&tooltip(政治経済学ワークショップ){2004-09-24};

価値概念と交換

  • 序言の二つの問題、1と2の関連性が不明、別の論文に分けたらよいのでは。
  • 突っ込み不足の感あり。たとえば、ボルトケビッチとスティードマンの批判の連関は?既知の研究の紹介で論文としては不要で冗長な印象をあたえる。
  • 内在的な価値とそれを表示する価格(市場価格)とのずれの問題は、『資本論』で繰り返し指摘されているとおもいますが、どうしてこういう硬直的な結論にいきなりもちこむのでしょうか?

    しかし仮にそう考えるとしても,このことは,『資本論』第1巻で展開される等労働量交換の論理と第3巻で展開される不等労働量交換との間の論理の不整合を何ら正当化することにはならない。確かにマルクスは,商品の価値は,最終的にはその現象形態である価格によって表現されると考えた。しかしマルクスにとってその価格は,商品に対象化された人間労働と一対一に対応していたはずであり,先に本稿で挙げた例でいえば,貨幣商品である金1gに対象化されている労働時間が1時間であり,それに1円という貨幣名が与えられているならば,ともに10時間労働を含む10?の小麦と1着の上着は10円という価格を持つということに他ならない。...10?の小麦の価値が8円という現象形態を取るとか,1着の上着の価値が15円という現象形態を取るといった関係を,マルクスは決して想定していないのである。14ページ

  • 総じて、1では、だいたいよく知られたマルクスの価値の量規定、生産価格への転化、などが<紹介>されていますが、どこが著者の批判点、疑問点であり、なにがオリジナルな知見、解決なのか、不明。
  • III「価値概念と交換」という箇所について
    • 1「労働の特殊性」の結論ですが、

      こうした,純生産物の分割原理に対して弾力性を有する労働力を,商品交換の形式で自己の運動のうちに取り込むことで,資本は結果として剰余労働部分を積極的に創り出していくことになる。上例に引き付けてみるならば,資本は労働主体との間で分割されるパン1億トンのより多くの取得を目指すものとして,労働主体に対峙することになるのである。ここから,資本と労働主体との間には,支配・被支配という規定関係が存在するとは直ちにいいえないとしても,純生産物の取得に関しての,階層的な関係が存在することは指摘できる。つまり,量規定を与えられた価値概念を用いることなしに,資本主義経済の階級性が論じられるのである。(21ページ)(「階層的な」は階級的な、でしょうね。)

    • 最後の”つまり”がどうして、つまりなのか、わかりません。おそらく、<量規定>ということが、ただちに投下労働量による価値量ということになっているのでしょう。小幡は、この狭い限定を外して<量規定>はなされる、わかりやすくいえば、日高普『経済原論』では生産価格が価値の量規定である、といっていると思いますが、厳密には付言すべきこともありますが、そういうことです。この辺、泉氏にかぎらないのですが、自分の考えを他人の拡大解釈(誤解ともいう)で主張するのは学問的ではないでしょう。ここでは、泉氏は価値の量規定は必要がない、という潜在的主張があるのでしょうから、小幡を批判されるのがいいでしょう。労働量による価値の量規定を小幡がとっていない、ということと、価値の量規定そのものを与えていない、ということにはギャップがあるのですから、ここを指摘して小幡の考えではどこがどうまずいのか、積極的に批判すべき論文としてのいちばん大事なポイントです。小幡の紹介を1ページかけてやるなら、そこはもっと簡略にして、積極的な批判をしかり紙数をとって展開してください。
  • 2「マルクスのもう一つの価値概念」
  • まえの続きですがもう一言。

