さまざまな貨幣を理論的にとらえるには

変容と多態化
  • 日時:2020年 12月13日(日) 14:00
  • サイト:オンライン

「経済原論と現代資本主義研究会」特別拡大会のほうから「この間、比較的若手の人と数人でZoomによる研究会を行っています。今後、学生も参加する形でのZoomによる研究会を予定しています。そこでなにかお話しいただけませんか。時期はできれば12月、あるいは1月を希望しています。内容は最近、銀座経済研究所の貨幣論がちょうど良いと思います。」というメールがあり、もちろんすぐにOKしました。

「さまざまな貨幣を理論的にとらえるには」というのは、学生諸君も参加することを想定してのもの、その答えが「変容と多態化」で、こっちは「比較的若手の人」たち向けで、「変容」と「多態化」の区別はちょっとむずかしくなります。

大学で経済原論の講義をしていると、受講生がまず興味を示すのは貨幣のところです。商品の話をしているとき居眠りをしていた学生も、貨幣ときくと目が覚める…というわけでもないですが、講演会などでも「価値論、どうでしょう」などというと「それはちょっと……」となりますが、「貨幣論では?」といえばOKとなる。「でも、むずかしい話は避けて、とにかく仮想通貨とか、デジタル通貨とか、眼前の現象について話してください。ただ、経済原論がご専門なようですからあくまで理論的に… 」などとけっこう無理な注文がついたりします。講義のときも、貨幣ときいて「仮想通貨か?」と一瞬興味を示す学生も、「なんだ昔の貨幣の話じゃないか」と再び睡魔に抗しがたくなるもよう。

しかし、ともかく貨幣現象貨幣の定義を厳密にあたえずに「貨幣」という「ことば」に関わる現象全般という意味です。こういうのを「広義の貨幣」などといって原理論にもちこむのは禁物です。理論内の規定ではないという意味で、貨幣「現象」といっておきます。への関心が高まっているのはたしか、いくら経済原論だからといって、これを無視するわけにはゆきません。そうダイレクトにはゆかなくても、原論からこうした現象にいたる大きな筋道だけはちゃんとつける責任があります。

ということで相手の関心に応じるようと思えば、その関心の由来を分析しておく必要があります。関心を示す本人は、当然自分の関心の対象はわかっていますが、「なぜそれに関心をもっているかのか」は関心外のこと。「どうして、仮想通貨について知りたいの?」とたずねると、「いまみんなが話題にしているから」というばかり。「あなた自身はどうして?」と重ねて問えば、「そんなこと、答える必要はない」とそっぽを向くのがオチ。相手の関心に応えるには、こちら側でまず、その原因らしきものものを推察するほかありません。で、「こうした関心の高まりの背景にあるのはなんなんだろう?」とここ二、三十年の貨幣現象の激変をしばしあれこれ思い浮かべえてみると、ごくおおざっぱにいって、三つくらいの要因らしきものに想到します。つまり、情報通信技術の発達、信用機構の拡大、国債の大量発行あたりがそれです。

情報通信技術の発達

技術論と貨幣論は一見かけ離れているようにみえますが、実は密接な関係があります。これは情報通信技術にかぎったことではなく、技術一般に関わることです。

金属貨幣が支配的になった背景には、コインをつくる冶金と金属加工の技術の発展があったわけです。素材が金だからといって、金貨と金塊は別物です。同種大量のコインをつくりだすには高度な技術が必要なわけで、そんなに簡単に秤量貨幣から計数貨幣への発展が可能だったわけではありません。モノの量を「はかる」ことに対して「かぞえる」という離散化の行為はずっと高い抽象能力を必要とするわけで、貨幣の世界に「かぞえられる」という仕様を実装するには、混ぜたら見分けがつかなくなる均質のモノを、いくらでもつくりだせるという同種大量性の技術が必須だったわけです。

同じように金属貨幣にかわって、不換銀行券に代表される証書を利用した信用貨幣が支配的となった背景には印刷技術の発達があります。くれぐれも注意しておきますが、技術の発展が金属貨幣から信用貨幣への移行を引きおこした、などといっているのではありません。ただ必要条件だといっているだけです。ただ、高度な製紙技術や精巧な図案印刷の技術の発展がなれば、計数貨幣としてのコインに紙券がとって変わることはできなかったはずです。

