熟練は労働のコアに宿る

経済理論学会の駒澤大会のときでしたでしょうか、休憩室の片隅で一人さびしくお茶など啜っていたら、むかし大学院で多少議論の相手をしたことのある(元)若い人が近寄ってきて「まただれも読みそうにないものを書きましたね」とニヤニヤする。たしかに「熟練内包的労働の一般規定 — オブジェクトとしての労働」というタイトルはちょっと気負いすぎ、まるで読むな!といっているよう。でも中味はごくごく単純な話で「労働過程のところにもどって、熟練とはなにか、考えてみよう」というもの。「労働そのもの」には「熟練」のタネも仕掛けもない、「熟練」は外で「生産」され後から「労働そのもの」に付加される二次的要素だという通説を根本から見なおそうというネライ。

オブジェクトというのは、いくつかの属性とそのふるまい方をまとめて内部化したもので、もともと、”これ、ちょっと「商品」につかえるな”と思って実はもう、少しだけ試してきた手法です。価値と使用価値という属性をもち、価値表現というふるまい方をする商品にオブジェクトという考え方をつかえば、貨幣や資本を内的に導きだしてきた従来のやり方も、もっとスッキリさせられます。そこで、「労働」のほうもオブジェクトとしてとらえたら、商品・貨幣・資本の考察で培ってきた演繹的な方法で、熟練と技術(機械)の原点分岐、協業と分業のような労働組織の変容なども理論的に説明できるだろうと考えた次第。とはいえ、新しい手法にいままでの‘熟練’論文を読み書きするときの’熟練’です。もちろんオブジェクト指向で「熟練」なるものの説明は格段にやさしくなるはずです。は通用せず、やはり読みづらいものになったかも。それで「あれ、読んでくれたの?」とほんの少し期待しつつ、おそるおそるきいてみたら、「プログラム・コードにしてくれたらデバッグくらいはつきあいますよ」などと呟き、いずくともなく…ゆく人なしに秋の暮れ、か。

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