労働概念の拡張のために

  • 東経大学術フォーラム研究会 報告
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  • 2021年5月25日 14:30

東経大学術フォーラムの事前研究会での報告内容です。研究者のかたも学部学生も参加するということで、どのような話をしたらよいのか、悩ましいのですが、「最先端の研究をだれにでもわかるように説明する」という基本方針でチャレンジしてみます。

なにをどう考えるべきか

なにはともあれ「労働価値説」?

マルクス経済学ではむかしから、ひと言「労働」と口にすると、たちまち「それは労働価値説とどう関係するの?」と問いかえす伝統がありました。おそらく今でも変わっていないでしょう。ただ「労働価値説」に関しては現在、あらかた「解かれえるべき問題は解かれた」

①条件を明確にすれば投下労働量は客観的にきまること。②この量は純生産物の分配をはかるのに有効であること。③同じ条件から、利潤率を均等にする生産価格は決まること(客観価値説)。④利潤率が均等化しない、等価労働量に比例した売買を考える必要はないこと。⑤客観勝ち説があれば、売るのにバラバラな期間を要するという、マルクス経済学の市場像にリゴラスな基礎を与えるのに必要にして十分であること。以上。
時間があれば、当日現場で、簡単に説明します。ただ今日はここにこだりたくはありません…

と私は考えています。

考えるべき問題は、その先にあります。「労働価値説」の陰に隠されてきた未知の「考えるべき問題群」の存在です。情報通信技術が急激に発達し、労働のあり方も大きく変化しています。こうした新しい変化を理論的に捉える準備をしてゆかなくてはならないのです。今日の話の眼目は、このために労働概念はどう組み立てなおすべきか、にあります。そのためにまず、従来の労働概念のどこが障害になっているのか、簡単にみておきます。

技能なき労働

『資本論』は「労働価値説」とそれに基づく「搾取論」のために強い前提をもうけてきました。その最たるものが「単純労働化仮説」です。労働が量として合算できるには、完全に互換的な労働を考える必要があります。たしかに不熟練労働が広範に存在するという想定は、この条件を満たします。しかし、資本主義のもとで労働の実情がどんどんこの想定に近づくというように、ある想定を歴史的事実で根拠づけるようとすると、人間労働の本来のすがたを捉えそこなうことになります。熟練今回の話のなかでは、「熟練」という用語は「技能」「スキル」と同義に用います。英語の skill, ドイツ語のGeschicklichkeitではなくFertigkeitのほうに当たります。なき労働こそ、本来の労働のすがただというかたちで、労働の互換性は、熟練の概念を理論的に分析すれば、一定水準の成果を一定時間で達成できる標準化された「型」にキャスティングされると考えればすむことです。

熟練をまったくもたない「裸の労働力」を最初に設定して、あとから熟練なるものが労働によって生産され付加されるというかたちで「労働価値説」に接合しようとすると、熟練労働の単純労働への還元という出口なき形式論でに迷い込んでしまいます。熟練なるものが、どのような内部構造をもっているのか、こうした基本問題が隠れてしまうからです。

結合なき労働

「労働価値説」は、個々バラバラな主体の労働を前提とします。N人なら一人のN倍の労働量と考える必要があるわけです。こうした個別化された労働主体の想定から出発して、後から労働の結合を問題にするのです。協業と分業は生産力の上昇によって労働力の価値を引き下げる手段として、「相対的剰余価値の生産」のところで、はじめて考察の場に引きだされます。目的をさきにきめる目的意識的活動は、人間の労働を動物の活動と区別する本質として強調されるのですが、個別労働主体内部で閉じられ、他の主体と結合する原理は分析されていません。

これは「労働価値説」には必要な仮定です。これを前提にして、協業や分業という結合労働による生産力の上昇効果は、あまねく資本のものになる、という「相対的剰余価値の生産」につながるわけです。説明の単純化のための「仮定」であるなら、バラバラな労働は「労働価値説」あるいは「客観価値説」や、それに基づく「剰余価値論」の基本を理解するうえで有効です。しかし、この「仮定」を原論全体で維持する必要はありません。維持しようとすると、ぎゃくに人間労働に特有な結合能力が理論の埒外に放逐されることになるのです。

