- 日 時:2019年 2月28日(第4木曜日)19時-21時
- 場 所:文京区民センター 2階 E会議室
- テーマ:『資本論』第1巻 第25章
タイトルだけみると帝国主義段階の植民地かと思ってしまいますが、これは関係ありません。北米大陸、オセアニアへの移民を、「資本の原始的蓄積」の裏返しの現象として描くことで、資本主義の成立にとって労働力の商品化が鍵であることを逆照射する、その意味では前章の補論とみてよいでしょう。しかし、そのうえで、マルクスがその晩年、目撃していたはずの帝国主義的植民地支配の急激な進展に対して、どう考えていたのか、知りたいところです。没する直前、病を癒やすべく避寒のためにアルジェに渡って、たしか一、二ヶ月ほど滞在していたはず(M.ムスト『アナザー・マルクス』訳書362頁以下)。エンゲルスなどに送った手紙は残っていますが、20世紀型の植民地についてどう考えていたのか、はよくわかりません。寿命は歴史をこえられません。
所有イデオロギー批判
第①-③パラグラフは、一言でいうと”労働に基づく所有で搾取を正当化するイデオロギーは、資本主義本国では通用しても植民地では通用しない。労働に基づく所有の条件が現実に存在すれば、いつまでたっても「貨幣の資本への転化」は実現しない。”ということになります。言い換えれば、”資本主義は暴力的に労働者を土地から切り離すことではじまる。”という前章「資本の原始的蓄積」となります。この部分は、労働に基づく所有という「経済学者」(「古典派」なのか「俗流」なのかわかりませんが)の「イデオロギー」批判です。「イデオロギー」批判というのは、いっている内容が間違っているというのではなく、そうした間違いが、なぜひろく発生するのか、その理由を説明する議論なのですが、ここはちょっと違っていて、内容の虚偽性が植民地という違う環境のもと、現実によって暴露される、というかたちになっています。
ウェイクフィールド「組織的植民」systematic colonizationの紹介
この後はずっとウェイクフィールドの批判的検討なのですが、ひとまず第4パラグラフから第⑦パラグラフまでで、その紹介がなされています。
第④-⑤パラグラフで西オーストラリア、スワン川開発を例に、ウェイクフィールド理論の革新が「植民地における賃労働者の製造」の必要性にあったことを示します。第⑥-⑦パラグラフでは、ただそれを正確に理解するには「二つの前置」が必要だといいます。「二つ」というのは同じ第⑥パラグラフ内の「さらに」Ferner: の前後でしょう。二つといっても(1)生産手段を資本とよぶ誤り、(2)生産手段の分散を資本の分散とよぶ誤り、ということです。
このことは第⑦パラグラフで引用にそって再述されています。ウェークフィールドは人間には資本家になるものと労働者になるものがもともといて、両者が自由な「社会契約」を結ぶと考えているようだが、植民地ではこれは通用しない、だから自然発生的植民ではなく、「組織的植民」が必要なんだろう、とマルクスはいいます。
また、ウェークフィールドは、奴隷制では植民地の発展には間に合わないと考えているようです。テキストの解釈からは離れますが、奴隷制と資本主義(的な社会)は本当に不適合なのか、必ず自由な賃金労働者が存在しないと資本主義にならないのか、という問題はまじめに考えてみる必要があります。少なくとも、「自由な賃金労働者の搾取をベースとする経済を資本主義とよぶ」といった定義問題で、奴隷制と市場ないし資本の関係の考察を門前払いする悪癖は見なおしたほうがよいと私は考えています。
土地収奪論
第⑧-⑪パラグラフでは、
- ⑧-⑨:労働者と生産手段の分離が資本主義的生産様式の基礎であること
- ⑩:この関係が資本の蓄積に比例して拡大再生産されなくてはならないこと
- ⑪:これによって労働力の販売を当たり前のことと受け入れる労働者の従属 abhängig がつくりだされること
が指摘されています。der Arbeiter, obgleich frei, naturgesetzlich abhängig vom Kapitalisten というのは「従属を当たり前のこととして受け入れる」という通念=イデオロギーの必要性のことだろうと読みました。
この後半では「労働市場」Arbeitsmarkt という用語がでてきて、そこでは「労働力の需要供給の法則」Das Gesetz der Arbeitsnachfrage und Zufuhr が作用するという説明がなされています。市場というと需給法則ということになってしまうのですが、たとえイデオロギー批判のためとはいえ、「労働力には一定の価値がある」、「産業予備軍が存在しても、労働力はその価値で売られる」といった基本が曖昧になることになってはマズいと私は考えてます。相手の論法を受け入れて相手の瑕疵をつくというイデオロギー論法、ソクラテス以来の弁証法はよほど注意してつかわないと、墓穴を掘ることになる、凡庸な私は、敬して頼ることなし、と自戒します。
集中集積論
第⑫-⑬パラグラフでは、資本主義的生産様式における「規模」に焦点が映ってきます。単に労働力商品が維持されないというだけではなく、ウェイクフィールドがいう「分散という野蛮な制度」barbarisches System der Zerstreuung の問題です。
『資本論』第1巻の後半では、前半の搾取論に対して蓄積論が展開されるのですが、これは「協業」のところから結合労働の優位性が伏線としてはられています。蓄積=大規模化による生産力上昇には
- 機械化
- 結合労働
の二つの効果があると思います。ここでは(2)のほうに焦点があてられています。植民地では、労働市場が不完全だから、単に資本賃労働関係が一般化しないだけではなく、結合老翁の効果が発揮できないというのです。
移民政策論
第⑭パラグラフ以下は、ウェークフィールドの移民政策論の紹介です。移民ではいってきてもすぐには買えない土地価格を設定し、一定期間、賃金労働者としてはたらかせ、彼が一定の資金を貯めて土地を買い賃労働から離れるころまでには、土地価格でえられた収入で(おそらくこれを渡航費などにあて)、次の移民をよびよせるというシステムなのでしょう。原始的蓄積で恒久的な賃金労働者階級をつくりだすのではなく、通過型でも一定の賃金労働者のストックが維持できればよいというわけです。
第⑮パラグラフでは、西ヨーロッパにおける資本主義的発展が相対的過剰人口を生みだし、移民のを送り出す圧力をもつから、このような移民政策をとらなくても、実は合衆国では充分な労働力がえられ、滞留するに及んでいることが指摘されています。東部への流入が西部への移動を上まわるというので、このかぎりではウェイクフィールの考えた通過型労働市場なのかもしれませんが。
しかし、ここでわれわれは植民地の状態を問題にはしていない。もっぱらわれわれが関心をもつのは、旧世界の経済学が新世界で発見し、声高く宣言したあの秘密ーーすなわち、資本主義的生産様式および蓄積様式は、したがってまた資本主義的な私的所有も、自己労働にもとづく私的所有の絶滅、すなわち労働者の収奪を条件とするということである。
これが最後のパラグラフです。「植民地の状態」を問題にせず、ここに資本主義のイデオロギーを読みとるというのです。ここを含め所有=イデオロギー論で終わっていることを評価するか、あるいはこれは本来の蓄積論の補論であると軽く受けとめるべきか、立場は分かれるとおもいます。私はイデオロギー論(さらにいえば「物象化」論)に対しては、この読書会を通じて繰り返し述べたように「敬すといえども頼むことなし」の精神で、その濫用を強く自戒する立場です。したがって、この章は補論と読みます。