『資本論』第一巻を読む V:第1回

  • 日時:2018年4月19日(木)18時-20時
  • 場所:理科大葛飾キャンパス食堂
  • テーマ:『資本論』第1巻第21章

 

5年目に入りますが、引き続き、第1巻のハイライトである、蓄積論の部分を読んでゆきます。

場所を移して継続します。

第21章「単純再生産」

 

 

概要

 

序 — 無政府性について

はじめに、第七篇全体に対する「序」があります。

この序では、蓄積過程を「純粋に分析するために」

  1. 剰余価値の分配(地代や利子などへの)
  2. 流通過程の媒介運動(正常な価値どおりの販売など)は度外視する、

ことが述べられています。この「正常な過程」については、かつて宇野弘蔵が異論を唱えたところです。

「マルクスは、「資本の蓄積過程」を論ずる場合にも「以下では、資本はその流通過程を正常な仕方で通るということが前提される。この過程のもっと詳しい分析は第二巻で行われる」(『資本論』第1卷〔イ〕五九二頁、岩(四)七頁)といっているが、商品経済ではいわば「正常」でない「仕方」の内に「正常な仕方」が実現されるものとして、この「正常な仕方」をも理解しなければならない。商品経済の法則性は、無政府的な諸「契機」をただ「捨象」してしまったのでは、「形態」規定を「純粋に把握する」ということはできなくなる。マルクスがこれらの言葉をどういう考えで述べたかは別として、簡単に「価値通り」の売買を「正常」な状態としたのでは、無政府性を通して実現される法則性という、商品経済に特有な社会的規制の仕方とそれに適応した形態規定が無視されることになる。無政府性は決して無法則性ではない。いいかえれば無政府性を通して実現される法則性が「正常な仕方」なのである。したがってここで「商品は価値どおりに売られるということが想定されるだけでなく、この売りが不変の事情のもとで行われるということも想定される」としても、資本の流通形態が、商品、貨幣の形態による無政府性を解除されるということになるわけ ではない 。 むしろ 反対 に 商品経済の無政府 性に適応した流通形態が生産過程を把握するための特有な形態規定を明らかにしようというわけである 。」(『経済原論』岩波全書 86頁)

この箇所には、宇野弘蔵が価値形態論を重視したことの理論的意義が如実に示されていると思います。私自身、このクダリを何度も読み長いことずっと考えてきて、やっと宇野のいうところの「形態」の真の意味が理解できたような気がしました。

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ところで、マルクスは資本の運動を貨幣(の支出)ではじまり、貨幣が回収されるかたちで終わる「運動」を基本に考えています。そして、この後、はじめの貨幣は資本に「再転化する」というのですが、この資本の運動の捉え方はちょっと腑に落ちないところがあります。資本は貨幣の特殊な使い方だ、貨幣を増やすのが資本だ、といった通俗的な資本観に戻ってしまっているように思えるのです。『資本論』のこの「序」の部分を読むと、G–W … P … W’ — G’ のなかで G — W … W– G の部分が、独立に抽出されているようにみえます。単純再生産を繰り返すG と、自由に処分できる「収入」としてのΔGに、G’が切り離されているのです。

つぎの第21章「単純再生産」は、この循環するGを資本の本体とみる観点を基礎にして展開されます。したがってΔGの一部は、循環運動から切り離され、自由に処分できる収入を構成し、これが独自の契機で処分されるというように二分されます。そしてこのいったん分離独立化された貨幣ΔGは、新たに資本に「転化」する。これが厳密な意味での「蓄積」で、次の次の22章「剰余価値の資本への転化」になります。このような、貨幣の支出に焦点をあてた資本概念に対して、私は批判的です。『資本論』の資本概念には、価値増殖という基本概念に、貨幣増加という表面的な規定が絡んでいて、ここではこの貨幣中心の資本観が強くでているからです。

貨幣の支出と回収で考える表面的な資本の捉え方は、「無政府性を通して実現される法則性が「正常な仕方」なのである」と宇野が批判したポイントに反するのです。価値どおりに基本的に売れるという前提があるから、GとΔGの分離をうみ、価値増殖と貨幣増加を区別のつかないものにする原因でではないかと考えています。ただこの問題は複雑で、ここでここまでいうのは適当ではないかもしれませんが。