機械に追われる労働

「相対的剰余価値の生産」という価値論の観点から労働を規定しようとした影響は、さらにつづきます。「機械」の発達によって労働力は排除されるという基本命題には、労働の原理的規定への一定の制約が不可欠です。人間はもちろん素手で外部の世界にはたらき変えるわけではありません。どんなときにも、何かしらの手段をつかいます。この側面は、人間労働の本質を分析するときに、一般的抽象的に突き詰めておくべきことです。

労働手段と切り離し、人間の合目的的な活動だけを「裸の労働力」と規定するから、「機械」が発達すると労働力は必然的に不要になる、という結論になります。しかし、出発点としての労働は、はじめから手段をつかう(操作操縦する)活動です。この手段のもつ二つの顔をハッキリ認識すれば、「機械」にもそれが継承されていることがわかります。機械はすべてが完全な自動機械ではありません。「機械」とよばれるものの多くは、オペレーターが操縦するタイプのもので、ミシンでも、自動車でも、コンピュータでもかわりません。自動車を一台導入すれば、自動運転の技術が完成するまでは、一人の運転手が必要になります。いずれにせよ、「手段」の原理的な分析を欠くことが、すべての機械は自動機械であるという極端な仮定につながっているのです。

新しい幕には新しい書き割りを

これは要するに、理論的に説明可能な貨幣は金貨幣だと主張する場合と同じです。19世紀にはその方向に進んでいた(はずだ、とひとまずアタマのなかに構築した)「純粋資本主義」では、単純労働以外の労働は存在しないという立場です。こうした紋切り型の「純粋資本主義論」と手を切り、貨幣にしても労働にしても、もっと抽象レベルをあげて、理論的に構造変化を考えられる「変容論」を開発する必要がある、というのが、私の基本アプローチです。

「労働価値説」あるいは「客観価値説」で社会的再生産の構造や純生産物の分配を説明するには、それに応じた書き割り backdrop が必要となります。そしてその幕で「解くべき問題」はシッカリ解くべきです。しかし、労働に関して考えることはそれだけではありません。「はたらく」とはそもそもどういうことか、それがどのようなすがたをしており、そして今どのようにすがたを変えようとしているのか、こうした問題を考えるには、新しい書き割りが必要なのです。もちろん、演じる役者は同じ労働ですが、舞台が変われば役割も変わり、演じ方も大きく変わってくるのです。

「労働過程」論をこえる

『資本論』の「労働過程」

『資本論』の労働概念の基本は、「労働価値説」にもとづく「搾取論」のためのものですが、第一巻第5章第1節は趣が大きく違います。そこでは価値を形成する労働、生産物に対象化された労働という一連の流れからはなれ、労働の本質が論じられています。宇野弘蔵がここを拡充し、「あらゆる社会に通じる経済原則」を読み取り「原則が法則を規定する」というかたちで、独自に労働価値説を論証しようとしたことはよく知られています。その成否はともかく、労働が価値論のサーバント的な役割とは違う役割を演じていることはたしかです。

「労働過程」の盲点

とはいえ、新たな書き割りがこの「労働過程」でよいかというと、そうはいきません。よく知られているだけに、このうえで労働概念を拡充してゆけばよさそうに思えるのですが、ここには落とし穴があります。この点は、研究者相手に議論をするには、『資本論』のテキストに即してなにが問題なのか、どこに盲点があるのか、キチンと説明する必要があります。しかし、今日はそういう場ではないので詳細は割愛します。およその結論は以下の通りです。

