分化・発生論的に価値形態論を捉える立場は一般にみられるところですが、このなかに、交換過程論は陰を落としている。過程論という側面です。価値形態論は、単なる表現論ではなく、過程論だ、と考えるわけです。このことが無自覚に重ねられると、貨幣形態に到り、貨幣論の進む以前から、簡単な価値形態や拡大された価値形態でも、部分的にその形態で交換がおこなわれている、ただそれには限界があるのでより進んだ形態に発展する、このような交換過程を価値形態論は展開しているのだ、というみるわけです。

交換過程論が、同時に商品所有者を想定している、という点も、この過程論的な分化・発生論の展開に拍車をかけます。商品所有者の立場にたって、そこから実際にこの主体がどう思考し、行動するかを、実際に追ってみる、という、いわゆる思考実験的アプローチ'です。

しかし、obataはこのような過程論的な分化・発生論、思考実験的アプローチには反対です。これは、けっきょく、ある特定の結論に虚偽の現実味を与える、レトリックだと思います。利己的な商品所有者だったらこうするはずだ、というこうするという論拠が、きわめて主観的なのです。その推論をしている主体、つまり論文の筆者がもし自分だったらこうするという直観に過ぎないものが、その一人称を離れて、論文のなかの三人称の商品所有者一般に昇華され移入され、いつのまにか格上げされ客観化されている、と思うのです。思考実験という場合には、よぼど注意しないと、このような合理化を無意識にしてしまう可能性があるのです。微妙で見えにくい論証回避の方法です。

ではどうするべきか。こうするはずと考える論拠を自覚的に対象に据え、そうさせると思われる諸要因、諸契機を一つひとつ明示的に分析することだと思うのです。物々交換しているうちに、だんだん貨幣を用いるようになる、というような、いい加減な過程論は、歴史的な反映論的な過程論以下の寓話でしょう。それはおとぎ話や神話が、現実をそれらしく説明するのと、基本的に同じ説得論法です。いわゆる自然状態を想定し、万人の万人に対する闘争の結果、それを避けるために、自然権を契約によって国家に委託したのだ、といった自然法思想も、それが批判した王権神授説なみに、やはり説話になっている、そんな古くさい、物語ふうの理論からは、マルクスの方法はとっくに脱却していると思います。

価値形態論を「交換を求める諸形態」といったのは、一方で狭い意味での価値表現論を離れることにありましたが、同時に他方で、虚偽の交換過程論からも離れるねらいがありました。少なくとも後者のねらいは潜在的にはあったのです。貨幣を支える諸要因、諸契機を、各形態に振り分け整理してみるという展開にしたつもりなのですが、実際にはobataは、試行錯誤的に貨幣形態にいたる過程を記述しているのだ、というように受けとられたようでした。

このような思考実験的アプローチの欠陥について自覚を深めたのは、株式会社論における、資本結合論をみたときでした。ここで、対等な結合がまずあって、そのあと、それが分化して、支配に興味のない資本家が発生する、というようなお伽噺が誠しなやかに論じられるのをみたときに、これは変だ、と思ったのです。これは現実にあるものを、合理化する説明法でしかない、反映論ではないのか、と感じたのです。分化・発生論は、一枚岩というより、さらに方法的に明確にしなくてはならない未完成な方法でしょう。


トップ   差分 バックアップ リロード   一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2021-02-20 (土) 17:32:13