『資本論』第二巻を読む:第7回


  • 日 時:2019年 11月20日(第3水曜日)19時-21時
  • 場 所:駒澤大学 3-802(三号館の奥のエレベータで8階に)
  • テーマ:『資本論』第2巻 第1篇第6章
第6章「通流費」
この章も、現代的な経済原論が形成されるようになってゆく契機になった重要な章です。1960年代以降、一方では信用論研究が、他方では価値形態論の研究が活性化していったのですが、両者の交点として、前章の流通期間や本章の流通費用に関心が集まるようになりました。『資本論』が、ともかく流通期間や流通費用という、古典派経済学では — そしてその後の経済学でも— ほとんど論じられることない、「流通」(本質は「販売」)が理論の表舞台に登場させたことは画期的です。

純粋な流通費

購買時間と販売時間

一般的法則は、商品の形態転化からのみ生じる流通費はすべて、商品になんらの価値も付け加えない、ということである。S.150

この一般的法則が大前提になっているが、この法則の論証は試みられていない。

費用を論じるなかで、時間ないし期間がどういう意味で費用なのか、説明がないのですが、次の節では「単なる購買時間および販売時間の費用」(S.137)という表現がでてきます。「時間の費用」というのは、時間が費用になるという意味でしょう。

売買がどのような広がりをもとうとも、価値の形態転換を媒介する労働を、価値を創造する労働に転化させることはできない(S.132)という点が一貫して強調されています。

後半では、流通過程を専業的に受けもつ「代理人」に論及し、マイナスをマイナスする効果を指摘。しかし、マイナスはマイナスだという結論になっている。「空費」概念が一カ所でてきます。S.134最後の部分「購買し販売する一機械」の意味は、空費にも関連するのかもしれませんが、「機械」の比喩は販売のもつ特性を看過させる怖れがあります。

簿記

簿記も価値形成に対して「控除」の対象となる、というのが基本的主張です。

ここでも、この機能の集中と代理人への委譲(専業化)の効果が論じられています。

また「共同的生産」では資本主義以上に簿記自体は必要になるが、その費用は「集中」によって現象する、という指摘がみられます。

貨幣

流通費として貨幣を位置づけられるかも、かなりむずかしい問題になります。

二つのことが論じられています。

  1. 貨幣の素材となる金銀自体が、それ自身「流通機械」であり、不生産的形態に拘束している(から流通費である、といっているか、最後のところが読みとれませんが)
  2. 「貨幣の摩滅」が流通費となる。つまり、「補填費」です。これは少なくとも「費用」とよぶことはできるでしょう。

そして、ここでも「空費」への言及があります。

保管費

保管費は、生産過程から生じる(ということは、もっぱら売買から生じる第1節の費用と異なるということ)。

この費用は、「社会的」には不生産的支出である費用(流通費)だが、個別資本的には「商品の販売価格への追加分」となる、といいます。「社会にとっては生産の”空費”に属する費用が、個別資本家にとっては致富の源泉をなしうる。」というのですが、「論証」ないし論拠が不明です。

在庫一般

前半では「商品在庫としての商品資本の市場滞留」(S.140)という規定がでてきます。商品資本が市場における滞留として明確に規定されています。もちろん、商品資本は費用ではありません。ただ、この滞留が付随的な費用、つまり保管費を必要とするという展開になります。

ここでも、保管費も生産から取り除かれた(控除された)空費だという規定が登場するのですが、空費の概念はそれ以上追求されることなく終わっています。

S.141の中ほどから、保管費はどの程度まで資本主義の独自の性格のものなのか、という問題にはいります。

これはのちに「資本主義に特有なもの」と「あらゆる社会に共通なもの」を対比する1960年代に広くおこなわれた議論の源泉です。流通費用であっても、それがあらゆる社会に共通なものなら、価値を形成する、という主張です。しかし、これは『資本論』を拠り所にしたドグマです。論証がないからです。

『資本論』はここで在庫を三つの形態に分けます。

  1. 生産資本の形態
  2. 個人の消費元本の形態
  3. 商品資本の形態

そして歴史的な発展をふりかえり、1,2,3と重心が推移するといいます(「在庫の形態変換」S.145)。ただこれが、流通費はどこまで商品生産一般に固有で、どこまであらゆる社会に共通か、という問題に答えたことになるのか、不明です。

本来の商品在庫

「在庫の形態変換」論をくりかえしたあと、「さて次に、これらの費用がどの程度まで商品の価格に入り込むかが問題である」と議論を進める。そして、これに続くパラグラフでは、競争関係があれば、個別的にバラつく保管費は価格に入り込みようがない点が論証されている。

もし彼が、私の商品は6ヶ月間売れず、そしてこの6ヶ月間の商品の維持のために、私は、これこれの額の資本を寝かせてしまったばかりではなく、そのうえx額の空費を負担した、と言うならば、最終の買手は彼を笑い物にするだろう。買い手は言う。”お気の毒さま Um so schlimmer für Euch” 。あなたのそばのもう一人の売り手がいるが、この人の商品はついおととい出来上がったばかりだ。あなたの商品は売れ残り品で、多分多かれ少なかれ時間の歯にかじられているだろう。したがって、あなたはあなたの競争相手よりもやくす売らなければならない。S.147

これは個別資本の観点からする説明であり、十分根拠のある主張だと私は思います。しかし、これで一貫しているかという、次のような適正な在庫を想定する議論が基調となっています。

….流通の停滞なしにはどのような在庫もありえない。すなわち、商品在庫なしにはどのような商品流通もありえない。

商品在庫は、所与の期間のあいだ需要の規模に対して十分であるためには、ある一定の規模をもたなければならない。…さらに、在庫の規模は、中位の売れ行きよりも、または中位の需要の規模よりも、大きくなければならない。そうでなければ、中位の需要を超える超過は満たされないであろう。S.148

ところが、このあと「商品在庫は、所与の期間のあいだ需要の規模に対して充分であるためには、ある一定の規模をもたなければならない」と、個別資本の観点とは異なる観点から一種の要請論が展開される。この論理は、個別資本の観点から説明しようとすると、適正在庫論になるのだが、それには「顧客がきたときに求める商品がないと顧客を失う」といった、価格競争だけでは説明できない追加的な条件が必要な議論になる。しかし、このような在庫の必要性、意図的な在庫形成を一般論として説くことはむずかしい。価値を表す表示価格で買い手が求めるなら、躊躇なく全部売って貨幣を保有するというのが一般原理であり、在庫がゼロにならぬよう、売らずにとっておく意味はない。

輸送費

冒頭のパラグラフで、この章全体の「一般的法則」がまとめられています。

さらに売買は所有権の移転によるものであり、場所移動を必然的なものとはしない、という点が指摘されている。

そのうえで、輸送費は商品に価値をつけ加えるというのが結論。理由は「諸物の消費はそれらの場所変更を必要とする」からだ、というものである。しかし、これも必要だから価値を形成するという要請論であり、個別資本の競争関係をベースとした必然性論ではない。

ここでも、空費論が参照され、また生産様式の発展とともに、輸送はますます重要になるが、輸送の集中は輸送費を減少させる、という議論が追加されている。

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