意志と身体の関係
『資本論』のテキストでは、意志が身体を規制し、身体がモノに作用するという二層の関係が、身体の作用が労働力とよぶかたちに還元されています。なにが言いたいのかわかりづらいと思いますので、誤解をおそれず簡単に言えば、要するに人間の仮定を制御する「能力」が、物理的な「力」の支出になっているということです。
手段の欠落
「労働そのもの」を考察するところで、目的を実現する「手段」を省き、あとから「労働対象」「労働手段」を追加する構成になっています。全部あわせれば、「労働過程」に「労働手段」が不可避なことが強調されているのだからよいではないか、という人がいると思いますが、こうした要素論があとあと尾を曳き、「労働手段」としての「機械」が発達すれば「労働そのもの」はいらなくなると考える結果になるのです。
他者の不在
労働とは人間に特有な目的意識的活動だという規定は、この目的がどこからどう生まれるか、という問題を含んでいます。一つの答え方は、それは外部から与えられるのだ、自分の欲求から離れてはたらけるところに動物の活動との決定的な違いがあるのだ、というわけです。正論です。しかし、その先があるのです。この説明は、労働を著しく受動的なすがたにしています。そして後になると、賃金労働者が資本家の与えた指令どおりにはたらくというすがたにピッタリ重なるわけです。しかし、労働には漠然とした欲求を明確な目的に設定するという、けっこう厄介な過程が含まれているのです。この側面を切り落としてしまうと、商業活動や対人サービスなどは、本来の労働ではない、という通念をいつまでたっても打破できなくなるわけです。

労働概念を組み立てる

労働の定義

はじめに「労働」という用語の定義を与えておきます。ここでは「欲求・必要を目的意識的に実現する活動」を労働とよぶことにします。これはあくまで用語の定義であり、考察対象に外側からラベルをはったに過ぎない点、あらかじめ注意しておきます。これから、この用語が指す対象に、明確な内部構造属性 propartyとそのはたらき・振るまい方 method で構成される構造をここではオブジェクトとよぶことにします。ポイントは要因の羅列、ただの列記ではない点です。を与えてゆくことで「概念」を構成してゆきます。

二つの世界

紛れのない書き割りをえがくために、ここではわれわれを取り巻く世界を「知覚」perception できるかできないか、で二分しておきます。ピッタリ一致するかどうかは検討が必要ですが、客観的に計量計測できる対象と、それを超える超越論的対象の区別です。英語ではcountable,uncountable で名詞を二分しますが、あれを思い浮かべてみればよいでしょう。

さらにここでは、だれがはかっても同じになる対象をカタカナで「モノ」と表記することにします。自然科学が対象とするのは、基本的にこれらのモノです。計量計測できればよいのであり、それがかたちをもった有体物かもたない無体物かは問題ではありません。経済学ではふるくから、前者を財とよび、後者をサービスとよんで議論してきましたが、ここではボツとします。

主体の両義性

このような二分法がなぜ必要なのか、有効なのか、それは「労働者という人間」、ここでは具体的なイメージを払拭して抽象的に「主体」とよぶことにしますが、労働する「主体」の特徴をとらえるための工夫です。「意志」(〜しよう)や「欲求」(〜したい)という属性は知覚できませんが、両者は知覚できる世界に半分は属する「身体」に結びついています。五感を具えた身体を介して「欲求」は生まれるわけであり、手足を自由に扱うことでなにかしたいという「意志」がはたらくわけです。

モノとモノとの反応過程

「手段」も「目的物」も、それ自体は知覚できる世界に属するモノです。手段か、目的かは主体がきめるもので、モノに属する性質ではありません。モノは自然科学が解き明かす自然法則にしたがうのであり、この法則はどんなに主体ががんばっても変えることはできません。このモノの間の作用・反作用を「モノとモノとの反応過程」とよびます。金槌で釘を打ったり、加熱してモノを煮たりしても、自然法則が支配している過程です。身体もこのレベルでは力や熱としてはたらくかぎり例外ではありません。しかし、「労働力」をこのレベルのエネルギーの支出に還元するのは、目的意識的活動という定義から完全に逸脱します。「労働力」を注入すれば、それがさまざまな物質に凝固して、どのようなモノでもつくれる、といった妄想からは手を切りましょう。

目的意識的

知覚できる世界の諸現象に対して、「目的物」を設定するのは主体です。主体の意図は、この目的が実現するように「しよう」とするわけです。労働のコアになるのは、この「しよう」「させよう」という意図的な活動です。この行動のしかたを「目的意識的」とよびます。もちろん、いくら「しよう」と念じても、自然法則に反することはできません。なにが実現可能なのかは、主体が知るべきことです。