このように考えてくると、現下の貨幣現象の変貌の背景に、情報通信技術の発達がはたらいているとみることに、そう違和感を感じないでしょう。ただこの作用をちゃんと捉えるには、情報とはなにか、通信とはなにか、という原理的な分析が必要なのですが、いまこれ以上深入りせず、このあと必要な範囲で、コンピュータサイエンスやネットワーク型通信の問題に触れてゆくことにして、現代の貨幣現象を捉えるうえで技術論的な観点が無視できない点のみ、ここでは確認しておきたいと思います。

信用の拡大

「信用」の定義もむずかしいですが、ここではひろく後払い全般を意味させておきます。貨幣現象にならって信用現象といってもよいのですが、これではピンとこないでしょう。情報通信技術の発展に寄って加速された面はありますが、20世紀末以降、商品売買全般に信用がからむことが拡大したのには、それに還元できないいくつかの固有の要因が考えられます。

戦前からでしょうが、欧米では小切手あるいはクレジットカードによる支払が小売りでも普及していたのですが、日本に関していうと戦後も長い間、手交貨幣である日銀券と硬貨をつかった売買が主流でした。もちろん資本間の取引は小切手・手形による支払によっていたのですが、貨幣といえば、後者の信用貨幣ではなく、前者の手交貨幣のほうがまずイメージされていたであり、事実それですんだのです。

しかし、21世紀に入ったころから小売りの世界でも預金振り込みやクレジットカードによる支払が急速に拡大し、貨幣といったときにもはやお札やコインを念頭において考えるだけではすまなくなりました。とはいえ、これはこの時代にはじめて生じたことかというと、こうした信用と結びついた貨幣現象は実は古くから存在してきたのです。

先に述べた計数貨幣であるコインの技術が確立するまえには、まとめて後払いする「ヒイフウミイヨウ、イツムウナナ、今何時だ」といった払い方はできなかったわけで、晦日にまとめて払う、越すに越されぬ大晦日のような…取引が中心になると考えられるわけです。とりわけ高額になれば丁銀のような秤量貨幣による支払になる状況では、まとめてあとで支払う形式は避けられなかったでしょう。古い時代にさかのぼれば、コインの世界にゆきつくだろうと思うのは、少なくとも推論としてはあまりに杜撰。経済学がコインの時代に形成されたということが、貨幣を信用から切り離す結果になったのであり、その余韻はペーパーマネーが中心になってからもずっと続いてきたわけです。ペイパーマネーも「かぞえる」貨幣という意味ではコインといっしょ、「はかる」貨幣から「かぞえる」貨幣への転換のほうが決定的に映るのでしょう。

コイン以前の時代に後払い+決済型型が広まっていたすると、いまおこっているのは、同じく計量貨幣でありながら、後払い+決済型もどる事態です。もちろん、コインや銀行券がなくなるというわけではありません。特定の支払形式が標準になるというのではなく、さまざまな意匠が乱立するという状況です。こうした意味で「これは貨幣なのか、あれは違うのか」といった疑問を引きおこす背景には、信用の拡大にともなう支払形式の多様化があるわけです。

国債の大量発行

手交貨幣による同時履行か、後払いによる債権債務の決済か、というのはあくまでも動く貨幣の話です。この瞬間が人目を引くのはたしかですが、でも貨幣は通常だれかに保有されているわけで、この側面が貨幣現象としては実はより重要な意味をもっています。バブルの崩壊のあとに繰り返されてきた極端な金融緩和、国債の大量発行と中央銀行の資産に占めるその比率の激増は、この資産としての貨幣をめぐる通念を大きくゆさぶっています。

ただこの問題も、歴史的にみると、かなり屈折したかたちで発現しており、それが人々の関心をよぶ原因ともなっているようです。金本位制から管理通貨制への移行自体は、第二次世界大戦以前に進んだ現象ですが、戦後の高度成長期にインフレーションが昂進するなかで、「その原因は、不換銀行券にある。金の保有量に制約されることなく、貨幣量が増発できるようになったからだ。」という通念が形づくられていきました。これはマルクス経済学においても、たとえば大内力『国家独占資本主義』などが1960年代のこの通念を端的に体現して流布していました。

