2004-11-25 大学院演習での報告「近代植民論」(第25章)の補足として、先行する第24章について検討してみます。

第24章「いわゆる本源的蓄積」

本章の概要

第1節「本源的蓄積の秘密」
この節は問題設定、課題開示であろう。これまでの第1巻の展開を振り返って、資本賃労働関係が資本の前提となるがこの関係はどのようにして形成されてきたのか、考察するという。 末尾で、「この歴史がさまざまな段階を通る順序も歴史上の時代も国によってさまざまである。それはイギリスにおいてのみ典型的な形態をとっており、それゆえわれわれはイギリスを例にとるのである。」という説明がある。以下2節から第5節までは、ほぼイギリスを例にとった記述となっている。
第2節「農村民からの土地の収奪」
=「鳥のように自由なプロレタリアートの暴力的創出」S.770 イギリスを典型的な例として、「鳥のように自由なプロレタリアートの群」が形成される過程が時系列的に記述されている。
  • 「資本主義の基礎をつくり出した変奏の序曲」 15世紀の最後の三分の一期および16世紀の最初の数十年
  • 「人民大衆の暴力的収奪過程」16世紀の宗教改革 S.749
  • 「ヨーマンリーの消滅」1750年ころ S.751
  • 「地主的および資本家的貨殖家」名誉革命 S.752
  • 共同地の暴力的横奪 "共同地の囲い込み" 18世紀 S.752-756
  • ”土地の清掃” S.756
第3節「15世紀末以来の被収奪者にたいする流血の立法。労賃引き下げのための諸法律」
=プロレタリアートを「賃労働者に転化させた血なまぐさい訓練」S.770
マニュファクチュアでは吸収できず、浮浪者化が昂進した。これに対する諸対策。エドワード6世、エリザベス、ジェイムズ1世
「資本主義的生産が進むにつれ、教育、伝統、慣習によって、この生産様式の諸要求を自明の自然法則として承認するような、労働者階級が発展する。」S.765
「本来的マニュファクチュア時代」S.768
第4節「資本主義的借地農場経営者の創生記」
「資本家たちは本源的にはどこからきたのか?」という問題が、第4-6節で考察される。
  • 「メテイエすなわち半借地農場経営者」=「彼が農業資本の一部を提供し、ランドロードが他の部分を提供する。」S.771 これは資本結合型の資本であるが、マルクスはこの形態は急速に消滅した、とみている。
  • 農業革命 S.771
  • 長期借地契約と貨幣価値の下落 S.771
第5節「工業への農業革命の反作用。産業資本のための国内市場の形成」
  • 「集積」の効果、「大マニュファクチュア(合成マニュファクチュア)」と「分散的で個人的なマニュファクチュア」S.774
  • 国内市場 S.775
  • 本来的マニュファクチュアの時代、「国民的生産をきわめて断片的に制服するにとどまり、常に都市の手工業と家内的・農村的副業とを広い背景としている。」(S.776) これに対して、産業資本は全面的に包摂しているという対応が示される。しかし、S.776-777のパラグラフに示されている資本主義の全面性論は再考の要があろう。
第6節「産業資本家の創生記」
  • マニュファクチュア
    • 植民制度
    • 国債
    • 重税
    • 保護貿易
    • 商業戦争
  • 大工業
    • 児童略奪や児童奴隷化
    • 「労働貧民」
第7節「資本主義的蓄積の歴史的傾向」
  • 最初のパラグラフは、奴隷および農奴の賃労働者への「直接的転化」はない、つまり、この間にある過程が介在している、ということであろう。この24章では、重商主義というタームはでてこない。しかし、この転化に時間がかかること、すなわち一つの発展段階という規定を与えることができる、こう考えてよいかどうか。
  • マルクスは「小経営」=「分散」、大工業=集積という観点、そして、生産諸力の優劣を唯物史観の公式をもうちど再想起するかたちで、関連づけようとしている。集積、集中は、資本家による資本家の搾取、ということにつながる。少数の資本家への資本の集中。「生産手段の集中と労働の社会化とは、それらの資本主義的な外被とは調和しなくなる一点に到達する。この外被は粉砕される。資本主義的私的所有の弔鐘が鳴る、収奪者が収奪される。」S.791
  • 「個人的所有の再建」