コア拡張

労働概念はこのコア定義だけでは充分ではありません。そこには大きくいって、二つの方向への拡張の可能性が含まれています。第一は欲求に対する目的の設定に、第二は目的に対する手段の設定に関わります。第一の拡張のほうからみてゆきましょう。

欲求の定式化

目的の設定が、主体の欲求ないし必要に結びついていることはたしかです。ただ、この欲求は漠然とした「〜がほしい」「〜がいる」という欠落で、なにによってどのように満たすことができるのか、は漠然としています。これを満たすには、それがどのような「はたらき」「やくだち」が必要なのかという、具体的なイメージを固める必要があります。

もちろん、その欲求が同じ主体であれば、この過程は意識されることなく自然に実現されるはずです。自分の食欲が目玉焼きのイメージとなっては現れるのはアタリマエのことです。問題は、その欲求が別の主体のものであるときです。「〜がほしい」と思っているいる相手に、「〜ならしてやれる」か、考える必要があるわけです。欲求を具体的で輪郭のハッキリした「はたらき」「やくだち」にかたちづくる必要は、主体間でのやりとりのなかで強まります。

欲求の定式化は、実際には直接的な対人ケアや商業労働において重要なモメントになります。労働の概念を拡張せず、この部分の原理的考察を欠いたまま、後になって商業労働を追加しようとすると、商業労働は価値論と整合するかといった、問題に限定されてしまいます。あるいは、「経済のサービス化」といった漠然としたラベルをはってすますことに終わります。問題はモノないしモノを生産する労働に対して、「サービス」ないし「サービス」に携わる労働の区別ではありません。いわんや、モノの「生産」と同じ「生産」を念頭に、「サービス」は「生産」されるのか否か、などなど、答のでない問題を延々と議論するのは時間の無駄です。

「感情労働」、「サービス化」、等々のかたちで論じられている現象が重要でない、といっているのではありません。他の主体の欲求をハッキリしたかたちにできる能力は、人間の労働を考えるうえで重要な点です。ただ労働の概念を、基礎のところで拡充せずに、従来の労働概念のうえに新しい現象を移植しようとしても無理なのです。労働概念の第一の拡張のネライはここにあります。

コミュニケーション

他の主体の欲求の定式化の基礎となるのは言語を中心としたコミュニケーションです。ヒトという生物種がもつ優れたコミュニケーション能力は、人間労働の重要な契機となるのです。

情報通信技術

この第一の拡張に、情報通信技術の発達は大きな影響を与えます。これは近年にはじまることではありません。紙の発明や活版印刷技術の登場など、古くから技術革新は繰り返されてきました。コミュニケーションの媒体の発達は、この領域における労働の拡張を促し多彩な内容の労働を生みだしてきたのです。

労働概念を拡張するネライは、労働の構造変化、変容や多態化を理論的に捉えることにありますが、情報通信技術はコミュニケーションを通じた欲求の定式化という開口部に作用する重要な外的条件なのです。それは、この後とみるもう一つの技術、つまり生産技術とは違う箇所に違うかたち作用する点に注意する必要があります。

イメージのモノ化

第一の拡張にはもう一つの局面があります。特定の「はたらき」を知覚できる世界でいかに実現するか、という問題です。自然科学を基礎とした工学的な知識は、このための基礎をなします。こうした知識は、経験を通じて自然に身につくものもありますが、意図的に開発することもあります。ここまで労働の範疇に含めるか、別の立場もありますが、今日の労働のすがたを考えるとき、さまざまな研究開発的な活動を他の活動から区別して、それは労働ではない、と排除するのことに、それほどたしかな根拠があるわけではありません。イメージをモノ化する局面を労働の一環として捉え、労働全体の構造変化のなかで特徴づけてゆくほうが有効だと私は考えます。価値論との関係のみから労働を捉えようとすると、労働のこうした局面に光をあてることは困難になります。もちろん、労働価値説の立場からみても、私の客観価値説の立場からみても、研究開発に携わる労働の多寡が、価値の大きさに直接影響するわけではないことはたしかです。しかし、このこととそれを労働と概念規定するかどうかは、別のモノ大なのです。労働の第一の拡張は、主体間のコミュニケーションの局面と、知覚できないイメージの知覚できるモノ化という局面という二局面において展開されると考えられるのです。

