宇野理論とマルクス

12月20日、独占研究会で「宇野理論とマルクス」というテーマで話すよう注文があり、一年半ぶりに出前にいってきました。

1960年代末、「新左翼」の若者を「宇野理論」が惹きつけた正体は何だったのか? 今となっては、幕末維新の勤王佐幕を大正デモクラシーの世に回顧するようなもの。なので「宇野理論」といっても、私の世代にとっての「宇野理論」はひと味違う、という話を、「正統派」の人たちのまえで、平然と語ってきました。

この種の若者を惹きつけたのは、宇野弘蔵自身も、また直参の「宇野派」のお歴々も自覚していない何かでした。かれらは、もともと「マルクスの収斂説→二段階革命」を拒否し、それなら「世界革命→収斂説「批判」」だろうなんて批判、批判の連続で「アンチ収斂説=純化・不純化論」に漂着してきた連中。だから、上の世代と一緒くたに「宇野派」なんてよばれると、どうも違和感を覚えるようです。

…などと、人ごとみたいにいってしまいましたが、正直にいえば自分一人のことでしかなく。ただ、私としては、マルクスに対しても、宇野に対しても、すべてに対して、つねに「批判的」な姿勢をとってきたつもり。そのあげく気がつけば、「誰々理論」とか「何某派」とかというのが、たとえ自分の名であっても我慢ならない、自己破壊的な困った爺さんになっていた、という笑えぬ話。

さて、当日、研究会で話した内容は、簡単にいうと…

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『資本論』第一巻を読む 第7回

第2章「交換過程」

今回は、第2章に進みます。当然、第1章「商品」との関係はどうなっているのか、問題になりますが、それは後で考えることにして、掻い摘まんで内容をみてゆきます。が、そのまえにひとこと、この章は錯綜していて、マルクスも何がこの章の課題か、はっきり書いているわけではないので、あちこち引き回される感じがするのですが、要するになにを主張しているのでしょうか、一言でいえば….?

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『資本論』第一巻を読む 第6回

第4節「商品の物神的性格とその秘密」

今回は、むずかしいと言われている物神性論のところを読んでみます。日本では、1960年代後半から、経済学の枠を離れて、いろんな議論がなされてきたところで、おそらく参加者の方々、一家言あろうかと思います。2時間ほどですむはなしではない、ということになりそうですが、今回は実際に何が書かれているのか、テキストを読む、ことに集中します。

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『資本論』第一巻を読む 第5回

第3節「価値形態または交換価値」(つづき)

今回は、前回の「A 簡単な価値形態」に続いて、「B 拡大された価値形態」から「C 一般的価値形態」、そして「D 貨幣形態」まで読んでみます。ただ、価値形態論のポイントは、「A 簡単な価値形態」で、ある意味ではすでに尽くされています。そのポイントとは?もういちど、議論してみます。

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