ところが、2000年代にはいり顕著になったのは、かつての通念でいえば当然インフレーションになってしかるべきなのにそうはならない、という困った現象です。古くから貨幣と物価の関係は、貨幣量の何倍かの需要額と、これに対して一定期間に販売される商品の供給額とが一致するのだという考えに立脚してきました。この貨幣数量説は、貨幣が「動く」側面から物価を説明するものですが、これに反する事態、つまり貨幣量が増大しても物価が上昇しないという貨幣現象は、従来の「買う」貨幣から、「買わない」貨幣へ関心をシフトさせているのです。

「さまざま」になるわけ

このように貨幣への関心の最近の高まりの由来を探ってみると、知りたい貨幣現象が「貨幣とはそもそもなにか」という問いに答えようとしてきた従来の問題構成とミスマッチをおこしていることがわかります。「さまざまなものがあるのはなぜ?」ときいているのに、返ってくるのは「本来はこれだ」というチグハグな答ばかり。

これまでの貨幣論は、簡単にいってしまえば、貨幣は本来金属の塊ないしコインのようなものか、それとも記号ないしそれを記した紙券のようなものか、といった二者択一型になっていました。さまざまな貨幣のようなものが存在しても、ある段階までは「基本はこれで、そのほかはみな補助だ」「ホンモノは一つ、あとの有象無象はオマケだ」ですんだのですが、現下の貨幣現象が醸しだす関心に、これではもう応えきれなくなったわけです。

それだけではありません。二者択一型に対して、両者を理論的に関係づけようとしてきた最近の試みの限界も浮かびあがってきました。このあと詳しく論じてゆきますが、従来の原論の第一層で演繹的に規定できる貨幣が、第二層で商品貨幣と信用貨幣に分岐するというかたちで関連づけをはかってきた変容論的アプローチでももはや充分とはいえません。もともと変容論は、複数の貨幣のかたちが同時に並立することを説明する理論ではなく、反対に並立しないことを解き明かす理論だからです。

ここは変容論の一つのポイントで、基本的な仕様を実装する方法が複数あるというかぎりで、変容論は従来の演繹型の原論と強いつながりを維持してきたわけです。PならQだと単純にはゆかないが、それでも、PならQかQ’かいずれかだと限定することで、論理的な必然を担保してきたわけです。すこし先走ってしまいましたが、いずれにせよ、多様な貨幣現象の併存に対する関心に対して、これまでの単純な(純粋な)演繹型の「これまでの原論」も、変容論を組み込んだ「これからの原論」も、その問題構成に限界をかかえているのではないか、というのがここまでの結論です。

ということで、「さまざま」な姿かたちが並び立つワケを説明する理論の可能性をあらたに探ってみる必要がある、つまり「変容論」から「多態化論」を区別して開発してみようというの目下のプロジェクトとして浮かびあがってくるわけです。といいつつ、ここですぐ注意をしておかなければならないことがあります。「わけ」というと、すぐに具体的な個々の現象そのものを説明する原因のことだと思ってしまう人が多いのですが、「わけ」というのは、そんなに単純なものではありません。たとえば情報通信技術の発達、信用の拡大、国債の大量発行といった「原因」が演繹的な理論で導出できるといっていると勘違いしないでください。この種の早とちりをして、そんなものを理論にとりこもうとするのは、悪しきマルクス主義の論理=歴史説への逆戻りだ、と忠告してくれる人は跡を絶ちません。

あなたのおっしゃる「原因」は、変化を引きおこす「外的諸条件」の話で、私が分析しようとしているのは、それを受け容れる「開口部」の話だと何度いっても通じません。複雑に入り組んだ山並みを遠望して、どうしてこんなおもしろい姿になったのかとふと思うとき、「これは何万年かまえに大規模な隆起があり、その後のこの地方に特有の多雨による浸食が進んだのだ」といった具体的な地史地歴に原因を求めることは当然です。でもそれと同時に「これはきっと褶曲ベースの地盤が基礎にあり、向斜と背斜で浸食の作用が大きく異なることによるのだろう」と、見えない構造を考えてみることも有効です。ひと言で「わけ」というけれど、外因と内因のようなものをわける必要があると繰り返してきたのですが、なかなかこの区別の必要性は伝わらないようです。

「変容」のレベルでさえこうですから、それ以上に直接的な演繹から距離のある「多態化」の話になると、そんなものは歴史的な発展段階論でやればよい、現状分析の課題だろう、ということになりそうです。というわけで、あまり期待はできないのですが、ともかく、「わけ」にも二種類あるとことに「同意」はしないけれど、ここだけの話というなら「了解」しましょう、といってくれる、物わかりのいい人を想定して話を進めます。