さらに一点、注意を補足しておきます。この第二の局面に対して、目的意識的活動に対する目的は、他から与えられたものでも、主体が自分で設定したものと同様に遂行できるところに人間労働の特質がある、という説明がなされてきました。事実上、資本主義における賃金労働者に対して資本家がさまざまな指示を与えて労働させる局面を想定したものです。たしかに、目的設定におけるこの受動性は重要なポイントですが、同時に大きな問題を抱えています。受動性については、ここでは他の主体の欲求も定式化できると能動的に規定したのですが、視点を転じれば、他の主体に目的を引き受わたすことができると読みなおすことも可能です。問題は、受動性を軸にした従来の規定では、目的を設定する過程が労働の外部に押し出されて、みえないイメージをみえるモノにする、という活動が視野の外におかれてしまう点にあります。それは資本家の活動であり、それを手伝う労働者がいても、労働はしていないのだ、というのは、文として成りたたないのですが、これに準じることをいってしまうおそれがあるのです。

いずれにせよ、従来外部に押し出してきた目的設定で、とくに知覚できないイメージを知覚できるモノにするという局面を明示するために、ここでは目的となる「はたらき」「やくだち」といった抽象的な用語に対して、その役割を担うモノを「目的物」とよぶことにします。「目的=目的物+はたらき」です。

目的と手段

第二の拡張に移ります。ポイントとなるのは、目的物に対する手段の存在です。目的意識的活動といっても、目的物がきまれば、後はそれに向かって進めばよい、というワケではありません。ミツバチが巣をつくる過程を人間の労働と比べた、あのよく知られた『資本論』の「労働過程」のイラストでは、人間はアタマのなかで六角形の巣をイメージをつくった後、ただちに作業に取りかかるような印象をあたえます。もちろん、このあと、人間は道具をつかう点が強調されるので誤解はないのですが、問題は「労働そのもの」について論じたところでは、「道具」、一般的にいえば「手段」をつくる過程がでてきません。道具はすでに与えられており、これを使うところに人間労働の特徴があるというのです。

しかし、「目的物」が決定したあとになされるべき活動は、そのための手段を体系的に組み立てることです。それは道具をつくることはもちろん、この手段を組み立てることも含まれますが、手順を工夫し、手段全体を体系化することがその眼目となります。手段と目的物の間にあるのは、基本的にモノとモノとの反応過程であり、それは自然法則にしたがうのですから、整合的に手続きをふめば、だれがやっても同じ結果が再現するはずです。

技術

このように再現性を具えたモノとモノの反応過程に意図した結果が必ず現れるとき、この過程には「技術」があるということにします。だれがやっても同じ効果をもつ技術そのものは、主体の属性ではなく、対象であるモノの反応過程の側の属性です。しかし、それを知らない主体には利用できないという意味では、主体の契機を含んでいます。技術は主体によって「発見」されるべき対象なのです。そして、この発見のための活動が拡張された労働の概念のうちに含まれます。技術開発というと、企業や組織でそれを専門に研究する活動を具体像として思い浮かべるかもしれないが、いまここで考察しているのはずっと抽象化された概念であることに注意してください。人間の労働が、直接目的物に直接はたらきかけるかたちをとらず、手段の体系を通じて、間接的に意図した結果を実現しようとするものであるかぎり、一般的な意味で、手段の体系化をはかる広範な活動がつねに必要となるのであり、この活動を労働概念のなかに抽象化して取りこんでおくことがネライです。これは、労働が歴史的な環境のなかでどのようなすがたで現象するかを分析する、変容論のベースとなります。

もちろんこの過程は、物理学や化学の実験のように整備された環境のなかでおこなわれるわけではない以上、コントロールできない要因によって、目的物から逸脱する可能性があります。主体はたえず過程を監視し目的に向かって調整を加える必要があります。ただ、知覚できる世界に対する自然科学的な知識が深まり、手段が精密に体系化されれば、それに比例して、モノとモノの反応過程の途中に主体が干渉する必要はなくなってゆくはずです。