第21章

生産手段の再生産

第1パラグラフと第2パラグラフでは、「再生産」が基本的に、消費された生産手段の新生産物による補填であることが明確にされている。私は、この規定が再生産の根本であると考える。

労働力の再生産

ところが、この後、再生産の概念は、労働力を対象としたものにシフトしてゆく。つまり労働力の再生産が中心になる。そしてさらに、「資本関係」つまり資本賃労働関係の再生産、「関係」の再生産に拡張される。この「再生産」概念の拡張は、原理的な考察にとって必要なのか、ここに意義を見いだす人も多いだろうが、私は労働力については「維持」、資本関係に関しては「再形成」といった別の用語をあて、生産手段の「再生産」とは区別すべきだと考える。

  1. 生産手段の再生産
  2. 労働力の再生産
  3. 階級関係の再生産

可変資本の前貸し

とはいえ、いきなり結論にゆくまえに、この章のこの後の展開を簡単に整理しておこう。第3パラグラフ、第4パラグラフ、第5パラグラフあたりでいわれているのは、可変資本の前貸しの問題である。つまり、資本家が労働者を雇うには、不変資本だけではなく「可変資本」もまた、事前に実在しなくてはならない、という点である。これによって批判しているのは、生産手段だけが前貸しされ、新生産物のなかから労働者の生活手段は(事後的に)分け与えられるという考え方である。要するに、「ブルジョア経済学者」が考えるように、c だけあれば、v+m 時間の労働がなされ、その成果である v が労働者に分け与えられるのではない、v も存在しなければ m は生じないのだ、という点である。ただ、この 前貸しされた v0 は労働者によって消費され、v1+m1 が生産されることで v0 がv1 によって補填される。この関係が、v1,v2,v3…. と続く。こうして v も「再生産」されるというのである。

労働力の売買

このvの前貸しがなぜ重要なのか。第6パラグラフをよむとわかるように、資本主義では、v の前貸しは、労働力がまず商品として買われる点を明確にすることが目的である。つまり、賦役農も3日自分の畑ではたらき、3日領主のもとではたらくが、領主は資本家と違って、賦役農の生活手段を準備する必要はない。資本家は生産手段だけではなく、労働者の生活手段を買う貨幣も、資本として準備しなくてはならない、という点を明らかにするためだと考えられる。

領有法則の転回

第7パラグラフから第10パラグラフにかけては、この前貸しされる可変資本に関して、自己労働の成果が他人労働の成果に中身を入れ替えられてゆくという話が展開されている。いわゆる「領有法則の転回」、つまり自分の労働で生産した可変資本であっても、資本家が他人労働の成果である剰余価値を消費してゆけば、事実上、他人労働の成果に置き換えられる、という議論が展開されている。これは最後でもう一度強調されることになるが、資本賃労働関係の再形成の話である。「簡単に言えば労働者を賃労働者として生産するのである。労働者のこの不断の再生産あるいは永久化が、資本主義的生産の”不可欠な条件”なのである。」というのが結論であるが、この結論が「領有法則の転回」とどうつながるかはもう少し考えてみる必要がある。

労働者の資本への隷属

工場外で再生産される人間機械

第11パラグラフから15パラグラフにかけては、労働者による「生活手段」の消費について論じられている。ここでの特徴は、労働者の生活過程が、工場の外部でおこなわれる資本による間接的な労働力の「再生産」に引きつけられている点にある。労働者による生活手段の消費を機械の燃料・水に比定して「人間機械」とよび、労働者の「再生産」を家畜の飼育になぞられるなど、見かけは独立していても、資本の運動に隷属したものとして労働者の生活過程が位置づけられている。ここは、労働力の「再生産」という規定のなかでももっとも従属性が露わに語られている箇所である。「ローマの奴隷は鎖によって、賃労働者は見えない糸によって、その所有者につながれている」というのである。

労働力の海外流失(隷属の裏側)

このあと、労働者の資本への隷属が、当時の産業予備軍の海外流出という観点から論じられる。不況期における移民増加は、綿工業を支える有能な人間機械の破壊でしかない、というポッターの主張が紹介され、資本賃労働関係の維持がランカシャー綿工業の強みであることが強調されている。

資本関係の再生産

最後の二つのパラグラフはまとめである。労働力の再生産は、単に労働者自身の労働力だけではなく、それを繰り返し売らなくてはならない関係をも「再生産」するものだという点がポイントである。

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