obata/論文コメント


報告、たいへん参考になりました。いくつか議論して興味をもった点をメモしておきます。

参加者からの質問の整理

  1. イギリス式、オランダ式セリ方式によってdoneする価格が食い違うか、正上、新井田氏から
  2. 賃金基金説の意味について
    1. 所与の賃金ファンドの分配説ではないか、沖氏から
    2. 基金fundは事前の準備という意味があるのか、橋本さんから
  3. 死んだ労働・生きた労働と賃金基金との関係は服部報告でよいか、泉氏から
  4. 賃金基金説とマルクス剰余価値論との関係はどうなるか、オバタ
  5. ミルが社会主義者になった(?)ことが賃金基金説放棄(撤回ではなく)に関連するという服部報告結論部分の意味、結城氏から

だいたい、このあたりを議論してみましたが、オバタにとっておもしろかったところだけ、簡単にまとめてみます。

賃金基金説と貨幣数量説は、古典派に通底する同型の説明原理(均衡論)

  • F = wN
  • Mv = pT
  1. マルクスがセイ法則を批判したところで述べているように、一方に需要総量の山を、他方に供給総量の山をおいて、これはちょうどハケるように価格( pやw )がきまるとみる発想法である。
  2. この着想は期間の問題を捨象することになる。今の需要と今の供給が合致するのだという想定である。それゆえ、短期といえば短期の考え方である。厳密いえば、瞬間的な一致。期間の排除。賃金基金説でいえば、現在存在する賃金総額が、今、取引される労働総量と一致するように賃金wがきまるとみる。F = wN それゆえ、N が一定ならwに上昇の余地はない、とみる。貨幣数量説の場合は、Tが一定だからMがふえればpが上昇するほかない、とみるので、形式的にまったく同じかどうかは、ちょっと留保します。着想法は同じでしょうが。

補論:期間と時点

  1. けっきょくのところ、上の問題は、総需要、総供給という集計概念と、過程としての期間分析との整合性という問題にゆきつきます。
  2. たとえば、Mvという概念について考えてみると、Mという貨幣が異なる時点で果たした需要を合算できるという想定です。きのう、この千円札が購買した1000円と、きょうこの千円札が購買した1000円をたして2000円の需要である、というようにみているわけです。pTという概念も同じで、きのう売られた商品T1も、きょう売られた商品T2も、この集計された2000円の需要に対する供給というようかたちで、向き合わされます。
  3. 流通手段のところでよくでてくる、例の図を思い出してください。商品は貨幣の運動に応じて、徐々に異なる時点で販売されてゆくのですが、数量説はこの異なる時点の購買をある一時点でなされた総量というように集計します。Mvというのは、異なる時点の購買の合算可能性を前提してます。しかし、実際にはきのうの貨幣できょうの商品は買えませんし、いわんやきょうの貨幣できのうの商品は買えなかったと考えるべきだという立場も成り立つでしょう。
  4. 数量説の前提は、月曜から金曜まで開いている市場は、金曜日の最後に一時点に集中して取引がなされるのであり、それまで商品はウィンドウに飾っておくだけにする、という考え方でしょう。そして、この週末で商品はすべて捌ける。土日は飲み明かしてしまって、切断された次の週が始まる。今週と来週とは別の時点として区切られるということになっているのではないかと思います。
  5. MvとFというのは、違うようにみるかもしませんが、このように考えると同じことです。賃金基金というのは、今年、いまある支払可能な基金であり、それと今年の総労働人口が取引されるのあり、それは来年の生産物とは切れている。かりにVがV+Mになるとしても、今年のFないしVで来年のV+Mを買うことはできない、ここに切断面をいれているのです。
  6. これはやっかいな問題で、いろいろなひとがさまざまなかたちで議論してきたことのようです。ある現象を集計的にみるということは、じつは過程を通じて、順次、時系列のなかを進行する連続的で不可逆的な現象を、きのうときょうとか、今週と来週と、今年と来年とか、いった外在的な尺度で切断して、それぞれ切断された内部のある1時点に集約して、過程としての不可逆性を捨象しているわけです。
  7. 今年の大晦日と来年の元旦は1日違いで接しているのに、集計的な均衡概念の世界では、今年の大晦日は365日まえの今年と同じ一時点に引き裂かれます。