自動性

技術が存在するということは、モノとモノとの反応過程に多かれ少なかれ「自動性」が含まれていることを意味します。金属は一定の温度に達すれば溶けるのであり、釘に一定の力を加えれば木材にめり込む、当然です。もちろん、この過程は、炉に石炭をくべたり、金槌でたたいたりしないかぎりはじまりません。その意味では、主体の関与が必要なのであり、すべてがはじめから自動なのではありません。ただ、モノとモノとの反応過程の基底には、主体の関与なしに進行する自動性の契機が存在することは注意を要します。自動性の有無で機械を道具から分離し、機械が労働を駆逐するという言説はひろくおこなわれていますが、この分離は厳密には困難です。このように記述できる現象がなかったというのではありません。ただそれは、たとえば英国産業革命期の糸車と紡績機といった特殊な労働手段をめぐって生じた歴史的現象で、それ以上に一般化できる原理ではありません。この問題は、このあと、機械を操縦操作する労働としてもう一度考えることにします。

反復性

ただ自動性には、人間の意志に左右されないというだけで終わらない面があります。ポイントは「反復」です。特定の初期条件をセットすれば必ず予期した結果が得られるという再現性を発見することが技術の基礎です。同じ現象が再現するということは、初期条件に戻れば繰り返し同じ結果が得られる閉じた過程、反復型のループが存在するということです。技術を発見する労働からみると、一回の反復の原理(終点を見極める技術も含めて)がわかればよいので、過程を何回繰り返しても、発見は一度だけ、発見する労働が何回も必要となるわけではありません。「自動的」というのは、再現性をもつ過程が、さらに反復されることだ、と考えるのが妥当です。

労働の排除

モノとモノの反応過程を工学的に分析し処理すると、そのコアに自動性と反復性という基本原理が浮かびあがってきます。もちろん、現実の複雑な生産過程をこのように単純な原理に還元することは無理があります。すべてに当てはまる原理だというのではありませんが、抽象化してゆく、とこの連結した性質が有力な一角として浮かびあがってきます。

重要なのは、この視角からながめることで、「はじめに目的物をきめて次に実行に移る」という「実行」の内部構造に一歩踏みこんだ分析が可能になるという点です。労働手段を括弧に入れてしまうと、身体を動かす活動のみが「実行」にみえてしまいます。しかし、ここで強調してきたように、この過程は①目的物に対して、手段をつくり組み立て、②身体はこの手段にはたらきかけるかたちになります。

このうち①はモノとモノの反応過程を支配する客観法則を基礎に、自動性と反復性によって特徴づけられます。この技術の発見に要する労働量と成果は比例しませんが、発見された技術は一定の時間に一定の成果を生みだすことになります。そして、自動性と反復性を具えたこの後者の生産過程は、主体の関与を削減することになるわけです。最後の局面だけみると、機械が労働を追い出す、という通念になるのですが、全体は①+②の構造になっているわけです。そして①も、通念で考えられている、直接機械をつくる労働だけではなく、発見という活動を含めて考えてゆく必要があるのです。

操作操縦

「実行」の内部構造を分析してゆくと、機械が労働を排除するという通念の別の誤りもハッキリします。「自動性」+「反復性」を体現する手段が「機械」とすると、それは同じループを廻だけであり、開始・停止はもとより、加速減速・方向転換をはじめ、さまざまな操作・操縦が必要となることがわかります。もとより、こうした操作の余地が少ない自動機械もありますが、20世紀に発達した機械の多くは、操作操縦するべきものでした。『資本論』にでてくる範囲だと、ミシン sawing machine がそうでうですが、旋盤も自動車も皆このタイプの機械です。操作操縦する先には、自動性と反復性を基本とする高速強力な装置があるのですが、目も耳も持たない装置は、あくまで主体が五感で状況を判断して、状態を切り替えてゆかなくては無意味な空回りに終わるのです。

