G. A. Cohen「マルクスにおける搾取」

  • 「搾取はなぜ不正か」という問題提起をしている、Cohenの議論を検討したのですが、問題は次のようになりそうです。Cohen自身は自分で、この問題に答えるつもりはなく、もっぱら、この問題に、マルクスが、あるいはマルクス主義者が、どのように答えようとしてきたか、分析して、その瑕疵を明らかにしよう、というのがねらいなのではないでしょうか。
  • Cohenの整理は単純化すれば、
    生産手段の不平等な分配(A)-->剰余の抽出・移転(B)
    という関係をどう捉えるか、ということになるのでしょう。マルクスは、労働力の商品化、というようなかたちで端的に示される無産労働者=Aを否定している、と考えて、その論強は、搾取=Bを生みだすことにある、と推論しているのだ、と解釈していると思います。
  • Cohenの提示している不正に関するアプローチは2ないし3あると思います。
  1. 規範論的アプローチ それ自身で不正
  2. 因果論的アプローチ あることを生むがために、その関係において不正
    1. 論理的因果論的アプローチ 論理的な推論としてAならBが成りたつ(おそらくこれは論理的必然性があるということになるでしょう)
    2. 傾向的因果論的アプローチ 蓋然性としてAならBになる可能性がある(事実としてそういう現象が多く観察されるということでしょう)
  • Bは規範的アプローチによれば、それ自身で「不正」である。これがなぜかは、Cohenは括弧に入れられて問いません。この点は、もともと、なぜか、を<論理的な意味での因果関係>で説明できるようなものにはなっていない。
  • Cohen自身は、AはBを生む可能性があるという意味での<傾向としての因果関係>をもつので、不正である、という関係を認めているように解釈してよいのでしょうか。 もしそうだとして、これは、因果的意味で不正、ということだけなのか、二次的にやはり規範的な意味でも不正なのか、明確ではありません。
  • マルクスは、不正か、正義か、というような価値判断については、イデオロギー論を対置してきた。規範論的アプローチは、このイデオロギー論を否定するものであろう。どのような意味で、イデオロギー論は再批判されるべきか、この点がききたいところです。

コーエン報告に関するリプライ

muneyuki(中村宗之) (2005-01-20 (木) 23:24:59)

コメントをいただきまして、はっきりとはお答えできない点も多いのですが、以下若干リプライをします。

1. コーエンが「搾取はなぜ不正か」という問いにたいして、この章で正面から内容を答えていないのは確かだと思います。またこの著作全体としても、テーマは「リバタリアニズム批判」にしぼられていて、コーエンの理想とする自由と平等との組み合わせや、それを現実のものとする社会システムなどは表には出てきていません。コーエン氏自身の積極的な主張は、「利益へのアクセスの平等 equality of access to advantage」というもので、別の論文で提起されています。この基準からみて、労働者の生産した剰余生産物が資本家に取得されるのは不正だと(ごくまれにその平等と資本主義的搾取が両立することはあるかもしれませんし、資本主義よりも悪い体制と比較すれば資本主義はましだと判断する等々はあるでしょうが)、いうことが基本的主張だと私は推測します。

この第8章では、小幡先生の整理されたAとBのどちらが、搾取は不正だと主張するときの不正のありかなのか、ということだけ論じられています。このように問題を限定することが、第1節で述べられています。

2.「Cohen自身は、AはBを生む可能性があるという意味での<傾向としての因果関係>をもつので、不正である、という関係を認めているように解釈してよいのでしょうか。もしそうだとして、これは、因果的意味で不正、ということだけなのか、二次的にやはり規範的な意味でも不正なのか、明確ではありません。」

私は、傾向としての因果関係(または蓋然性、比較的強い相関関係等と言い換えてよいでしょう)が、AとBとの間には事実の問題として観察でき(また、論理的にも、生産手段の格差が存在する場合に搾取が非常に発生しやすいこと・あるいは確実に発生することは、ローマーの1980年代の仕事により証明されているといってよいと思います)、これによりそれ自体が不正とされるBの不正をAは二次的に帯びる、と読みます。この点ではおそらく同意見です。

