価値と労働の関係:論点1

『資本論』では「抽象的人間労働」=「価値実体」と「社会的に平均的に必要とされる労働量」=「価値量」という区別が明確になされていると思います。価値とか「広義の価値」とかいうのは、だいたい、<マルクスのいうところの価値実体>のことで、宇野はこの<マルクスのいう価値実体>と<価値量>の区別が明確でなく、価値形態と価値実体(<マルクスのいう価値実体>と価値量をいっしょにしたもの)の二層にしてしまったのではないか、と以前から思っていますがどうでしょうか。つまり、マルクスの価値概念はもともと三層でできていて、価値量ー価値実体ー価値形態となっているのではないかと思うのです。これはもう少しテキストに沿って解釈してみたいところです。

青才さんのコメント(3)(4)について

obata (2005-01-20 (木) 09:39:18)

青才さんのコメントの(3)(4)で指摘されている点は、オバタも同じように解釈しました。要するに、正上説は三層になっていないということでしょう。

価値の内在性:論点2

「その商品には交換力が内在しているという認識が、個々の交換者に自分の商品の交換力を他の同種の商品と比べてみるなどの行動を取らせると説明はできる。」というのですが、この因果関係は逆かもしれません。交換力が内在しているというのは、やはり、内在していると考える、思うという意味で、内在しているというべきでそう。商品の使用価値が「他人のための使用価値」であるということが基礎で、この「他人」の眼で自分の商品を見直してみると、交換力があると考えられていることに想到するわけです。純粋に自己と商品体との関係でまず、交換性が内在している、という「認識」が生まれるわけではないと思います。

ものに重さがある、そういう属性があるというのも、そう思うということによってそうなるわけです。ただ、だれがやっても同じ重さであるから、とくに他人の眼を介してそう思うようになる、という面が強くはでてこないだけで、やはり経験を通じて重さという<属性がある>と思い、それを前提に思考し行動するということは、商品に価値という<属性がある>という場合と同じでしょう。

Ding an sich、「もの自体」は捉えようがないのであり、そのDingの属性というのは、人間悟性のがわにあるのだ、といえば、なにやらカント流の観念論めいてきますが、<属性がある>というのはやはり主体の判断が関わることではないかと思います。ものに重さがある、ということと、商品に価値がある、という場合の<ある>ということに、決定的なちがいを言い過ぎたではないか、という気がしております。重さはあるが、価値は実はないのだ、とどこかで思っていませんか。報告の前半、労働力の商品の価値は擬制だ、とか、「その価格を通じて商品形態を受け取る」とかいうのは、重さがあるように<ある>のが<本来のある>で、それに対して、商品の価値というのは、<ある>といっても重さが<ある>ようには<ある>わけではない、<ある>のレベルが違う、というように考えているのではないでしょうか。それは、重さが<ある>というあるのほうが、主体の判断に依拠していることを無視して(もさしつかえないから無視して)いる、ためではないか、主観性の介在という意味では、両方とも同じなのだ、と思うのですが、どうでしょうか。

「抽象的人間労働の意味をめぐって、体化労働か交換によって事後的に規定される労働かという議論がありました。いわゆるルービン派と呼ばれる人々の話です」という点ですが、次の点もどう考えるか、教えてください。 つまり、ルービン派の場合、売られた<結果>から価値量を逆算する、<実現>された価格が価値の大きさなのだ、価値の大きさがあらかじめあって、それが表示され、実現されるのだ、というようには考えるべきではない、という着想があるように思います。うえの価値が<ある>というときには、他人の眼を介してだが、ともかく、推定し判断するという契機が主体性の核になるのですが、このような交換の結果から事後的に与えられるのだ、という外面性は、主体性の関わりかたが違うと思います。

商品所有者の観点、主体性、主観性といっても、認識しにくい量を積極的に事前に探る行動を重視する立場と、そうしたものは<ある>と思って探ってみても、所詮、客観的には知り得ないのだから、他人にまかせて、あるいは不特定多数の集合的な結果にまかせて、受容するほかないという消極的反映としての主観性を捉える立場とは違います。このあたりの主体の設定が、市場像を左右するのではないかと思います。

青才さんのコメント(5)について

obata (2005-01-20 (木) 10:03:59)

青才さんのコメントの(5)を読むと、一言でいえば、内属性=重心説でしょう。そして重心=労働・生産ということになっていると思います。要するに生産価格が規定できる商品には、価値が内在するように見える、ということで、これは最近の通説だろうとおもいます。

そこであえて、お尋ねします。
生産価格をこえて、内在性を説明する、より原初的な契機、有りや否やと?

その心は 種の属性としての価値、ということです。
種としての属性を保証する契機は2種類あって、(1)在庫=転売型と(2)再生産=流入型で、ともに市場で同じものがたくさんあるという関係を保証するものです。

在ると有る

obata (2005-01-22 (土) 00:30:56)

価値が<ある>という問題について、最近考えたことです。うえにも記したのですが、再論してみます。

  1. モノが<在る>
  2. モノに属性が<有る>

この2種類の<ある>は区別したほうがいいでしょう。一見すると<在る>というのは、客観的でたしかなようみえますが、ほんとうに<在る>かどうかは確証はありません。属性のほうは、<在る>モノが生みだす、派生的な効果のように、日常、自分自身は素朴に信じられるわけです。手で触ってわかるとか、感覚に直接訴えてくるので第1次的な存在のようですが、他人に説明しようとすると、とたんに難しくなってきます。

けっきょく、感覚を共有できない他人には、そのものはどんなモノか、属性をいろいろあげて説明するほかないことになります。その意味では確実なのは、属性のほうでしょう。この属性は、認識主体がそう思うという回路を通じて、こうだろう、こうみえる、というように論じるほかないのであり、その意味で主観による見なされた性格となるわけです。だから、他者との間で理解が成りたつという意味では、<有る>のほうが、客観的で本質的で確実なあり方なのです。

さて、モノに重さが「ある」という場合の「ある」は、<在る>ではなくて<有る>でしょう。価値もやはり<有る>のです。しかし、重さのほうは、<在る>と混同されて、重さというモノが独自に<在る>ように考えられ、これに対して、価値のほうは<有る>のだ、と区別されてきたのではないか、というのが、私の疑いです。

重さはたしかに<在る>が、価値は<在る>のではなくて<有る>のだ、というのが幻想だ、というわけです。


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Last-modified: 2021-02-20 (土) 17:32:13