はじめに、市場をめぐる現代的座標を示し、 つぎに今回の三つの報告をこの座標軸のなかに位置づけたうえで、 簡単に私自身の立場も示唆することで、コメントとしたい。
今世紀は資本主義経済と「市場経済」との関係が新たなかたちで問われる時代となった。 その背景は、前世紀末におけるグローバリズムと社会主義計画経済の崩壊である。 20世紀のマルクス主義はレーニン流の帝国主義論をベースに、 第三世界の民族解放闘争と先進資本主義国の労働運動を統合してきた。 二段階革命として時系列化するにせよ、 世界革命として共時化するにせよ、 民族解放闘争と反戦反軍国主義闘争とを帝国主義論を核に結合してきた 20世紀のマルクス主義は、その立脚点を根底から問われるに至った。 こうしたなかで、革命による国民国家の打倒と、 市場の全面的廃棄・計画経済への即時移行というヴィジョンに替わるべき、 資本主義を超える可能性、オールタナティブを模索する動きが顕著となりつつある。
それは具体的には、 資本主義経済の周縁、市場と非市場、経済と非経済との境界に対する関心の高まりとなって 現れている。 すなわちひと口に市場といっても、 実は多様性を具えており、ある一つの純粋像に還元して是非を問いうるものではない、 という論調も高まりつつある。 *1 「現代と市場」という共通論題はこうした動向を反映している。
こうしたなかで今日、反資本主義の運動は、 社会民主主義と固有の市場社会主義の両極に分岐し、 それが市場に対する評価を根底で規定している。 ただ、この点は混乱のものとなるので、 誤解をさける意味で少しだけ説明を附す。
今世紀に加速した社会主義的運動の一つの動向は、福祉国家の延長線に、社会主義への漸進の道を探る社会民主主義の動きである。これはすでに前世紀に、先進資本主義国における社会主義のなかで強まっていった。恐慌不況期の雇用創出に政府の財政・金融面からの直接・間接の介与が強化され、巨大企業の国有化、官僚機構や法体系の拡充、合理的な規制が、混合経済として体制側からも模索された。いわゆる比較体制論でも資本主義と社会主義との収斂説が支配的だったのである。社会民主主義の潮流は概して、自由競争的市場の自己調整作用に対して懐疑的であり、市場は必要悪であり、その欠陥をさまざまな非市場的な組織、制度の拡充で保管する指向を強く帯びていた。革命的マルクス主義のような全面的即時的な市場廃棄論ではないが、基本的には市場の漸進的な収縮を結果的に受け入れるものであった。
しかし、グローバリズムと結びついたプライバタイゼーション、規制緩和・民営化のもとで、既存の福祉国家の基礎が揺らぐ。社会民主主義は既存の伝統的保守主義との境界が不分明になり、積極的な主張をなしえなくなる。さらにグローバリズムが進展するなかで、先進国内部の一国的な利益の擁護が、社会主義本来のイデオロギーとのディレンマを深めている。第三世界の諸国が、非資本主義的な方向で経済発展を指向する間はこの軋轢は相対的に緩和されていたが、排外主義への傾斜という社会民主主義の宿痾も再発する。社会民主主義は、福祉国家の一国主義、たとえば中国の台頭、あるいは低開発地域からの労働人口の流入などに対する排外主義をいかに脱しうるのか、地域主義や環境擁護派も固有のナショナリズムからいかに逃れうるのか、問われるのである。
これに対して、先進資本主義国の内部では国民国家やさらに巨大な統合国家の肥大化に対抗する社会主義的な流れも強まっている。固有の意味での市場社会主義、ネオ・アナーキズムの動きである。強力な国民国家の形成と支配に鋭く対抗する流れは、19世紀の社会主義のある意味で本流であった。20世紀に態を潜めてきたこの動きが再び活性化している。