補論:期間と増殖

  1. 資本の増殖というのは、こうした期間と時点の問題に深く絡んでいます。先週議論した価値の切れ目の問題です。
  2. 資本の増殖運動というのは、異時点間の比較を含みます。同一時点で増殖という概念は成り立つでしょうか、空間的な価格差で充分だ、というひともいるかもしれませんが、G-W-G'のWが、A地では100万だがB地では110万円だ、ということが明になったその時点で、瞬間的に価値増殖ということは成立しているのでしょうか、それともそれは同じ商品に対する二重の価値評価をいっているだけで、同時に100万円であり110万円であることはできないのだ、というべきなのでしょうか。この辺は価値増殖と貨幣増殖、評価と実現の区別に絡む、いまオバタがしきりに悩んでいる問題です。
  3. 資本の運動には、価値の切れ目がある、という先週の論点はこの意味でおもしろいところです。生きた労働と死んだ労働というのも、生きた労働というのが、いったんゼロにリセットされて、それから徐々に「過程を進みつつある価値」として対象化されていき、V+Mに増殖して現れる。資本の運動が、期間をブリッジする運動である、というみかたを含んでいるわけです。労働力の価値規定というのは、資本の運動のなかで、評価ないし価値としてはVというように切りながら、Ding an sich ないし使用価値体としてはゼロにリセットされて時間とともにその量が変化してゆく、過程的な量概念が含意されているようですが、ちょっとまだ、オバタには鮮明な理論的説明ができません。
  1. 資本概念からなかなか利子概念が払拭できないのも、資本の増殖が期間概念と不可分だということに由来しています。
  2. この場合、利子というのは貨幣の用益権の価格である、といっただけではすまない問題がありそうに思えるのです。理論的直感、止まりですが。貨幣だから生じる問題なのではなく、商品でもいいのですが、異時点間の量の関係をフラットに合算するのではなく、ウェート付けをすることで合算可能になるのだ、という種類の着想です。数量説でもなんでもそうですが、簡単に異なる時点の量を合算してしまうのに疑問を感じながら、それでも合算しなくてはなにもわからなくなるではないか、こう考えてゆくと、だいたいゆきつく先は見えてきます。だったらそのまま、客観量のように足すのがいけないので、あるウェート付けをして足したらよい、という発想になりそうです。このウェート付けを客観的に与えるとしたら、期間に応じて、というかたちになるでしょう。貨幣でも、商品でも、かまわないのですが、一定期間にはある率Rで変化するという、安易な着想です。異なる事象にはすべて異なるウェート付けをおこなうというと、期待値のように主観性をもっと前面にだした集計になろうかと思います。

マルクスの市場観と古典派の市場観

  1. 古典派は以上のような意味での総量均衡的な発想法をもつ。ここでは売れ残りとか、失業といったプールは認められていない。
  2. これに対して、マルクスの市場観は、基本的には調整的な役割を果たすプールが市場には付きものだ、という説明になっている。賃金基金説に対しては、産業予備軍というプールが存在し、貨幣数量説に対しては、蓄蔵貨幣という調整弁が存在するというかたちで、古典派の市場観を根本的に脱却している。

賃金基金説と剰余価値論の関係

  1. 賃金基金説は事前・事後というかたちで、V ---> V + M を切断する。出発点ではVしかないのだから、このV = wNを現在の労働しようとする人口で分割するほかない、それ以上は出せないのだ、という「賃上要求の無理論」を主張するわけである。
  2. マルクスはこの事前事後の切断にどう対処したのか。一言でいえば、&color(red){再生産}という着想である。継続する過程を、事前・事後という二局面に集約・集中することで、時空を切断する手法(比較静学的アプローチ)の克服。
  3. どんなに要求されても、与えられる原資は、Vしかないというが、そのVはどこからでてきたのか、というと、前期のV+MのVである(”もっとだせるじゃないですか、社長!”)。そして、次期もまたV+Mを生みだす(”また我々を絞ってもうけるのでしょう”)のであり、Mという剰余に弾力性があるのだというようにみるわけである。(服部報告5頁の引用にあるような)「富者の「収入」の犠牲」によって、雇用を維持拡大しながら、賃金を上昇させることはできるというのがマルクスの立場である。
  4. 再生産という着想は、古典派にも存在している。それなのに、なぜ、賃金に関して、賃金上昇と雇用量のトレードオフを硬直的に主張する、賃金基金説が内包されているのか、疑問に思う。