    こうしたマルクスの主題は,量規定の与えられた価値概念を用いずに論じることができるという小幡の議論

    というのですが、小幡の眼目は、投下労働量から離れたとたんに「量規定の与えられた価値概念」「量規定の与えられない価値概念」*1になってしまう、ヤワな価値概念を克服することにあったのです。冒頭における商品の価値概念が、労働価値説の批判からただちに「量規定の与えられた価値概念」「量規定の与えられない価値概念」、「質的な」価値概念、わかりやくいえば価格です、に後退してしまうことの限界を批判したつもりです。市場ではどの売り手も自分の商品には”ある大きさの価値が内在している”と考えて行動する、と考えたのです。種の属性としての価値というのは、このことを厳密に捉えるための小幡の工夫です。
    量規定に関して、(1)投下労働量、ないし(2)価値価格、(3)生産価格、などはこれまで認められてきたと思います。が、これでゆくとやはり、冒頭で労働価値説が与えられないだけでなく、生産との関係も陽表されないとすれば、とりあえず市場一般を考察する領域では、価値の量規定は不可能なのだ、という壁は突破できず、いわゆる流通論での商品には価値の量規定はないのだ、ということから、市場一般がいわゆる需要と供給の均衡の場、通俗的な価格論に後退してしまっている、貨幣の存在する無規律な市場の内部構造が捉えられなくなっているのだ、不確定性といっても要するに、情報の不完全性だ、とか、気まぐれだとか、何か説明すべきでない外的な事情として、思考が停止してしまう、ここを批判したつもりだったのです。
    泉氏の立場は、小幡からみれば、「量規定の与えられない価値概念」を正当化しようとして、回り道をしているだけに思えるのです。しかもその限界を何とかして指摘しようとしている(つもりの)小幡も、この「量規定の与えられない価値概念」を主張しているのだ、というのですが、ここらは正面から「量規定の与えられない価値概念」を独自にたてて主張すべきでしょう。すでに宇野派の歴史のなかでさんざん言われてきた、形態論=「量規定の与えられない価値概念」という諸説をこえた、独自の「量規定の与えられない価値概念」を新たに泉氏の自説として深めたらどうでしょうか。それによって、新たなかたちで形態論レベルで価値の量規定を捉え返す小幡のような宇野派の反動を、正面から批判したよいのではないでしょうか。
  • マルクスが矛盾しているというのですが、これはかなりマルクスを狭く(誤ったといわれるでしょうね)解釈して、批判しているということになるでしょう。私の原則ですが、<支持賛成するときには厳格に狭義に解釈して同意し、批判するときにはできるだけ可能性を含めて多様に解釈して反対する>べきだと考えています。狭く解釈してゆくから、似ていても賛成しないで、そのどこになお問題があるのか、自分に近い、そうだと、と思うときには踏みとどまって、しかし、ほんとうに自分の考えと同じなのか、もういとど反省してみる、逆に批判するときには、いろいろ多様な解釈の余地を探ることで、自分の考えとは一見かけ離れている、反対だと思われるもののうちに、実はこちらに通じる可能性があることを示すことで、自説を拡張してゆく、というような心構えです*2。さて

    「マルクスが理解を示した,無価値の事物の交換価値という論理は,価値を関係概念において理解するものであり,それは本来の彼の基本視角とは相容れないのである。マルクスが自身の基本視角との整合性を貫こうとするのであれば,交換に供せられ商品形態を与えられる事物にはすべからく,価値形態ないし価格形態として現象するところの内実が存在するのだ,という論理が組まれるべきだったのではないか。」(26ページ)

    というのは限定的解釈で無理にマルクスを批判していることになります。一般にもマルクスが、労働生産物以外にも商品になり、したがって価値をもつ、といっていることは広く認められ、これを積極的に評価する(外面性、外来性、付着形態とか)人たちも多くいますし、そんな部分にこだわっていては、資本主義の社会的再生産を処理する本体の流通の本質を見誤るだけだ、という人たちもいます。労働生産物商品は商品一般の部分集合である、これはいまさら強調するまでもないことで、この先の論争が論文の本体になるのではないでしょうか。
  • 結論部分ですが、

    「この〈値打ち〉そのものは,マルクスにおける価値のように,商品に同質性と量規定との両方を与えるものではなく,事物一般にただ同質性のみを与える。しかしこの同質性は,交換という社会的行為が射程に入れられ,他の事物との関係性において量規定を得るとき,商品の価値として現象する。」