このネオ・アナーキズムとしての市場社会主義は、社会民主主義のように、市場を必要悪として容認するのではなく、逆に権威や抑圧によらざる、自由で対等な社会編成の基本原理として、市場そのものを積極的に評価する。むろん、これは眼前に現存する市場をそのまま容認しようというのではない。現実の市場は不完全であり、そのことがさまざまな弊害を生んでいることを指摘し、改革の必要を強調する。むしろその点では資本主義の現状に対してきわめてラディカルな批判を展開するのであるが、それはけっして市場の廃棄に向かうのではなく、逆に自由や平等といった市場本来の積極面を拡充する方向に進むのである。
本来の市場社会主義、固有のアナーキズムのこうした指向性は、実はグローバリズムを主導する市場原理主義的な主張と共振し、規制緩和を求める体制側の「改革革新」と結びついている。社会民主主義が、競争市場の不安定性や所得分配の格差などを是正する目的で、諸制度や法規制の拡充や、財政規模の拡張や公務員の増員などを通じて、混合経済への収斂として、事実上大企業の形成組織や官僚機構と癒着してきた面を、固有の市場社会主義は規制緩和を求め新たな資本活動の場を切り開こうとする市場原理主義的な動向と結びつき、左右から挟撃するという、体制・反体制と、保守・革新との奇妙な交差現象が今日さまざまな局面で観察されるわけである。 こうしたなかで、マルクスのプルードン批判以来繰り返されてきた、市場社会主義の内的矛盾が今日また重要な意味をもってきている。自由な競争は搾取なき市場をうみだすのか、利潤(さらに利子)なき市場は存立可能なのか、こうした問題が再び現実味を帯びてきている。
要するに、社会民主主義が市場を必要悪と見なし、可能な範囲でそれを他の社会編成原理で置換しようとしたのに対して、市場社会主義は逆に国家などによる規制を必要悪と見なし、自由な個人による規制なき自由な社会編成の原理を市場に託さんとする。その意味で、おおむね社会民主主義が市場を残した将来社会に否定的であるのに対して、市場社会主義は市場に積極的な評価を与える。 20世紀の社会主義の本流をなしてきたマルクス主義の全面的・即時的市場廃棄論の後退のもとで、市場の漸進的縮小、非市場的な社会編成原理の拡充を指向する社会民主主義的な市場観と、これとは反対に、市場の拡充、国家の消滅を指向するネオ・アナーキズム的な市場観のいずれに与するのか、現代と市場の第1の座標軸はこの点にある。
このような状況のなかで市場に対する基本的な立場も分化してくる。将来を広く視野にいれれば、 今日多くの論者が過去の遺物とみている全面的な市場廃棄・計画経済化論が新たなかたちで 復活することがないとはいえないが、当面のところ、市場の全面否定論は現実性をもたない。 市場をどのような観点から評価し、どう位置づけるか、市場観の<内容>とともに、それを 論じる<方法>が問題となるのである。
帝国主義論に典型的なかたちで示される、資本主義の変質・多様化の認識は、ある意味で20世紀マルクス主義の出発点であった。それは、本来資本主義に至る歴史的諸社会の発展段階に関して主張されてきた唯物史観を、資本主義自体の発展段階にも適用する意味をもっていた。資本主義という生産様式は、はじめから否定されるべき存在とはいえない。それは単に経済的側面のみならず、広く「文明化作用」といってよいような、歴史的指名を帯びている。ただそれは、いまや自ら生み出した新たな生産力の発達のもとで、資本による市場編成は寿命を終える。
このよう観点から、20世紀マルクス主義は、市場の不適合を展開してきた。はやくは、独占停滞説や大恐慌型不安定説、「過剰資本」と帝国主義間戦争から、やがては体制間矛盾や冷戦構造にいたる一連の危機論の流れがある。また逆に、混合経済や体制収斂説、福祉国家論やクリーピング・ソーシャリズムのような革命なき社会主義論も並行して展開されてきた。宇野弘蔵の不純化論も、一面には不純化=不適合説的色調がないとはいえず、そこに一種の脱資本主義論を読みこむこともあながち不可能とはいえない。
