多数化の論理

価値形態論で多数のグループの等価物が、少数のグループの等価物にかわって、グループの統合が進むというようなfairly tale が受けいれられている。しかし、これは論理的にはかなり疑わしい飛躍を含んでいる。分析的に考えてみると次のようになる。

  1. 交換の媒体として多数に帰属することが有利か?
  2. 購買力の持ち越し、蓄蔵という側面で多数に帰属するほうが有利か?
  3. そもそも価値表現という次元で多数に帰属せざるをえないのか?

特定の使用価値を離れて、したがって特定の欲求から離れて、なにかがほしい、ということの欲望は、貨幣蓄蔵につながる欲望である。そうであれば、この点を明確にする必要がある。それは拡大された価値形態の欲望が、等価物がandになっているということである。しかし、拡大された価値形態のかたちで考えるかぎり、等価物の列はたとえandでむすばれても、相対的価値形態におかれれる所持する商品の量によって減退されている。

交換の媒介として、orのかたちで列記れていると考える場合には、なんでもいい、という意味で、その列の長さは背元を受けない。この意味で、何で胃もいい、という媒介性と、単一の、あるいはともかく絞られた数の貨幣商品でなくてはならない、という自己目的性との間には区別がある。

多数グループに少数グループが糾合されるのは、それは当然だ、という現象論的な説明に自足すべきではないだろう。


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Last-modified: 2021-02-20 (土) 17:32:13