主流派経済学における貨幣論の欠落

すぐに「多態化論」にはいってもいいのですが、学部生も含むという想定ですので、貨幣に関する理論について復習しておきます。なぜ「変容論」ではダメで「多態化論」がいるのか、という問題にはいるまえに、そもそも「変容論」とは何なのか、最低限の確認をしておきたいと思います。学部生からいえば、「変容論」にいたる道は何段か、屈折しているので、主流派のミクロ・マクロ理論からのここに至るまでの略図を書いておきます。

貨幣について考えてみると、現在の主流派経済学の欠陥は歴然となります。ミクロ経済学のコアをなす一般均衡論は、基本的に間接的ではありますが、物々交換の世界です。一物一価のために任意の一商品が尺度財 ニュメレールにされますが、これは均衡価格(財と財の交換比率です)を導くために暫定的に設定されるだけで、均衡価格の「模索」が完了すれば意味を失います。すべての財に関して、均衡価格が存在するならば、どの財もその比率でなら任意の財と交換可能になるわけで、特定の貨幣に対して売って買う必要ありません。どの財の所有者もこの交換比率で欲しい財の所有者に交換を申し込めば、相手がその財を欲していなくても交換に応じることになっています。この相手もまた、自分の欲しい財の所有者に均衡価格で交換を申し込めば、同じように交換できるわけです。こうした財と財の交換を繰り返すことで、それぞれが主体均衡を実現されることになります。不必要な財を受けとって必要な財と交換するという間接的なかたちですが、中味は物々交換であり、すべての交換が終わったあとに貨幣が残ることはありません。

一般均衡価格が成立するということは、すべての財が他のすべての財に対して直接的交換可能性をもつ、つまり、すべて財が同時に貨幣であるというのと同じで、けっきょく財と区別される貨幣なるものは存在しないのです。ミクロ経済学は、均衡価格の決定原理については詳細に説明しながら、では均衡価格が成立したあと、実際にどのように交換するのか、とみてみると驚くべきことにほとんど説明がありません。財と財を順繰りに交換してゆくのだと交換のプロセスを明示することがないので、標準的な教科書を卒然と読むと、あたかも均衡価格で一挙同時に交換が実現するかのような錯覚を与えます。たしかに、均衡価格が成立するまでの「模索」ではすべての主体が競り人の示す価格表(ニュメレールによる交換比率)をみて各自の主体均衡を図ることになっています。はじめは競り人がいる集中型市場ですが、均衡価格が模索されたあとは各自がバラバラに交換する分散型市場になります。いずれにしても一般均衡論は、価格の決定理論といいながら、財と区別される貨幣は実在しない市場の理論です。

一般均衡論をコアとするミクロ理論がベースとしているのは、意外にも貨幣不在あるいは貨幣不要の市場、貨幣についてミクロ理論の研究者にたずねると、それはマクロ経済学の課題だと教えてくれます。そこでマクロ経済学をのぞいてみると、そこでは貨幣はいきなり貨幣量 \(M\) のかたちで登場し、物価水準 \(\bar{p}\) との相関が論じられています。\(\bar{p}\) は価格ベクトル \(\mathbf{p} =(p_1,p_2,p_3,\cdots)\) を前提とした何らかの加重平均のはずですが、価格の決定原理をとばして、その存在は貨幣量とセットで自明の前提とされているようにみえます。

価格の決定原理はもうミクロ経済学でやったというかもしれないが、それは貨幣が実在しない市場の理論、ニューメレールに還元できない貨幣量 \(M\) が存在したら一般均衡はたちまち壊れてしまう。そこでマクロ経済学では、目に見える総額\(\mathbf{pX}\)から、物価水準\(\bar{p}\) をつかって、
\(\bar{p}\bar{X} = \mathbf{pX}\) となるようなスカラー値 \(\bar{X}\) で \(\mathbf{X}\) を説明する。種類の異なる生産物をどのように集計するかは古典派労働価値説の基本問題であった。労働価値説が価格の決定原理として妥当かどうかはともかく、価格の決定原理を基礎に \(\mathbf{pX}\) を説明するというマクロ経済学の「集計問題」を、現代のマクロ経済学はミクロ経済学とともに放棄したわけです。たしかに、原因から結果を説明するという演繹型の理論がすべてではありません。条件付き確率をつかって、目に見える結果から、直接目に見えない原因を探るアプローチは現代の統計学では有力です。現代のマクロ経済学もこの方向に舵をきったようで、数理モデルで演繹的な価格理論を曲がりなりにも重視してきたミクロ経済学との溝は深まるばかり、その間を裂く貨幣の理論が両者に欠落は傍目にも明らかです。