 ただし、「因果的意味で不正」という概念はなく、因果関係は事実あるいは論理的な事物間の関係を描写する言葉ではないかと、私は考えます。不正というのは、あくまで規範的な意味であり、規範のレベルでしか規定できないと考えます。これはコーエンの考えとは異なるかもしれません。

 さらに、どちらの意味での不正なのかは、AとBのどちらに(規範的に根本的な)不正は存在するのかという問いを解く際には、あまり問題にはならない気がします。因果的に(派生した)不正であれ(私は不正をこのような意味では用いないつもりですが)、規範的に派生した二次的不正であれ、一次的・一義的な不正は剰余の移転にあるというコーエンの結論には影響しないのではないでしょうか。
 コーエンはこの点について、たしかにはっきりしないように見えます。しかし、私のように考えれば、それなりに整理できているのかもしれません。

3. マルクスのイデオロギー論について、まず私はこのマルクスの考え方をあまり理解できていないので、保留して考え中です。

4. 私が先日の報告で、コーエン論文とは直接関係なく、その場で思ったことがあります。同様の発言もしましたが、次のような考えに反対することです。「価値判断は歴史性を帯びている、ないし階級性をつねに帯びている。だから、価値判断の内容について論じることには意味がない。それは現実の力関係や歴史が決めることにすぎない」。
 私は、「歴史貫通的な正義」は、若干存在すると考えます。宇野弘蔵が、刑法は超歴史的と述べたことと共通するかもしれません。しかし、正義と不正に関するあらゆる主張は歴史貫通的なものだとして、そのような観点から主張されなければならないとは考えません。歴史貫通的な判断基準の方が、そうでない特定の状況に依拠した判断基準よりも強力だとは思います。しかし、歴史貫通的に、たとえば「利益に対するアクセスの平等」という正義が主張できたとしても、その正義の実現や、それに沿った不正の是正をおこなう際には、そのときの歴史的状況を当然考慮して具体的な立法や制度や経済システムを形成しなければならないので、そういう意味で歴史を無視した主張というのは成り立たないでしょう。さらに、歴史限定的な正義の主張であっても、それで十分よいこともあるでしょう。
 私が反対したいのは、価値相対主義を論拠として(不正に、正しくなく)利用し、価値判断やその内容の分析を意味がないものだと断定するニヒリズムです(ということを言いたいのだと、自覚しました)。さらにいえば、経済学と価値判断とを積極的に無関係なものにしてしまう考え方です。

リプライの補足

muneyuki (2005-01-21 (金) 23:37:10)

 私は次のように書きました。
「(P)価値判断は歴史性を帯びている、ないし階級性をつねに帯びている。(Q)だから、価値判断の内容について論じることには意味がない。(R)それ(=価値判断や、経済政策を含む政治の内容)は現実の力関係や歴史が決めることにすぎない」

 私が批判的に述べているこのような主張を、先日のゼミで発言した方はいませんでしたし、私も特定の人を念頭に書いたわけではありません。比較的よく議論したあの人はこう考えているのではないかと、漠然とは思い浮かべていましたが、本人に確認したところそんな主張はしないという返事をいただき、たしかにこれほど極端な考えが書かれているものを見た記憶は、私にもありませんでした。
 なので、私がこれまでいろいろなところで読んだことや議論のやり取りの中で出てきた断片的な主張を結合させて、私の脳内で仮想論敵を作り、彼に向かって議論していたようです。
 しかし、このような極端にニヒルな主張も、かたちとしてはありうるものですし、明瞭には書かれていなくても、敷衍していけばこのような思考に至る文章や論文はあると考えます。これから多少気をつけて、見つけてみたいと思います。

 なお私は、Pの部分はおおよそ正しいと考えます。しかし、PからQを導くのは早急であり、その推論に矛盾があるとまではいえなくとも、もしPからQを言うならば埋めなければならない飛躍があるということです。Rは、たしかに誰が何を考え何を言おうとも世界はたいして変化しないことが多いという意味では正しいが、そう言いきってしまうとQを補完するだけでなく、あらゆる学問的営為の意義を否定し、政治的決定の基礎に存在するはずの、一つひとつは無力で無意味なようにみえる議論をすべて否定してしまうので、採用すべきではない、というところです。


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Last-modified: 2021-02-20 (土) 17:32:13