古典派人口法則論と賃金基金説

  1. 両者は賃金の一方的上昇の困難、wとNとの間の逆の動きを説明しているという点では一見したところ同じようにもみえるが、考えてみると短期の賃金基金説と長期の人口法則論とは両立しがたい面をもっている。
  2. 人口法則論で、賃金上昇が人口増をもたらすという場合、賃金 w 上昇がただちに雇用量 N を削減して、労働者の所得総額 wN を一定にするという、厳密な意味での賃金基金説をとってはいないことがわかる。もし、労働者の生活水準が上昇してそれが人口増をもたらすとすれば、wNが多少とも増大していなくてはならないはずであるからである。
  3. 人口法則論は、この意味で、一時的にはwの増大がNの削減を伴うことなく生じるという、過程論的視角にたっている。再生産論的であるといってもいい。一時的にwNが本来の水準から乖離して上昇する。その理由は、wの上昇がただちに(静態的均衡論で扱うように)Nの削減を生むのではなく、基幹的に遅れる、からであろう。このラグの間、労働者の所得が上昇し、賃金基金もその意味では増大することになっている。この所得増加が、やがて人口増加を生みだし、それが必要以上に進むことで、今度は人口Nの絶対的な減少を招くような、過度の賃金wの下落、wNの過度の縮減につながるというわけである。
  4. 人口法則論と賃金基金説は理論的に異なる着想にたっているのである。服部報告4頁の「リカードはマルサスと異なって賃金に限っては短期の労働市場需給調整論を述べている」といってよいのかどうか、再考してみたいと思います。

賃金基金説とマルクスの窮乏化法則との関係

  1. 賃金基金説によれば労働人口の増加は賃金率の低下につながる。これも一見したかぎりでは窮乏化にみえるが、そう捉えてよいかどうか。服部報告の11頁でいう「労働者階級の悲惨さ」の中身はなにか。
  2. 賃金率の減少をいっているのかどうか。賃金基金説からでてくるのは、<完全雇用=低賃金*1>型の貧困であろう。これに対して、マルクスの考えている貧困は、<不完全雇用*2=労働力の価値維持>型の貧困ではないか。むろんテキスト解釈としては多面性をでてこようが。失業者がふえれば賃金率が下落する、という労働市場観、あるいはもっと広くいえば、在庫があれば価格はそれがなくなるまで下落するのだ、という作用を一般的、基本的だとみる市場観にオバタはかなり批判的である。

ミルの社会主義と賃金基金説

  1. 服部報告の結論部分ですが、ミルが晩年、社会主義的な立場をとるにいったことと、賃金基金説の「撤回」、あるいは「放棄」したことの関係についてです。
  2. 基本的な整理として、
    1. 理論的に賃金基金説を支持続けたのかどうか
    2. 現実に賃金基金説の有効性をみとめたかどう

という二つの視点から、賃金基金説と社会主義の関係を考えたらいいのではないか、というのがオバタの提案でした。

理論的に成立する成立しない
現実に有効性をもつ有効性をもたない

という組み合わせとなるでしょう。

「理論的には成立する、とミルは一貫して考えていたが、現実に有効性はもたなくなっている」というのがありそうな解釈ではないかと思いました。つまり、均衡論的な市場原理の枠組みからみれば、理論的には成り立つが、現実の資本主義では市場以外の賃金統制、組合制度など、社会主義的な改良が進んでおり、そうした要因の比重が高まるにつれて、賃金基金説による説明は部分的に妥当するのみで、それだけでは不十分だという方向に考えが進んだ、というような解釈です。

ミルが、ソーントンらの批判に答えて、賃金基金説を理論的に詰めていったらその限界に気づき、均衡論的な市場観を脱却したことが、賃金上昇の余地を認め、組合活動の意義を受け入れる社会主義的な立場を誘導した、というのも理屈の上では想定できるシナリオでしょうが、ミルは違う道をたどったようです。こうしたことをやったひともいるのでしょうね。労働市場の均衡論への疑問から、非市場的な要因の重視へというのは、ネオ・ケインジアン的ですから、ケンブリッジ学派的な伝統かもしれません。


*1 working poor
*2 産業予備軍の増大

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Last-modified: 2021-02-20 (土) 17:32:13