マルクス経済学の貨幣論

『資本論』の冒頭部分をよめば、それがまず「貨幣とは何か」という問いに答えようとするものであることは明らかです。貨幣論はマルクス経済学に必須であり、少なくとも日本のマルクス経済学の場合、どの経済原論の教科書を開いてみても、商品に続く貨幣と題した一章があるはずです。『資本論』第1部第3章「貨幣 Das Geld または商品流通」を下敷きにしたものなので、価値尺度、流通手段、(蓄蔵貨幣『資本論』では「貨幣 Geld」となっているのですが、中心的な中味でこうよぶことが多いようです。『資本論』の解釈にふみこむと果てしない話になりそうなので、今回は一切なし、以下も同様です。)で大差ありません。いずれも貨幣を中心とした市場像を描くことになっています。違いがあるとすれば、貨幣の存在から販売の困難、偶然性を強調するか、それは異常な事態で、貨幣によって物々交換の困難が解消され、価値どおりの売買が円滑に進行に進むと説くか、あたりでしょう。

ただ『資本論』をベースとしているとはいえ、日本のマルクス経済学にかぎっても、百年を超える歴史があり、戦後だけをとってもすでに長い時間を発展してきた面があり、貨幣論に関しても語るべきことは多いのですが、はじめに述べた「さまざまな貨幣」という関心に応えるのがここでの目的なので、多くは割愛します。ただこのような観点から興味深いのは、貨幣の理論が深化するとともに切り捨てられ取りあげられなくなったトピックがある点です。たとえば貨幣の度量標準、金コイン、補助通貨、支払手段、世界貨幣などです。抽象的な商品の規定から貨幣を「導出」ないし「展開」するといった演繹性の高い議論には馴染まない要因は、挿話、逸話としてコラムに落とすようなかたちで「理論」の純度を高める方向に進んだわけで、あれこれの歴史的事実をごた混ぜにする歴史=論理説、名ばかりの唯物史観の外部注入の呪縛から脱し、マルクス経済学が学問として自立するのに避けて通れぬ隘路であることに私も同意します。問題はこの方向に進んだ先にでてくるものです。

純粋資本主義論

こうした方向を鮮明にしたのが宇野弘蔵であり、戦後日本で理論研究の一つの潮流をつくっていったことについて、賛否はともかく一定の了解事項として話を進めます。なおここでは、人名を冠した呼称は客観的な学問研究にそぐわないので、宇野理論といわずに内容をとって「純粋資本主義論」とよびますが、その演繹的な方法に徹底してゆけば、貨幣の原理的な規定はさまざまな意匠を奪われ一つに絞り込まれてゆきます。

ただこの絞り込み(理論的な純化)には、複雑な問題が潜んでいます。原理論のなかで「変容」(理論上の構造変化)をかかえる領域(「開口部」は)は、貨幣だけではありませんが、この絞り込みによって浮かびあがってきます。純粋資本主義論に対して、変容論的アプローチで原理論を再構築すべきだというアイデアは、理論的純化のなかから自然に生まれたもので、それを放棄し外部からなにか別の方法を導入しようというものではありません。

時間の都合で、問題を貨幣論に絞り、変容論のプロトタイプを示すだけにします。ほぼ教科書にまとめた通りになりますが、商品から貨幣を導出しようとすると、どうしても引っかかる問題がでてきます。『資本論』でいうところの貨幣商品=金、純粋資本主義の『経済原論』の「一般的価値形態」から「貨幣形態=価格」へ進むロジックです。金貨を日常目にしていた『資本論』の時代ならいざ知らず、もはや博物館でしかお目にかかれなくなった今日、どうして商品価値の表現から必然的に導出される一般的等価物が金という素材に固定される論理に何かしらの違和感があるはずです。大学で講義をしはじめたころ、聴いている学生が納得しそうな説明をしようとしてずいぶん苦労した覚えがあります。

