はっきりいうと…

頼まれ仕事とはいえ、自分が教えを受けてきた先生、中国語でいう老師 lǎoshī の本を評するというのは、書かれたもの以外の雑念がどうも払いきれず、なんだか、歯切れがわるい書評:「伊藤誠『マルクス経済学の方法と現代世界』」になってしまいましたが、はっきりいうと…

次の3点で納得いかなかったということです。

  1. 第1・2章:宇野弘蔵の原理論+段階論の意義は、本書のように『資本論』の方法的継承としてではなく、私は方法論的切断、独自の方法論の提起として評価。本書における原理論の有効性についての考え方の根底には、近似モデル論(理論は現実に似ているから役にたつという考え方)がある。しかし、発展段階論の基礎になる原理論は、かつては似ていたものがになくなったということを、重視するもの。新自由主義のもとで、かつての自由主義に逆流したから、また『資本論』を直接現実に適用しうるようになった、というのは、けっきょく、この近似モデル論的な理論の適用方法が基礎にあるから。
  2. 第3章:20世紀末の資本主義諸国の新たな勃興は、<逆流仮説>では捉えられない。<多重起源説>の必要性。
  3. 第4章:20世紀の「マルクス主義」を根本から批判することぬきに、社会民主主義との「連帯・協力」を呼びかけても社会主義の展望はひらけない。狭義の社会主義に対しても、社会民主主義との協力を呼びかけるのですが、これでは、一段高いところから革命党が戦略戦術をたて大衆運動を指導できると考えてきた二〇世紀のマルクス主義が自壊した現実の先には進めない。(「マルクス主義の起源とゆくえ」の2以下をご覧ください。)

なお、本書では「山口・小幡論争」として16頁ほど割かれていますが、枚数に限りのある書評なので、この部分については別の機会に留保しました。ただ「山口・小幡論争」というと、ヒートアップした二人の<人争>のようにきこえますが、内容はいちおう、「原理論の論理的再純化+類型論としての段階論」対「変容論的原理論+多重起源説的段階論」というマルクス経済学の理論構成をめぐる<論争>でした。少なくとも私は<論争>にしたかったのです。本書で示された原理論の直接適用説や逆流仮説などが、新たな第三の<論>を構成するものかどうか、考えてみます。

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