    <値打ち>のことを一般に価値いっているのではないでしょうか。なにか、言葉の言い換えに終わっていて、長い論文なのですが、けっきょくなにが言いたかったのか、はっきりしないのではないでしょうか。こういう価値概念をとることで、いままで見えてこなかった、あるいは通常無視されてきた、何かが発見されるのだ、という、この何かがよくわからないのです。価値といわずに値打ちといえば、辻褄が合う、というだけではないかという印象をもちました。
  • 細かい点ですが、

    「かくも著しい差異のあるいろいろなものが通約的となるということは,ほんとうは不可能なのであるが,需要ということへの関係から充分に可能となる」

    というアリストテレスからの引用で、この<需要>の一語を拡大解釈して、需要が価値を生みだす、という方向に議論を進めますが、この<需要>は原語はなにでしょうか、経済学でいまいう需要のことでしょうか、このあたりの気配りが必要だと思います。
  • 泉論部の基底には、需要か価値をつくる、交換が価値を生みだす、という発想があるように思われるのですが、これは結論にちょっとだけでてくる、値打ちなら内在するといってもいい、という譲歩とうまくかみあっているのか、はっきりしません。
  • もう一点気になったこと。

    「事物が有する同質性としてアリストテレスは,〈潜在的な他人のための使用価値〉を挙げていると考えられるのである」

    というように、ここで〈潜在的な他人のための使用価値〉をもちだすのですが、なぜこの用語が必要なのか、ちょっとわかりません。少なくともマルクスは、使用価値を価値とは異なって、異質な性格、比較できないもの、非同質性というかたちで捉えていたので、そのマルクスの「他人のための使用価値」という概念をどうして、ここで<>つきで、しかも「潜在的な」という修飾をかけて、逆の意味で使うのか。マルクスの場合、「他人のための使用価値」というのは、売り手側からみて価値を制約するものという意味で、他人のための使用価値といっているのでしょう。泉論文では、逆に需要の側からみて、買い手の立場で同質性をいっている、あるいは売れなければどうせ役に立たないのだから、価値といってもそれは需要あってのこと、需要が価値を生みだすのだ、それ以外の価値などない、という内在的価値否定説に基本的にはたっているように読めます。
  • アリストテレスの部分を、もっとつっこんで検討すると、内在的価値説の盲点、狭さが浮き彫りになる可能性はありそうなので、もう少し精細に検討して、この論文のハナにしたらどうですか。紹介的な部分で、とくに新しい批判的立論を含まない部分は全部カットした方がいいでしょう。
  • だいぶ酷評しましたが、めげずにがんばって、批判精神に満ちたいい論文を書いてください。

泉氏からのリプライ

先日はお忙しい中,ワークショップを開いていただきありがとうございました。当日配布しましたリプライは,表層的なものに留まっていますので,ここで改めて,当日の議論を踏まえながら,若干の追加的なリプライを行なってみたいと思います。

まず,アリストテレスの需要概念ですが,大黒先生のご報告を起点にして,いわゆる経済学的な意味での〈需要〉を意味しているのではないということを念頭に置きながら今後勉強していきます。

さて,当日配布したリプライの中では充分に触れることができませんでしたが,上記コメントの核は,〈量規定の与えられない価値〉についてだと思います。 当日の議論でも述べましたが,私は価値形態として現象する以前の「価値そのもの」に量規定を与えることはできないのではないかと考えています。用語が適切ではないと指摘されましたが,先の草稿で用いた用語を踏襲すると,この「価値そのもの」に〈値打ち〉という用語が充てられています。 しかし,〈価値そのもの〉に量規定が与えられないとしても,それが現象形態を受け取るときには,等価形態に置かれる商品によって,相対的価値形態に置かれる商品の価値は量化されるのだと述べました。 小幡先生のコメントの中で,