コレじゃどうか、アレじゃダメか、と試行錯誤した末に、ここには単一性と単一物の混交という致命的欠陥がある、これをちゃんと整理しないかぎり出口はない、という結論になりました。①商品価値の表現から必然となる等価物の統一という規定と、②それを金ないし金貨という知覚可能、計量可能な単一物の実現という規定が、一緒くたに連続して説明されているのが苦労のタネだったのか、と思うようになったのです。どうもこのあたり、個人的な思い入れが強いようで、ついつい一人称的な文章になって申し訳ありません。あとは教科書の説明にまかせた方がよさそうですが、この項のまとめとして、用語法を中心に簡単にまとめておきます。

①と②の二つを区別すれば、抽象的な①を実現する②の単一物には金貨とは異なる候補を考えることもできます。少なくとももう100年ちかく価値表現の役割を担ってきた不換銀行券を抽象化した「信用貨幣」なら、この有力候補になりそうです。そこで、商品の価値表現から導出される貨幣の抽象規定に「商品貨幣」(貨幣商品ではありません)という用語をあて、金貨のほうも少し一般化して「物品貨幣」という抽象化をはかり、商品から「商品貨幣」を導出することを経済原論で一般につかわれてきた「展開」development とよび、「商品貨幣」が「物品貨幣」や「信用貨幣」として実現されることを「変容」morphism (文字通りにとれば transformation がよいのですが、この用語は「転化」と訳され「貨幣の資本への転化」のように原論の領域間で、一対一の移行を指すのにつかわれてきたので回避したほうがよいと判断)とよんでハッキリ区別することにしました。さらに「物品貨幣」から「信用貨幣」に移行することを「発展」historical development とよび、「発展」は日付をもつ外的条件が「開口部」に作用することで生じる不可逆な歴史的過程であり、論理上の構造変化である「変容」の理論的可逆性と対照を形づくるというように細工してみたのです。これがいまから10年前、教科書を書いたころの到達点でした。

変容論と多態化論

その後、はじめにふれた「さまざまな貨幣」という問題に応えるよう、いろいろな場で求められるなかで、この枠組みをもう一度構築しなおす必要を自覚するようになりました。変容論のバージョン2です。

時間がないので、あれこれ考えてきたポイントを一つだけいえば、「変容」という同じレイアのなかで「物品貨幣」→「信用貨幣」という「発展」を考えるは無理だということです。つまり、「変容」のもう一層上に、「物品貨幣」や「信用貨幣」を前提に、それを中心に機能分化した「さまざまな貨幣」を分析するレイアをもうける必要あるという結論になります。この第三のレイアを「展開」「変容」に対して「多態化」とよぶことにし、このレイアで、物品貨幣ベースの金貨や兌換銀行券、等々、信用貨幣ベースの不換中央銀行券や決済性をもった預金通貨、等々、を物品貨幣や信用貨幣の多態化としてよぶことにしたのです。「変容」のレイアでは一般的等価物の単一性を実装した単一物である「物品貨幣」と「信用貨幣」が同時に併存することはありませんが、「多態化」のレイアでは「さまざまな貨幣」の姿 Gestalt,shape が同時に併存します。そして、最大のポイントは、このように考えると「変容」のレイアで「物品貨幣」→「信用貨幣」というヨコの「発展」を説明しようとすることの無理も解消されます。「発展」というのは、たとえば、多態化のレイアに属する兌換銀行券が変容のレイアにおける信用貨幣に変わることとして、同じ多態化のレイアで「さまざまな貨幣」が発生消滅する変化と区別することができます。兌換銀行券 →「信用貨幣」は、現実からの抽象化が求められるのであり、レイア越えが必須なのです。このレイア越えを「発展」のモメントとすることで、歴史的にだらだら語られる旧式の「発展」と手を切ることができるのでは…. などと夢想されるわけです。

最後のほうは、かなり端折ってしまったので分からないと思いますが、あとは下の図をつかって、現場で説明し質疑にかけたいと思います。このあと、これまで変容論的アプローチについて議論につきあってくれた方々からの質問が送られきているので、それに答えたいと思います。





質問と回答

事前にみなさんからいただいた質問があります。今回は答える時間がありませんでした。


貨幣のポリフォーミズムについて

「これからの経済原論」とは

「これからの経済原論」とはだれのことか? さくら『原論』か、それとも小幡氏の自己対話か?

