『資本論』第一巻を読む 第9回

第3章「貨幣または商品流通」

第2節「流通手段」

この節はa「商品の変態」 b「貨幣の通流」 c「鋳貨、価値章標」の3項からなっており、全部を2時間で話すのは無理です。前半は、第1章の価値概念に関わるむずかしい記述が再現されているところもあり、丁寧に読むと理解が深まるのですが、後半の「流通手段の必要量」や「鋳貨」の話は、現実の貨幣現象について、現代の問題に引きつけて読むこともできます。どっちで話しましょうか…..

a「商品の変態

■「変態」Metamorphose とは

ここは価値形態論の復習になります。4番目のパラグラフに出てくる次の用語に注意してみてください。

「商品は、実在的には reell 使用価値であり、その価値存在 Wertsein は、価格のなかに、ただ観念的に ideell 現れる erscheint にすぎない。この価格によって商品はその実在的価値姿態 Wertgestalt としての、対立する金と関連させられる。…」っていう、判じ物のような説明ですが、ここら辺が解釈できるようになれば、読みは卒業でしょう。

  1. 「実在的」と「観念的」の関連は?
  2. 「実在的」と「価値存在」の関係は?
  3. 「価値姿態」と「価値形態」の違いは?

■W-G

この部分の最初の長いパラグラフには、いろいろなことが羅列されていて体系的に整理されていない感じがしますが、「命がけの飛躍」とか「市場の胃の腑」とか、よく引かれる箇所です。ちゃんと整理してみたいとも思います。市場に対する理解、主流派の経済学が考える需給均衡論と違う市場の捉え方が読み取れるのですが、批判的に読まないと現象論に終わってしまうところです。問題を出してみます。”市場の胃の腑を超えるほど、過剰に生産されてしまったリンネルの<価値の大きさ>はどうなるのでしょうか?”…「もっとも、異常な場合には、この形態変化において実体 — 価値の大きさ — が減らされたり増やされたりすることはあるだろうが。」(S.122 末)ってマルクスはいうのですが….

後は形式的な説明です。

■G-W

2パラグラフほど、形式的な説明が続きます。

■総変態

「4つの極と3人の登場人物」というまとめになりますが、日本のマルクス経済学の教科書では、だれもが使っている便利な図があります。私も大学で講義するときには、貨幣の章にはったときに、まずこの図を書いてしまって、貨幣のある市場のイメージをもってもらい、次に価値尺度、流通手段、蓄蔵手段の順で、貨幣の機能を説明してます。この図、『資本論』にはないんです。たぶん、19世紀の組み版では、この図を入れるのがむずかしかったのではないでしょうか。そういえば、『資本論』には、表はでてくるのですが、図解はあまりありませんね。それはともかく、この図はだれが考えたのか、日頃、お世話になっているだけに、以前からずっと気になっていました。こういうものに、著作権を言い立てる人は不粋です。河上肇先生の教科書のある、なんて教えてくれた人もいましたが…

この項の最後のパラグラフは大事です。売りは買いであるというセー法則、「商品流通は諸販売と諸購買との必然的均衡をもたらすというドグマ」が問題にされています。「命がけの飛躍」のパラグラフと、このパラグラフをつなげて考えてみて、マルクスの考えている市場、マルクス経済学の市場像が、ミクロ理論の市場像と根本的に違うことがわかれば、『資本論』をホントに読んだことになると思います。マルクス経済学を教えている人でも、「需要供給で市場価格はきまり、その価格でならスムースに売れる」あるいは、「需要供給の関係で価格は上昇下落を繰り返す、そうした価格変動の重心が価値なんだ」という人は多いのですが、ここで、マルクス経済学の鼎の軽重が問われると思います。『価値論批判』という本で書いた話ですが、その主旨が反ミクロ理論だということを、去年の秋、経済理論学会の大会で力説したのですが、だれもわからなかったようです。そのうち、ちゃんとした論文にまとめてみます。

b「貨幣の通流」

■「単純な商品流通」

S.130の末まで、貨幣の「通流」と商品の「流通」の関係が述べられている。註(74)直前の

「それゆえ、貨幣の運動は商品流通の表現にすぎないにもかかわらず、逆に、商品流通が貨幣の運動の結果にすぎないものとして現れるのである。」

という認識がポイントでしょう。「貨幣の運動は商品流通の表現にすぎない」というW — G — W’ 的市場観です。でも私は、マルクスが真の姿だというこの図式(W — G — W’ )で市場をみることは誤りだと思います。かといって、単純にひっくり返して、「商品流通が貨幣の運動の結果にすぎない」というのも誤りでしょうが… 同種の商品には同じ大きさの価値が内在すること、ただ、その同じ価値を、個々の商品が価格で「表現」しても、その価格の「実現」には個別的なバラツキが生じること、価値どおりの価格だから同じようにスムースに売れるわけではない、という点が、市場の無規律性のポイントだと思います。「貨幣の運動は商品流通の表現にすぎない」という命題は、このポイントから外すことになるのです。

W — G — W’ 的市場観の意味についてもう少し説明すると、これは、市場の基本を W — W’ とみなして、ただこの直接的生産物交換、つまり物々交換が困難だから、間にGを媒介物として挿入したのだ、と考えるわけです。第2章「交換過程」がこのかたちで貨幣の必要性を説明しています。リンネルWははじめから上衣W’との交換を想定しているわけです。どのW’にも、それを求めるWが対応している。だから、価値どおりになら、すぐに売れることになります。

しかし、貨幣が実在する市場を考えてみてください。リンネルも、そしてどの商品Wもみなその価値を貨幣価格で表現し、その価格に実現することをめざしていますが、その後、W’を買うことを予定しているわけではありません。W—Gで終わっているわけです。特定の商品を買うことを前提に、ある商品を売るわけではありません。この関係をW — G — W’とつないで、貨幣は商品交換の媒介物だと捉えるのは誤りだというのは、G—W がつくりだす事後的な連鎖を、事前に想定することになっているからです。

■流通手段の総量

「流通部面はどれだけの貨幣を吸収するのか、という問題」(S.131) に先立って、まず、「金(貨幣素材)の価値」が論じられる。

<「諸商品の実現されるべき価格総額」→ 「流通手段の総量」>命題。これは「W — G — W’ 的市場観」の帰結。

S.137-8の「幻想」(貨幣数量説)とマルクスの「流通手段の必要量」は、真に対立しているのか?という問題が、最近のトピックかもしれません。両方とも、中立貨幣説じゃないの….

c 鋳貨。価値標章

Münze Wertzeichen (coin, symbols of value)

表題の鋳貨は、coin ですが、内容は Zeichen = sign = signe の記号論です。摩滅したコインが、摩滅していないコインと区別なく使われるという現象から、流通手段として機能する貨幣は、紙製の象徴でよい、記号でよいという結論に進むのですが、この説明は受けいれがたい。この説明の根本には、やはり<W — G — W’ 的市場観>が潜んでいます。

ここは「国家紙幣」フィアットマネーの話ですが、二つのちょっと違う理由で、紙券流通について述べられています。

  1. 強制通用力
  2. 代理関係

このほかに、「信用貨幣は、単純な商品流通の立場からいってわれわれのまだまったく知らない諸関係を想定する。…本来の紙券が流通手段としての貨幣の機能から生じるとすれば、信用貨幣は、支払い手段としての貨幣の機能に、その自然発生的な根源をもっている。」(S.141)

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