しかし、グローバリズムと社会主義の崩壊はこうした歴史的客観分析に基づく危機論、あるいは脱資本市議論の限界を明らかにした。帝国主義を資本主義の最高で最後の発展段階であるという基盤が動揺し、市場的原理の漸進的収縮が進行すると簡単に断じがたくなったのである。
こうした状況のなかで、今日さまざまなかたちで市場の多様性が論じられるようになっている。 マルクス主義の帝国主義論も、広い意味では資本主義における市場の多様性を 射程に収めた理論であるが、そこに含まれた歴史的な時間軸が 相対化し抜き去る傾向が次第に強まっている。こうして、 市場が多様であるという認識は、どのような市場を相対的に受容可能なもの見なすのか、 という問題に発展する。ここに、いわば”望ましい市場像”をめぐる、一種の選択基準を 規範論的なアプローチも生まれてくる。 もともとアナーキズムは現実の資本主義と市場経済一般を区別する伝統があり、 あるべき市場社会像を提示することで理念的に現実の資本主義を批判する性格を具えていた。 それはいわば市場経済のメリット・デメリットを指摘し、 その意味では改良主義的な制度設計を指向する傾向にあったのである。 そしてまた、 規範的アプローチで市場経済を全面的一般的に批判する立場は、 マルクス主義にも無視できないかたちで流れている。 資本主義を原理的に否定する主張は、グローバリズムの現実とともに 復活する面をもつのである。
こうした規範的、理念的な観点からは、市場経済のメリットをどうとらえるかに関しては、 一般に 資源の最適配分をめぐる静態的効率性の観点が支配的であり、 「完全競争」を理念化した反独占論、現実の市場の失敗を是正する「厚生経済学」の流れがある。 さらに競争のもつ動的な効果を強調する傾向も強まっている。 資本主義に固有な生産技術の革新や権威や強制に替わる動機づけなど、 倫理的な観点も含めて市場を理念化する動きは流行といってよい。
これに対して、なぜ市場を制限するのか、という点を理念的一般的に説くこともできなくはない。 その中心となるのは、分配をめぐる不公正の問題であろう。 マルクスの剰余価値論は、単純な規範理論ではないが、 市場のもとで隠された搾取を暴いた理論と解釈されてきた面もある。 *2
また、市場に対する理念的な批判は、その不安定性というかたちでも強調されてきた。 具体的には、恐慌をともなう景気循環の不可避性、 有効需要の不足や累積的な不況の持続性など、 動態としての市場経済の問題点がさまざまなかたちで指摘されてきたのである。 さらには、資本主義のもとで進む共同性の解体、自然環境の破壊など、古くは 帝国主義の腐朽性というかたちで指摘されてきた問題が広範なバリエーションで 論じられている。
市場拡張 | 市場収縮 | |
理念的評価 | A | B |
歴史的分析 | C | D |
私見もこのかぎりでは、基本的には歴史的分析+市場収縮の範疇に属する。むろんこれはあくまでも接近方法の整理であり、その類似性は主張内容の一致を意味するものではない。むしろ同じ方法にたつ場合ほど、主張内容は鋭く対立するであろう。 ただその場合、危機論にせよ脱資本主義論にせよ、歴史的分析の立場が規範的理念的な価値判断を唯物史観にいういわゆる上部構造の問題として意識的に論じることをさけてきたことは反省する必要があろう。むろん、理念的な観点から資本主義を批判しなおさなければならいと素朴にいっているわけではない。ただ、市場そのものの分析ととともに、それが生みだし支えている社会的理念をも考察の射程におさめないかぎり、市場の先にあるものをとらえることはできない。マルクスのいう意味でのイデオロギー的な作用を明らかにすることなしに、社会編成の原理としての市場を相対化し先に進むことはできないという点をここでは強調しておきたい。
大西報告は、一種のクリーピング・ソーシャリズムのようにみえる。資本主義はいつの間にか、株式資本の情報公開のもとで社会主義に変貌している(いた)、ということになっているのではない。