『資本論』第一巻を読む 第7回

第2章「交換過程」

今回は、第2章に進みます。当然、第1章「商品」との関係はどうなっているのか、問題になりますが、それは後で考えることにして、掻い摘まんで内容をみてゆきます。が、そのまえにひとこと、この章は錯綜していて、マルクスも何がこの章の課題か、はっきり書いているわけではないので、あちこち引き回される感じがするのですが、要するになにを主張しているのでしょうか、一言でいえば….?


物々交換をしようとすると矛盾が生じる、これを解決するには貨幣が必要だ」ということかなと思います。「貨幣の生成論」ということになります。「交換過程」というのは「直接的な生産物交換」のことで、「直接的な生産物交換」=物々交換=商品と商品の交換=W—W’のことで、「全面的な」物々交換、つまりすべての商品が直接物々交換するのはムリで、第三の商品 つまり貨幣を一つ排除して、これを媒介にW — G — W’ にならざる得ない、だから、貨幣が必要なんだ、という主張がコアだと思います。このような説明が正しく、また必要であるかは、わかりませんが….

ちなみに、初版では「諸商品の交換過程」というのが章のタイトルだったのに、再版のときになぜか「諸商品の」をとってしまったようです。たしかに「生産物交換」ではなく、「商品交換」でよいのか、といわれるとむずかしい。商品は交換されるのではなく、流通するはず、だから「商品交換」ではなく「商品流通」が実際のすがたでしょう。

さて、ということで内容をみてみましょう….
(1) ここではじめて商品所有者が登場します。「経済的諸関係の人格化」というかたちです。かなり消極的な主体にみえるのですが、どうでしょうか。宇野弘蔵が欲望をもった商品所有者を、価値形態論のところで考える必要があると唱えたのに対して、久留間鮫蔵が『価値形態論と交換過程論』で反論し論争になったところです。プルードン批判の註38があります。これは若いときの『哲学の貧困』と同じトーンの批判です。

(2) ついで「交換問答」になります。「諸商品は、みずからを使用価値として実現しうるまえに、価値として実現しなければならない」しかし「諸商品はみずからを価値として実現しうるまえに、みずからが使用価値であることを実証しなければならない」というのです。使うにはまず買わなければならないが、買うかどうかは、使えるかどうかは買わなければきめられない… という感じでしょうか。前半は「使用価値の実現」で後半では「使用価値の実証」ですが、なにか意味に違いがあるのでしょうか。

(3) ついで、排除論による貨幣の導出になります。ポイントは「すべての商品がいっせいに…」交換できるか、という点です。すべての商品は潜在的には等価形態におけるのだが、すべてが一度にはできない、といって、商品所有者は困惑するだろう、だが「はじめに行為ありき」だというです。一商品を貨幣にする(排除する)ことで、それは可能になる、というのです。これは、貨幣の導出になっているか、というと疑問ですが、価値形態での、拡大された価値形態の等式の「逆転」とは違う「排除」の論理になっているようにみえます。

(4) このあと、「直接的な生産物交換」と「商品交換」(売買)との違いが、歴史的な発展を背景に論じられてゆきます。「直接的な生産物交換」というのは、物々交換です。全面的に物々交換がなされるということはないのですが、物々交換だと、いわば交換されてはじめて「商品」だったことがわかるのであり、交換に先立って価値をもち、それを貨幣で表現して実現する、というかたちにならない、といっていることになります。「交換品は、それ自身のしようかちまたは交換者の個人的欲求から、独立して価値形態をまだ受けとってはいない」(S.103)というのです。「交換品」というのは、物々交換されるものということでしょう。これは商品ではない、価値が内在し、それが価値形態として現象する、という関係にはなっていないのだ、というのです。このあとにでてくる「第三の商品」というのが貨幣なのですが、これが一つに落ちつく過程を、歴史的に説明し、最後に「貴金属」になるとしています。

(5)こうして「金銀は生まれながらにして貨幣ではないが、貨幣は生まれながらにして金銀である」という命題が提示されます。しかし、これは金貨幣だけがホントの貨幣だ、という意味ではないでしょう。

(6)貨幣商品が金銀であるとすると、貨幣の使用価値は、貴金属としての使用価値のほかに、「形式的使用価値」をもつというのですが、後のほうも「使用価値」とよぶのはどうでしょうかこのあと、S.105 から、貨幣と商品の関係をめぐる転倒性が論じられてゆきます。中心的な問題は、「貨幣の価値の大きさ」でしょうか。一連の議論をへた後、「貨幣が商品であるということは知られていたけれども、…. 困難は、貨幣が商品であることを理解する点にあるのではなく、どのようにしてwie なぜ warum なにによって wodurch 商品が貨幣であるのかを理解する点にある」と結んでいます。久留間鮫蔵が、wie が価値形態論で warum が物神性論、wodurch が交換過程論だ、と説明したことはよく知られています。はじめにちょっとふれましたが、第1章と第2章の関係をどう理解するか、価値形態論、物神性論、交換過程論と並列されているのか、という問題です。商品と貨幣の基本的な関係を理解するのに、交換過程論が必要なのかどうか、問われるところです。私は、価値形態論一本で基本は済ますべきだという立場で、これは宇野派では一般的な考え方かもしれません。

最後のパラグラフも、基本的に転倒性の補足です。王と臣民の弁証法とかいわれた考え方(註21)でしょう。「その商品が貨幣であるからこそ、他の諸商品はその商品で一般的にそれらの価値を表示するかのようにみえる」という話です。

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