「泉氏の立場は、小幡からみれば、「量規定の与えられない価値概念」を正当化しようとして、回り道をしているだけに思えるのです。しかもその限界を何とかして指摘しようとしている(つもりの)小幡も、この「量規定の与えられない価値概念」を主張しているのだ,」

という文言があります。私は,小幡先生の〈種の属性としての価値〉という概念は,それが現象形態を取り,繰り返し実現されるまでは,量規定を受け取ることのできない概念なのではないかと解釈しています(この点は後で述べます)。 しかしこのことは,商品には〈価値の種〉(この用語が適切かどうか分かりませんが)は内在しないということを意味するものではない,と考えています。 「量規定を与えられない価値概念」を取り,しかも生産との関係を切り離している泉の議論の背景には,「内在的価値否定説」がある,というのが小幡先生の基本的な評価だと理解しています。 しかし先の草稿では書き込めていなかったかもしれませんが,私自身は,「内在的価値肯定説」を背景において,「量規定を与えられない価値概念」を提示したかったのです。 問題は,商品に「何か」が内在していると考えるとき,その「何か」は,現象する前の段階ですでに「量規定を与えられた価値」(「完全な価値」といってもいいかもしれません)の状態で内在しているのか,それとも「量規定を与えられない価値」(「不完全な価値」もしくは「価値の種」といってもいいかもしれません)の状態で内在しているのか,ということだと思います。

小幡先生の〈種の属性としての価値〉という概念は,この問題に対して,後者の立場を採られたのではないかと理解しています。

「種の属性としての価値」(『経済学論集』第70巻第1号)では,「商品が<個体>として有する価格に対して,同種の商品は同じ価値をもつという,<種>の属性としての価値という概念を設定する」(13頁)という見解が提示されています。そして,「商品価値の内属性には内なるものの外への表出という一般的な関係にとどまらない独自の社会性が付帯している」(13頁)とされています。この「独自な社会性」というのは,大げさな感情表現を自制するような,「観察者の目を介した適宜性」(13頁)のことを意味しており,「商品の価値表現では,こうした他者迂回性や社会的適宜性がより強く前面に現れる」(13頁)のだとされます。 その上で,各自が10個の球を売ろうとしている10人の球の所有者の例が挙げられています。この球の所有者は,それぞれが自分の球1個に,他の球の所有者の価格付けを読み合いながら,90円とか110円とかの価格を付けるかもしれない。しかし,こうした商品が有する<個体>としての価格に対して,この球が1個100円で売られる状況が繰り返されれば,10人の球の所有者は,実は自分の球には1個100円の価値が内在しているのだという観念が生まれるのだとされています。 この,1個100円という「社会的適宜性」こそが,<個体>としての価格とは区別された,「<種>の属性としての価値」なのだとされています。

問題は,ではこの「社会的適宜性」はどのように形成されるのか,ということになるのではないかと思います。この点を説明したのが,宇野価値尺度論であると私は理解しています。つまり,繰り返される購買によって,「社会的適宜性」は形成される。 そのことによってしか,価値に量規定を与えることはできないのだ,ということになりはしないでしょうか?(もちろん,宇野においてはその背後に生産が念頭に置かれてはいますが,2004-09-29 (水) 00:46:53 by izumi)  とするならば,商品に「何か」が内在しているとしても,それは「量規定を与えられない」状態で内在しているのであって,その量化は,この「何か」が現象形態を取るだけではなく,それが繰り返し実現されることによって果たされる,ということになるのではないかと考えられます。

とすると,私の草稿の書き方ではまずいことになります。先の草稿では,表現=量化という図式で書いていますが,繰り返しの購買=量化というふうに書き改める必要があると現段階では考えています。 もう一度,論理を組み直してみることにします。

post by izumi

  • 当時配布しましたリプライのファイルを添付しておきます。2004-09-30 (木) 23:31:57 by izumi

*1 泉氏に指摘されました。小幡の誤記です。
*2 人には優しく、自分には厳しく、みたいで、ちょっと道学者風な説教です。もちろん、私もこのとおりにはできませんが

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Last-modified: 2021-02-20 (土) 17:32:13