むろん、手段の体系化を回避し主体の身体を中心に目的物に作用を及ぼすタイプの「実行」もあります。荷物を担いで運ぶか、荷馬車で運ぶか、トラックに乗せるか、です。しかし、トラックになっても労働がなくなるわけではありません。操作操縦型の労働にかわるのです。もちろん、同じ荷物を運ぶのに今まで10人かかったのが、一人の運転手ですむのはたしかです。トラックをつくる労働を加味しても、10人以下になるのはたしかでしょう。しかし、これは10人の運転手が10倍に荷物を運送できるようになるのあって、必ずしも9人に荷運人足が不要になるとはかぎらないわけです。労働の「実行」の内部構造を分析せず、変容するという観点を見失うと、機械と労働の代替といった誤謬に陥ることになるのです。事実20世紀が終わった段階でふりかえってみれば、この世紀を通じて、労働の主流が操作操縦型の労働に変容していったと考えるほうが、機械によって労働の単純化され排除されていったと主張するよりも、ずっとリアルにみえます。

技能

労働の「実行」が、道具であれ機械であれ、ともかく手段を使うものである糊塗がハッキリすると、労働には熟練が付きものとなることがわかります。『資本論』の「労働過程」を読むと、「労働そのもの」を論じた一節は、労働手段がでてこきませんので、手段を操る技能、熟練の存在が見失われることになります。「労働そのもの」は単純労働に重なり、熟練は単純労働に付加されるという通説になるわけです。しかし、労働が手段を使うかぎり、その手段の特性に応じた技能、熟練、スキルは付きものになります。労働概念は基本的に熟練を内包するものでなくてはならいのです。

ただ、この熟練については注意すべき点があります。それは、手段を使うことにともなう使いこなしの能力であり、慣れであるという点です。どのような手段を使うかによって、あらかじめ必要な能力は枠づけられているのであり、手段の特性をこえた熟練一般があるわけではありません。自動車を運転するには、それなりのトレーニングが必要なであり、旋盤を操るにはそれはそれなりの訓練がいります。しかし、これらは自動性+反復性をもった機械がさきにあって、これに対応した身体の適応が求められる。その意味では、どこまでも上達するような能力ではなく、一定の型への当て込みですから、一定の水準に標準化されます。身体能力そのものであれば、もちろん限度はあるにせよ、運動競技のように努力に応じて個人差が広がる余地がありますが、機械操縦型の技能に究極の技があるわけではありません。型づけられた労働として、さまざまな標準的な技能があるわけです。手段を前提にした使いこなしの能力を「技能」とよび、手段の体系化によって、だれがやっても同じに結果になる「技術」と区別します。「技術」が知覚できるモノに属するとすれば、技術を逸脱するところに作用する「技能」は主体に属する概念です。っそてそのかぎりでは、「技能」には主体の身体の差違を反映した個体差が生じます。しかし、それは主体の身体に帰属する「素質」Geschicklichkeit ではなく、それを特定の手段に型づけした熟練 Fertigkeit であり、そのかぎりで、独自の標準化がなされるわけです。

小括

ここまで、目的意識的に欲求・必要を充足する活動という労働コア定義を、①目的設定の構造、②手段の体系化という二つの方向に拡張して概念化し、さらにこの拡張から初発に定義した労働の内部構造を分析することで、拡張された労働概念を規定してみました。できるかぎり事例に頼らず、抽象的な概念化を図ったつもりです。ここいは次のようなネライがあります。最終ターゲットは、20世紀末に顕著となった労働の変容、すなわちコンピュータと情報通信技術の発達が引きおこした労働の変容です。これに迫るには、『資本論』が典型とみた紡績労働のみならず、20世紀における機械操縦型労働をも、相対化する必要があります。抽象度を高め、労働の対象世界を拡充することで、労働の現象形態をヨコに比較するのではなく、タテに労働概念の変容というかたちで統一的に説明する下準備が今日の報告の内容でした。機会があれば、つぎは情報通信技術を原理的に分析してみたいと思います。それが労働をどう変容させつつあるのか、というメインテーマはさらにその次の話となります。

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