「商品としての国債」「発行残高の制約」の項

中央銀行の信用貨幣の価値の裏付けとなる債権(資産)のダブルチェックについて。

再割引は市中銀行による審査、その後で中銀による審査でダブルチェックという意味だろうが、国債 でも間接引受では、市中銀行が国債の健全性をチェックして購入し、さらに中央銀行が国債の健全性を チェックして購入すると考えれば、国債でもダブルチェックになるだろう。 というよりも、原理的には、そもそもダブルチェック自体は問題ではなく、返済が確実な債権(債券も 含む意味で)ということでよいか? 日銀の国債直接引き受けも、チェックがしっかりしていれば問題 ない、でよいか?

「国債が無制限に発行できるか」は、貨幣論ではなく、財政学の問題、と逃げ道が用意されているよ うにも見えるが、原理的には元利返済が確実であれば市場で売買される必要はないのではないか。

それとも市中銀行の信用創造では、非銀行業資本の資産が裏付けにあるので売買できない債権でもよ いが、政府の場合は裏付け資産がないので、その債券が市場で売買されることが必要ということか?

「「商品貨幣」説とは」の項

「…商品に対する請求権、債権のかたちで…」 この債権は「商品に対する請求権」だったのがいつの まにか、貨幣に対する請求権つまり金銭債権になってしまうのがヘンなのではないか。

MMTの項

「貨幣増発は、資産としての貨幣に破壊的な打撃を与えてゆきます」 「日銀がETFやRIETの買い入れ、さらには国債購入の年間上限高を外す、というのアナウンスを すると、株価だけはV字回復し、その結果、PERは一時 40 まで近づき、いまなお高水準を維持、要 するに資産としての貨幣が毀損されている」とあるが、 株価をはじめとする金融商品の価格が上がれば、その逆数の貨幣の価値は下がる、という意味か。ここ での株価は下の図の右上の(資産市場)の意味か?

赤い丸を付けたところが分からない、という質問がシニア院生からあります(後述)。

「14.中央銀行デジタル通貨」の項

「このようなデジタル通貨が、どのように「発行」できるのか、です。この預金タイプのデジタル通貨 のが増えるのは、信用通貨の通例として、貸出が増えるからです。」 預金と銀行券の等位性から考えれば、非銀行経済主体がこれまで持っていた中央銀行券を中銀デジタル 通貨に買えるだけなので、貸出の増加は関係ないのでは?

「仮想通貨の貨幣性・非貨幣性」について

「持続的等価物」の追加について

14 頁「貨幣= 一般的等価物+ 持続的等価物である。この第二項目が、今回の報告で新たに追加したポ イント」とあるが、2009 年の教科書では、貨幣の条件は「一般的等価物が時点をまたいで固定」なので、 「時間を通じて価値の大きさが安定している」という条件はなかった、今回から追加した、ということ でよいか。

債権の多義性

17 頁 「債権は何かを返すというかたちをとる」返すは借りたものについていうので、債権は何かの給 付を受ける権利であろう。その「何か」が、特定の商品の場合と、貨幣の場合と二つあるようだ。

複合的な等価物を構成する主体

18 頁「価値値を表現する側の商品 WB は、WC:körper を用いて、WA:wert の価値物((WA:wert) WC:körper) を構成し、これを等価物として自らの価値 WB:wert を表現するのである。」

WA WC の組み合わせを構成する主体は WB 所有者か? それとも WA 所有者か?

商品の価値が現象するというのは、積極的に所有者を持ち出さない、という意味になるだろうが、表 現をする主体=商品所有者の扱いは?

価値形態論における「交換を求める形態」と「評価を求める形態」との関係は?

2009 年の教科書では、交換を求める形態で貨幣までいってから、「評価を求める形態」に相当する、資 産性の表現が現れるように読める(42 頁 16~18 行)が、さくら『原論』の価値形態論では「交換を求 める形態」と「評価を求める形態」が入れ替わりながら進み、「評価を求める形態」で一般的等価形態に 至った後、それが流通する、ようである。

『資本論』第 1 巻に「一商品の等価形態は、その商品の他の商品との直接的交換可能性の形態なので ある」(S.70)とあるが、宇野弘蔵は相対的等価形態の商品所有者の欲求を置いた。しかし最近ではマ ルクスに戻って、「評価を求める形態」であっても、(「交換を求める形態」がなくても)価値表現がされ れば、等価形態に置かれた商品は自動的に直接的交換可能性を持つように見えるが、どうか?

