三つの疑問を遡るということで
    • 「自由放任」という考え方;スミスには為政者論もつよくあり、レッセフェールという考え方で一貫しているわけではない、ということでしょうか。
    • スミスの重商主義批判はほんとうに批判となっているのか、第4篇はたしかにおもしろい箇所です。スミスこそむしろ「最後の重商主義者」だったかもしれない、というのは、私にはピンときましたが。
    • スミスのアメリカ論。スミスがアメリカの独立をどう考えていたのか、これはおもしろいテーマだと思います。リストのほうがアメリカでは評価された、というのもなにか逆説的ですね。このあたり、19世紀合衆国で、英国の古典派経済学がどう受容されたのか、という大きな問題になりそうです。裏側が、結城君のやっているテーマにつながっていて、19世紀合衆国でソーシャリズム、アナーキズムがどう根付いたのか、という問題になると思います。

小幡道昭「貨幣増殖と価値増殖」

  • 今回は「転売と投下」という節で書いた話を紹介してみました。『資本論』の後のほうで中心となる「前貸資本」「資本の投下」、投資、出資という概念が、「貨幣の資本への転化」の章では明確になっていない。貨幣の支出をもって資本の投下と捉えるような、曖昧さがある。このことはあまり気にされていないが、かなり致命的なのではないか、というのは、所有する貨幣財産全体と、投下資本との区別が曖昧な個人資本家の立場が、無媒介に資本概念のうちに流れこんでしまっているからです。投資という考え方は、いつ、なにが投下されたのかを明確にする必要があるわけですが、これは貨幣をいつ、いくら支出したのか、とは別の位相に属します。貨幣を支出しなくても、資本投下はなされます。
  • 小幡のねらいは、この意味で、資本の<投下>と転売<活動>を明確に区別することが、資本概念の核心をなすというように捉えて、この観点から、現実の個人資本家というのは、原理的にみて資本投下が曖昧な状態になりやすく、その意味で、概念に照らし未完成な面を残す<現実の資本>のうちの一種である、というように、論理を追い込むところにあります。<投下>と<活動>(運用)の分離、二層化は資本の概念のうちに本源的に宿るものであり、それが実際に明確に分離するのは、株式資本、資本結合のもとでである、というようにいいたいわけです。つまり、<資本概念>からいえば、<現実の資本>の一種である、個人資本家も株式資本も、ともに概念としての資本から距離があり、そうした<現実の資本>の存在を左右するような<開口部>(規定的ブラックボックス)が資本概念のうちにも存在する、というように結論づけたいわけです。
  • 問題自体はわかるでしょうか、「転売と投下」の区別から<開口部>につなぐ論脈が読めいないという方が約一名いらっしゃいましたが、私も二十年ほどまえに、転売こそ資本概念の核心だ、という論文を認めて以来、ずっとみえなかった、微妙な隙間を穿った、その先の話ゆえ、迷路を抜けるような感じだろうと思います。

ということで、この座は閉じ、三丁目でラーメンを食べてお開きということにしました。ごくろうさまでした。


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Last-modified: 2021-02-20 (土) 17:32:13