『資本論』の本源的蓄積論の特徴

この24章全体の構成をふり返ってみると、その基本的な内容は次のようなる。

  1. 第2節、第3節は、鳥のように自由なプロレタリアートが賃労働者に転化する過程
  2. 第4節、第5節は、農業資本家の形成過程と農業革命の工業化への契機
  3. 第6節は、工業資本の形成過程

本源的蓄積はなぜ期間がかかるのか、という問題について考えてみよう。

  • プロレタリアートの賃労働者への転化が、不連続である、ということ。プロレタリアートの排出と、賃労働者としての吸収のギャップ説、これが第2節、第3節で示されている。とくに、この転換に関しては「教育、伝統、慣習」という上部構造的な要素が重視されている。
    現代でも都市流民の形成が資本主義の成立過程では重要な問題となり、さらに国際的な労働力移動というかたちに発展している。この種の排出と吸収の断層は、資本主義の形成に不可避なのではないか。確立した資本主義では、労働力は内生的に、資本構成の高度化によってつねに再生産できる、労働人口も労働力の価値どおりの売買によって維持できる、等々、という純粋資本主義的な資本主義観は再考に余地がある。
  • 農業資本も工業資本も、ともに産業資本であろうが、マルクスは工業資本を産業資本の本体、資本主義的生産様式の基本であると捉えている。農業資本家の形成のもつ意味は、農業の大工業化(資本構成の高度化)による追加的な労働力排出効果である。農業が工業と同等に、産業資本として並行して発展するというという説明ではない。ここには、農業と工業という異なる産業領域が想定され、その間での労働力の排出と吸収という過程のうちに、資本主義の形成を捉える観点がある。農業部門も資本によって支配されるが、こちらは労働排出、これに対して、工業部門では賃労働者としての吸収が進み、ここに資本主義的生産様式が成立する、というのである。これは、一種の部門間不均等発展説による期間存在の説明であろう。
  • この工業部面での吸収についても、二重性が指摘されている。「本来のマニュファクチュア時代」の介在説である。マニュファクチュアでは、労働力の吸収が不完全である、全産業(ここでは農業をのぞく工業部門であろう)をマニュファクチュアが全面的に覆うことはない、という限界を指摘して、最終的には機械制大工業のもとで全面性を説く。資本主義的生産様式の二重性説による期間存在の説明である。
    しかし、機械と大工業=全面性説にはなかなか了解しがたいところがある。綿工業にしても、部分的で川上部門から産業資本による「経営制度」(S. 790)が浸透するなかで、下流部門につねに「近代的マニュファクチュア」「近代的家内工業」(第13章第8節)を生みだす。資本主義は本源的に二重構造を抱えているのではないのか。全面的一様化説による資本主義像に対する疑問である。重工業化のプロセスも同じような過程を抱えている。重化学工業での生産性上昇とその民需としての消費(戦争という消費形態も多大の肉体労働を要する点は措くとして)では、後者は長い間、人間のマニュアルレーバに依存する組み立て産業を随伴し、ここで雇用を拡張してきた。
  • 工業化に関しては、もう一つ、第1巻後半を貫くモティーフがある。協業にはじまり、資本の集中・集積論につながる、「経営制度」のレベルでの規模の拡大化傾向の理論である。これは第7節につながる。労働者の労働貧民かで労働からの搾取が限界に到達する一方、資本間の競争が激化し、淘汰が進み、大資本への集中が進む、という観点である。これは労働吸収の逆、先行して農業部門で生じた労働排出が、工業部門でも一貫して進むという着想になっている。このもとで、資本主義の弔鐘という第7節の結論、第1巻の結論が引き出される。収斂説=内部崩壊説というのがよいかどうかはともかく。

トップ   差分 バックアップ リロード   一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2021-02-20 (土) 17:32:13