土地所有をめぐって †
土地所有の無為 †
受動性、無為性に対して、土地所有の独自の活動を再検討してみるというのはいいと思うが、土地の貸し手としての競争活動の面で指摘するのが適切かどうか。差額地代の原理を説く場合、借り手資本の競争が、超過利潤の押し出しの原動力である点は否定できないのではないか。地代水準の決定原理は、資本の側の超過利潤にある。
土地合体資本について †
この点がいちばんおもしろかった。資本投下として、すべての土地合体型の投資がまかなえるか。
土地公有化について †
- 土地所有は、資本にとっても、地主による所有を前提にしなければならないことはない。資本主義自身でも廃棄する動力がある(かどうか?)差額地代の受理機関としての国家。利潤率均等化を結果的にもたらす、押し出し先としてなら、私的所有である必要はない。二大階級で資本主義は可能か。森氏が強調する所有権を否定することに対する「上部構造的な」齟齬、矛盾が公有化に進まない根拠なのか。
- 資本にとって、生産手段はすべて資本の投下対象として所有対象としてその運動のうちに取り込まれるかどうか。資本にとって、いわば”苦手”のものがある。
- 回収に長期を要するもの。姿態変換をつうじて、増殖する運動の本性を制約。
- 規模の大きなもの。マルクスの集中集積論的な資本主義的生産様式理解ではこれはあまり強調されていない。
- 不均質性を残すもの。自然力一般に伏在する。労働による生産物は均質性を具えるのに対して、非生産物は不均質性を残す。差額地代における超過利潤押し出し先の存在(消極的土地所有)。
- 資本による市場を通じた社会的再生産の把握は、以上のような(ほかにもあるかもしれないが)いくつかの理由により、非資本(流動的、姿態変換的な資本の本性に不適合という意味で「非」)的な所有のあり方を生みだす、というのが「三大階級」論的な資本主義像の根本である。逆に、資本はすべてを所有対象にできるとすれば、二大階級論的な資本主義像になる。
- アナーキズム的な市場社会主義は、私的土地所有を廃棄した競争的な市場を理念化して、その道徳的・倫理的な意義を高く評価するのではないか。