銀行の「債務」の内容について

19 頁「銀行券は銀行に対する債権、銀行からみれば債務」この「債務」は何を給付する債務か 「この債務は銀行の保有する資産に対応していることは、銀行の貸借対照表をみれば一目瞭然、可視化 されている。」 この「対応」は何か? 量的か、発生における因果関係か? 債務の履行能力の表示か?

東経大シニア院生からの質問

「貨幣のポリフォーミズム」についての質問
  1. 「7.純粋資本主義の軛」の中で「原理論を現実の資本主義の理解にいかに用いていくかという方法論 上の制約」として「貨幣論で金貨幣をといておいて、あとから信用論で信用貨幣を説くという構成の問 題」と述べています。この「方法論上の制約」を超えるためには金貨幣と信用貨幣を包括した貨幣論が 必要になり、小幡先生の狙いはそこにあると思われます。そうなると、今度は商品貨幣から「金貨幣」 と「信用貨幣」へと変容する分岐点と分岐の構造を明らかにする必要があると思います。どのようにお 考えになりますか?

    要するに、金貨幣と信用貨幣は、レイヤー1で分岐するか、価値形態論のどこかのレベルで分岐する のか? つまり、 簡単な価値形態→展開された価値形態→一般的等価形態→貨幣形態 のどこかの段階で分岐するのか? 言い換えると、価値形態論で一般的等価物が導出されていく過程は、金貨幣と信 用貨幣では相違しているのでしょうか? 違うとすればどのように違うのでしょうか。

  2. 貨幣蓄蔵、価値量の維持

    「After」の多態化の説明の3で「『貨幣蓄蔵』といわれてきた、購買力の保持の働きは、単一の『商品 貨幣』では担いきれない面があり」と述べています。ここは、イラストのレイア3の→の表示で、金貨 幣からの多態化は兌換銀行券までとなっているのに対し、信用貨幣からは「機能吸収」として(資産市 場)までつながっていることで、資産市場へ多態化するのは信用貨幣から、という理解でよろしいでし ょうか?

    関連して、イラストのイメージ図の兌換銀行券は、金貨幣の四角の中から→が伸びているのは、兌換 銀行券が金と直接に結びついているのに対し、(資産市場)へ向かう→は信用貨幣の四角の淵の〇から伸 びているのは、多態化した信用貨幣から(資産市場)の機能吸収へとつながるという、理解でよろしい でしょうか?

    アフター「とくに「貨幣蓄蔵」といわれてきた、購買力の保持のはたらきは、単一の「商品貨幣」では 担いきれない面があり、これが多態化の重要な契機となる。」とあるが、貨幣を持つだけでは価値が維持 できないので、資産市場で売買するということか? であれば金貨幣の下でも資産市場が必要になる のではないか? それとも信用貨幣は金貨幣よりも価値の大きさが維持できない、ということを原理的 に認めるのか?

    アフターでの質問者による回答。疑問は解消されたといっているが、第 3 者には疑問のままのここって、 よくわからない。
    たとえば、2右側のレイア3の「機能吸収」は一体何を指すのか?」など。

  3. メディア+コンテンツについて

    他にも、本題から逸れると思いますが、メディア+コンテンツについて質問もあります。 著作内容(コンテンツ)と作者の頭の中(知識)にあるアイデアは厳密に何が違うのか?

    知覚できる否か、ということであれば、メディアに記録されないが、表現された知識の内容は C と K の どちらになるのか。考えながらしゃべった内容、即興の音楽、即興のパフォーマンスなど。

    メディア+コンテンツにおける商品における同種大量性について。たとえば『経済原論:基礎と演習』 であれば、同種大量とは、同じコンテンツの同じメディアの商品を同種大量というのか、それともメデ ィアの部分で同じ(ソフトカバーで 370 頁くらい)で、コンテンツが異なるものも含めて同種というの か? 後者の場合、コンテンツはしょせん、販売用のラベルに過ぎない。

    これらのメディア+コンテンツについての問題は今後、知識、地代論、レントなどとして、別の機会を 設定したいと思います。

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